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Opposites attract. (正反対のもの同士は引き合う) 6

                   ◆



 つまり人は『忘れる生き物』らしい。

 過去の記憶は時間と共に薄れ、やがてゆっくりと消えていく。人はそうやって過去のことを少しずつ忘れて生きていくのだ。

 そう……であってほしいと、どこかで思っている。けれどそれは幻想でしかない。ただの願望でしかない。それは多分、『忘れた』という事実の罪悪感を希薄にするための詭弁でしかない。そうであれば美しく、そうであれば止む負えないような認識が人のどこかにあるだけだ。けれど現実はそれほど美しくはない。記憶をしまう場所はどこも出来の悪い重たい扉の向こう側なのだ。その扉は時間と共に錆びて風化し、ある日突然開かなくなってしまう。『忘れる』という現象は本来そういうものだ。まるでパスワードを無くしたフォルダのように扉が開かなくなる。実際、記憶が脳のどこかに存在している実感はあっても、データそのものを取り出すことができなくなる。そんなふうに急になくなるのが、人の記憶だ。


 つまり人は『忘れることのできない生き物』らしい。

 その記憶の扉が一向に開かなくなって、所謂『忘れた』状態になっても、記憶を構成する事実の存在までは消去することができない。あの時の出会いや、その後の別れの記憶をしまったフォルダは開かなくなっても、その存在と履歴はきちんと残っているのだ。そしてその記憶を『忘れた』自分を苛み、苦しめる。だから人は、記憶が時間と共に薄れ、やがてゆっくりと消えていくモノだと定義する。どんな記憶もいつかはそうなるのだと、自分に言い聞かせる。そうやって『忘れた』自分を擁護する。だが、それは決して悪ではない。

 記憶は人を縛り付けるものではない。人を成長させる種だ。

 だからたくさんの出会いや別れの記憶も、いつか種となってそれが芽吹き、木になり、林になり、森へと育っていくのだ。人間はそうやって大きくなっていく。開かなくなったフォルダの数だけ、人間は成長することができるのだ。その開かないフォルダの中身が存在するからこそ使えるソフトも、解凍できるデータもあるからだ。


 つまり人は『決して忘れない生き物』なのかもしれない。

 次第に上書きされていくデータの山。記憶のフォルダ自体がどこに埋もれたかわからなくなった頃、開かなくなったフォルダは突然、第三者によって開かれることになる。何気なく打ち込まれた単語は、なくしたはずのパスワードだ。突然開く記憶の扉。あふれ出てくる膨大なデータ。そうやって時々掘り起こされる『過去』と『今』とを混ぜ合わせ、常に更新と最適化を繰り返し造り上げられていく、配合も分量も造った本人すらわからないその瞬間だけ入れることのできるのオリジナル・ブレンド。

 ――それが『自分』という存在。

 大事な『記憶』というエッセンスを、最高のものから目を瞑りたくなるものまで、全部忘れずフォルダにしまってハードディスクを一杯にしていたからこそ出来上がる、現時点で最高の味が今の『自分』。

 人は精神のある生き物だから、それを構成するキーワードである記憶を忘れる訳にはいかないのだろう。自分というものを造り出すため、人は決して記憶を、過去を、忘れない。


 

 だけど人は『忘れるべき生き物』であるのかもしれない。

 この生き物は脆弱で、記憶に囚われ、過去に殉じようともする。辛い現実や悲しい出来事を、簡単には払拭できない。ともすればそのために自分の一部を犠牲にしたり、精神を傷付け壊してしまうこともある。人間は肉体より先に心が死んでしまう、数少ない生き物だ。でもそれは多分、生き物の自然な死に方ではない。

 記憶は人を殺してはいけない。記憶は人の未来を妨げてはいけない。



                   ◆



 『カーサ・エム』の定休日を使って、トオルは出かけていた。都内に向かう電車に揺られ、目指す場所まで一時間ほどの小旅行。窓の外は透き通り、よく晴れた青空だ。

 この外出の理由は確かに自分にもあった。けれど、この外出のきっかけは自分ではなかった。別にそのことに対して不満はないのだが、一抹、腑に落ちないところはある。半ば押し切られるかたちでこうなった気がするが、本当に嫌ならば断固拒否したはずだ。そうしなかったのは多分、彼女といることにトオル自身がストレスをあまり感じなくなってきたからもあるだろう。この油断すれば親子にすら間違われる年の差の少女といることに、彼は最近、案外慣れてきていた。

 それでも、やはり腑には落ちない。

 トオルは今日、何故か美純と二人で出かける羽目になっていた。彼の目指す場所は銀座だった。目的は古くの仕事仲間の店に顔を出しに行くことだった。そして美純の方にも目的があった。それは7、80年代の洋楽のCDを買いに行くということだった。そして、どうしてもそこにトオルも同行してほしい、と頼まれたのが今回二人で出かけることになったきっかけのなのだが……。

 確か、初めは『女子高生』=『得体の知れないもの』みたいな認識だった筈だ。そのうち認識は『ちょっと面白い奴』くらいに変化した。先日、関係が済し崩し的に『お抱えコック』みたいな立場になった。

 まあ、それはいい。

 しかし何故だ? どうしてかこの少女の学校帰りに待ち合わせ、隣り合わせの席に座り、同じ場所に二人で出かける羽目になったのか、その辺についての経緯は今更ながらちょっと聞いてみたいなと思う。だが、さっきから隣に座り込んだ少女は終始同じ格好で正面を直視してるし、話しかけても「エッ」とか「エッ?」とかしか言わない。

 夏に近づいたせいか、日は長くなり始めていた。まるで時間の過ぎる速度がゆっくりに変わったみたいだった。トオルは溜息をつく。別に同行させられることになった理由をどうしても問い質したかったわけではない。相変わらず窓の一点を見つめ続ける、美純。考えるのも億劫になって、自分もゆっくり進む時の流れにたゆたうようにした。次第に微睡みがどこからか押し寄せてくる。

 鼻腔をかすめる香りがする。甘い香り。記憶の中にはあって、でも深く印象には残っていない朧気な覚え。思い出せないでいる――


『……と、トオルは今度のお休みの日、予定ってあるの?』

『いや、別に。多分、ゴロゴロしてるかな』

『そ、それじゃあ! あ、あの、……い、一緒に行ってほしいところがあるんだけれど……ダメ?』

『はぁ? なんでお前と俺が出かけるんだ。友達と一緒に行けばいいじゃないか』

『だ、ダメなの!! だ、だってほら、私……む、昔の洋楽のCDが欲しくて。そういうの、トオルは詳しそうだから。そ、そんなの同じ歳の友達じゃ、何が良いのかわからないものっ』

『なんか遠まわしにジジイ扱いされてるみたいで、痛いんだが……』

『ち、違うもん、バカッ! そんなんじゃ、ないもん!!』

『くくくっ……いいよ、わかったよ。じゃあ、ついでに俺の用事にも付き合ってくれ。そうしたら、メシくらいは奢ってやるからさ』

『エッ?! い、一緒にごはん、食べるの?』

『嫌か?』

『い、嫌じゃない! 嫌じゃないっ!!』

『ははは、わかったよ。別にそんなに興奮しなくたって……』


 記憶がうっすらと蘇る。

 そうだ、きっかけは彼女でも、半分は自分が原因みたいなものだ。今更理由なんて思い出せないが、トオルの方から食事の誘いはした。何故だ? もう溺れかけの微睡みの中、答えは見付からなかった。ただ、もう一つだけ思い出したのだ。

 

 この甘い香りは彼女のものだ。そう、どおりで心地よいはずだった……。

  

 


 

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