Opposites attract. (正反対のもの同士は引き合う) 4
瑠璃は一年の半分を日本、もう半分を西ヨーロッパで生活する行動派な女だ。日本にいる間は都内にある彼女の実家に、海外にいる間は各地で小さなホテルやホームステイ先を見付けて生活している。語学に堪能で、英語、フランス語、イタリア語、スペイン語、ドイツ語を使いこなす。そのどれもが知識ゼロのまま行った現地での実践のみで覚えた『現地語』だった。おかげで『日本人的』な語学に長けた人間に聞かせると、かなりドキッとする単語や文法が雑じる乱暴な会話らしい。
が、彼女にとってそんなことはどうでもいいことで、瑠璃はどの言語にしたって一番重要なことが何かをよく知っていた。それらはどれもただのコミュニケーションのツールの一つに過ぎないのだ。自分の言いたいことを伝え、相手の意図をくみ取ることができるのなら、彼女にとって話す言葉が何語であっても構わない。もっと言えば、それは言葉でなくてもいいのだ。
そのため彼女は言葉と同じ高さで、自分の考えを伝えようとする溢れるほどの情熱と、足りない分を補うための表情を使いこなす。それら全てが融合されて始めて彼女にとっての『外国語』が出来上がる。だから『マルチリンガル』なんて呼ばれるのを彼女はことさら嫌った。自分はコミュニケーションを取るために必要だからやっているだけだ、と強く主張する。
そんな彼女の生業は、ヨーロッパの雑貨や小物、それに家具を日本に輸入、販売するインターネット・ショップの経営だ。最近のデザインのお洒落な雑貨や小物から、現地でも珍しい19世紀頃の装飾が施された価値ある家具などの優れた品々を、彼女自身の足で歩き回り探し出してはネットで紹介し、買い手があれば輸入するのだ。日本国内と海外に数人ずつの従業員を抱える程度の小さな会社だが、年収一千万は下らないやり手の若手経営者として、彼女は日本のテレビや雑誌に取り上げられたこともあった。
本人はそう思っていなくても、世間的には泉瑠璃という女は成功者だ。
しかしその彼女がどうしてか、この都会ではない街の小さなイタリアンにやってくる。
しかも、さすがにスーツケースを送り付けてきたりまではしないものの、日本に戻ると必ずと言っていいほど、両親のいる実家に帰るよりも先にトオルのところへやってくる。まるでここがホームベースかのように真っ直ぐに目掛けてやってくるのだ。もう何年も、ずっと変わらず。
彼女が自分のことを親友だと思ってくれているのを、トオルはよく知っていた。若い頃共に色々な経験をし、苦労も一緒に乗り越えた仲だからこそ今もこうして慕ってくれているのを、彼はよくわかっていた。
だが、トオルは瑠璃が苦手だった。
――いや『瑠璃が』というより、彼女がいることで頭をよぎってしまう『過去の記憶』の方が苦手なのだ。忘れようと心に決めた記憶が、苦楽を共にした頃の思い出と一緒に蘇ってしまうのが、辛いのだ。
そこには互いに夢を語り、挫折し、それでも励まし合った、トオルと瑠璃と彼女の姿があるから――。
心の奥底に仕舞い込んだ、彼のもう一人の親友の面影。
それが、辛いのだ。
瑠璃はよくしゃべった。
パスタなんて普通のコックが作れば10分程度でできるものだ。そして彼女はその10分のうちに、ゆうに10日分くらいの出来事をしゃべり尽くした。出来上がったウニのパスタは話題を遮る邪魔者みたいな扱いを受けて、ものの一、二分で彼女に飲み込まれてしまう。トオルはその会話の量と、出来た料理の扱いにげんなりしてしまうのだ。が、彼のそんな様子には気も留めず、瑠璃の話題は尽きない。
そのうちに『カーサ・エム』にもパラパラと夜の来客が入り出す。慌ただしくなるトオルを引き止めるのは諦めた瑠璃が、次の話し相手に捕まえたのは美純だった。
カウンターの一つ空けて座っていた席を隣に移し、それで完全に追い詰められた美純を相手に再開する会話。最初こそ迷惑そうに眉をしかめていた美純だが、驚くことに次第に二人は意気投合し始めた。そしていつの間にか美純は瑠璃の話に夢中になっていた。瑠璃の話すヨーロッパの国々の話。そこでの生活、日本との文化や習慣の違い。歴史や宗教によって変わる建築や装飾のデザイン。それらを瑠璃は実体験もまじえ、淀みなく流れるように話していく。美純はそんな瑠璃にどんどん惹かれていった。目の前の女性に憧れのような視線を送る彼女の手元で、忘れ去られたメインディッシュの牛フィレがどんどん温度を失っていった。いつになく熱心な聞き手を得た瑠璃の話題は、一層熱を帯びていった。
そのうちに、なんのキッカケから出てきたのか話題はトオルとの出会いや昔話になっていた。
共通の友人でもない限り、普段、そんな内容の話はすることがないものだから、瑠璃の話題は更に弾む。彼との出会いがスペインのバルセロナであったこと、瑠璃自身はその時絵画や彫刻を学ぶために留学していたこと、なかなか言葉の壁を破ることができなかったトオルを、毎日のように連れ回し言葉の実地訓練を繰り返したことなど、瑠璃は当時を懐かしむように話す。話題にトオルが出てくるものだから、益々美純の興味は惹きつけられ、彼女は次第にあれこれと問いかけるようになった。それに答える瑠璃にも熱が移り、会話はもう止まることがなかった。
「あいつはもう、ほんっとうにガキでさ。いっつも夢ばかりみてるかんじなの。『お前は今も寝てるのか?!』って思うくらいでさ。現実がスッポリなくなっちゃってるみたいな男だったんだよねー」
「へーっ……」
「サッカー、サッカー、サッカー、サッカー、サッカー、でさ。あたしに『ナントカ』って選手のすごいところを並べ立てたりするわけよ。でも、知らねーつーの。聞いてるのも面倒で、へーへー流してたら今度は急に文句を言い出してさ。『お前、バルセロナに住んでるのに、サッカー興味ないのか?』って。……お前基準で世界を造るなー、ってさっすがにその時はキレちゃった」
「へーっ。なんか、今からは全然想像つかない」
「多分、あいつがオヤジになったのよ。男はきっと女より速く歳をとるんだわ。だから寿命も短いし」
「あー」
「ちょっと、今の半分は冗談よ……」
「う~ん……」
「……笑わないの?」
瑠璃はそのままトオルの過去を話し続けた。彼が必死になってサッカーに打ち込んでいたことや、結局夢やぶれて苦悩した時期のことを語ると、美純はちょっと鼻を鳴らしながら聞き入った。そうしてたっぷりと一時間以上は話していただろうか。瑠璃はようやく満足そうにトオルのいれたエスプレッソを口にしていた。
とうに日は暮れ、窓の外には夜の帷が下りていた。いつの間にか『カーサ・エム』の中も落ち着きを取り戻し、穏やかな食後の空気で満たされていた。
トオルは美純から掛けられたいくつかの質問で、瑠璃が自分の過去のことを話したことに気付く。別に彼女に対して口止めしたことはないが、あまり話されて気持ちのいいものでもなかったので、トオルはちょっと不機嫌な顔をした。しかしこの古くからの友人がそんなことで悪びれるはずもなく、案の定トオルの様子に気付いても別段気にする素振りもしなかったので、トオルはため息をついた。
瑠璃が急に立ち上がったので「帰るのか?」と訊くと、「トイレよ。女性に対して失礼じゃない?」と口を尖らせて返してくる。やっと厄介者を追い払えると思ったトオルが再び溜息したので、その表情を見付けた瑠璃は、もう少し長居してやろうと意地悪な決心をした。
だいぶ時間が過ぎていた。普段だったら美純はとっくに家に帰っている時間だった。だが刺激を受けて活発になった少女の興味が、彼女を『あと少しだけ』と椅子に縛り付けているのは明らかだった。トオルは頭をかいた。一体、どうやってこの二人を追い払おう、と。
その時、ガチャリと入口のドアが開く音がした。
「いらっしゃ……ああ、こんばんわ」
と、トオルが馴染みの客にする挨拶をし、
「こんばんわ。ご無沙汰して……えっ、ちょっとあなた、四方さんじゃない?」
と、入ってきた女性がちょっと驚いた声を上げ、
「えっ? ……え、ええー、留利子センセー?! なんでこんなとこにっ?」
と、さらに驚いた美純が大声を上げた。
Opposites attract. ――――大庭留利子――――
彼女は『カーサ・エム』のすぐそばのマンションの住人だった。そしてトオルは知らなかったのだが、四方美純の高校の教師でもあり、彼女の担任でもあった。




