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Opposites attract. (正反対のもの同士は引き合う) 5


 留利子は美純の姿を見付け最初驚いていたが、すぐに教師らしい顔つきになる。

「四方さん、あなたこんな時間にこんなところで何をしているの?」

「う、うぇぇ。センセーこそ、なんでこんなところに来てるのよ~」

「そ、それは……そんな事、私の勝手よ!」

「うぅ……。じゃあ、私も勝手で……」

 ぶしぶしと小声で言う美純を、留利子は一喝する。

「そうはいきません! 未成年がこんな遅い時間にお酒を飲むような場所にいるなんて、だめよ。間違ってるわ」

 さすがに見かねたトオルが助け舟を出した。

「まあまあ、大庭さん。その子のことは僕に免じて許していただけないでしょうか?」

「えっ?」

 美純の方に向けられていた視線がトオルの方に変わる。そうすると、キッとしていた眉がやや柔和に変わる。美純は追い詰められたネズミみたいだった表情をホッとした顔に変えた。トオルは穏やかな笑顔を作って留利子を説得にかかる。

「四方さんはうちの大事なお客様なんですよ。彼女のお母さん、それからお姉さんにもよくしていただいてるんです」

「でも、だからって未成年がこんな時間に出歩いているのを容認するわけにはいかないでしょう?」

 留利子の意見はもっともだった。けれど、トオルの笑顔は濃度を増す。彼女の言葉を理解しつつも、同調はしないという『暗の否定』の空気を発する。

「留学していったその子のお姉さんからの頼みで、僕が美純さんの面倒をみるよう言われてるんですよ。まあ、そうはいっても主に食事の面だけなんですけれどね」

「はぁ……」

「今日はちょっと店の方も慌ただしかったから、それで彼女の夕食を後回しにさせてもらったんです。美純さんも『授業の復習をするから構わない』って言ってくれたから、甘えちゃって。結局、バタバタしてたらこんな時間になってしまいました。すいません、今後は気を付けます」

 トオルは軽く頭を下げる。そうするとカウンターの向こうから小さなため息が聞こえてきた。留利子の妥協の音だった。

「……もう。わかりました、そう言われるなら今日は目をつぶりますけれど、シェフもあんまり遅い時間まで彼女をここに居させないで下さい。なんと言われても、この子はまだ高校生なんですから」

 そう言うと、ずっと立ち尽くしていた自分にようやく気づいたように留利子はカウンターに座った。瑠璃の一つ開けた隣の席に腰を下ろした。

 トオルは留利子の言葉に素直に頷き、もう一度笑顔を作って『暗の肯定』を発する。場の雰囲気は平静を取り戻したようにみえた。

「でも、四方さん。あなた、私の知らないところでは結構優等生なのね。先生、ちょっとびっくりしたわ」

「…………」

 が、やや脚色が過ぎたらしい。美純はさっきまでとは別の理由で、また追い詰められてしまう。瑠璃を挟んだ隣で身を小さくし、少しでも被害を抑えようとする彼女の、たっぷりと怨念のこもった視線がトオル目掛けて飛んできた。トオルはそれを気付きつつも何気なくかわし、留利子の注文を取りに向かうのだった。

 と、いっても彼女のオーダーは大概いつも一緒なのだが。

「大庭さん、いかがいたしますか?」

「じゃあ、いつものをお願いします」

「はい、かしこまりました」

 そしてそれは今夜も変わらない。彼女の前に用意されるのはチーズと生ハム、バーニャカウダ(北イタリア風の野菜スティック)が少しずつ盛られたひと皿と、ハーフボトルのシャンパーニュ……。

 『カーサ・エム』のワインリストには、普段シャンパーニュのメニューは載せていない。だからこの一本はトオルが留利子のために用意している特別な一本だった。留利子は隔週金曜の夜に、ほぼ必ず『カーサ・エム』を訪れては、今日までの自分へのご褒美を欠かさないのだ。そのサイクルを変えることなく、常に一定のリズムで生活することで、ヴァイタリティーを保つタイプの女性らしい。

 カウンター越しのトオルによって注がれた液体から昇るシュワワときめの細かい泡が、グラスの中を下から上へとたゆたう。その一粒一粒を留利子はぼんやりと眺める。日頃の疲れやストレスが頭の先のほうから蒸発してゆく。出ていったのを補填するように幸せのエキスが埋める。留利子の癒しのサイクルが今日までの彼女を労い、明日からの自分に活力を与えてくれる。そしてゆっくりとグラスを傾ける。

 留利子は女性にしては珍しく食事のあいだに言葉をあまり挟まない。かといって黙々と食べるわけでもなく、まるで一口一口を慈しむように食べるのだ。咀嚼の回数も驚くほど多い。トオルは決して客を注意深く観察するようなことはしないのだが、それでも他の客と大きく異なる行動を取る人間というのは目を引くものだ。初めて気付いたときは随分と違和感を感じた。

 あるときトオルは、思い切って訊いてみたことがあった。「留利子さんって、本当に大事そうに食べますよね」、と。すると留利子は『食べる』という行為に対しての彼女の強い思いを語ってくれた。それは彼女の信念と呼べるくらいのしっかりとしたポリシー。よく噛むこともそうだし、慈愛に似た表情で物を食べるのは『出処の知れた安心で安全な食物を食べることが出来る満足感』から無意識ににじみ出た彼女の心情なのかもしれない。

 彼女は、幼い頃にアレルギーに苦しんだ時期があったという。それを乗り越えることができたのは、無農薬の作物や安全性の確認された食材だけを選んで摂取するよう心掛けたかららしい。

「ちゃんとしたものを食べることから健康な体が始まるんだと、私は信じています。実際、私がそうだったから。だから安全な食材を美味しく食べることができるのは、とても幸せな事だと思うんです」と、留利子は言う。『カーサ・エム』で扱う食材は厳密にすべての材料がそうかといえばそこまでではないのだが、今、留利子が食べているものに関しては生産者の顔のわかるものばかりだ。また、良い食材を選ぼうとすれば自ずと出処にこだわるようになり、それが結果的には安全で安心な食材を仕入れることにもなっていた。 

「今日のお野菜、とっても美味しい。これはどこで採れたものなんですか?」

「人参と蕪は京都のものです。トマトが北海道。あとのものは地元の直売所で買いました」

「新鮮だからかしら? 野菜がとっても甘い」

「そんなふうに言ってもらえると、農家さんもきっと本望だと思いますよ」

 

 しばらくして美純が逃げ出すように帰っていった。それから一時間くらいか、シャンパーニュと食事を楽しんだ留利子も満足そうに帰っていく。そうして店内には瑠璃とトオルが残った。

「……相変わらず、固めの性格な女は苦手か?」

「別に。そんなんじゃないわよ」

「そうか? お前、あの人が来たら一言も口をきかなくなったじゃないか」

「うるっさいわね。……ただ、話すのが面倒なだけよ。他に理由なんてないわ」

 トオルの言葉に、不機嫌な顔で答える瑠璃。

「もう、いいからさっさと店閉めちゃいなさいよ! そっちとこっちじゃ落ち着いて話も出来ないわ」

「おい。営業妨害もいいところだな」

「十分稼いだでしょ。今夜はもう、終わりよ」

「相変わらず、勝手な奴だな」

 あれだけたっぷりと喋り倒しておいて、『落ち着いて話せない』と言えてしまうところがまた瑠璃らしさだ。トオルは小さなため息を付くと、入口の明かりを消し、看板をCloseにした。瑠璃はまだまだ話す気らしい。夜は、長い。トオルはエプロンをカウンターの端に放り投げると、冷蔵庫から小瓶のビールを二本取り出し、蓋を開けた。瑠璃の隣の席にどすっと腰掛けると、持っていた一本を瑠璃の顔先にズイっと突き出す。

「サンキュ」

 瑠璃は受け取った瓶でトオルの持つ瓶を小突いて乾杯した。コチ、と低いガラスの音が鳴る。そして二人はビールをあおる。

「戻ってきたの、三ヶ月ぶりか? 今回はどのくらい居るつもりなんだ?」

「決めてないけど、でも、もうすぐじゃない?」

「何が?」

 怪訝な顔でトオルが訊ねた。

「忘れたの、真由子の命日……。それまではいるつもりよ」

 表情が、少し曇る。

「そうか。もう、四年も経つのか……。早いな」

「そうね。時間が過ぎるのは早いわよね」

 それから、しばらくの沈黙があった。再び言葉を発したのは瑠璃の方で、そのあとはまた相変わらずの内容がトオルを振り回した。夜は、長い。けれどもトオルは、ゆっくりと過ぎる今この瞬間の時間とは別に、あっという間に過ぎていく時の流れを感じていた。

 そして、もう一つ。

 その過ぎ行く時の流れの中に、少しずつ置き忘れていくように薄れていく記憶についても考えていた。

 自分は少しずつ忘れて始めているのだ。

 

 真由子の事を――。

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