Opposites attract. (正反対のもの同士は引き合う) 2
美純はカウンターで料理が出来上がるのを待つ間、携帯電話でメールを打っていた。
時間が早いこともあり、『カーサ・エム』にはまだほかの客はいない。彼女は最近の自分の定位置である、カウンターの一番右端の席に座っていた。鼻歌はどうもご機嫌のあかしらしく、それが出るときはいつも決まってニコニコとしていた。歌っていることを指摘すると「えっ、また歌ってた?!」と驚くことすらあるのはもう『美純らしさ』を構成する特徴のひとつだと認識することにしていた。この子は相変わらず、ちょっとほわわ~んとしたところがある。これは多分、気を付けたところで治らない部類の性質だろう。
美純は、よく笑うようになった。
自然と笑顔が綻ぶ。振り向くとまず笑う。話していると目を細める。口角が自然と上を向いている。
――これこそが本来の彼女の性質だったのだろう――というのは、容易に推測できた。今までは心理的な規制や束縛がそこに働いていたのだろう、まるで笑顔は求められたときに作って出すもののようにぎこちなく後付されていたのが、今では彼女の代名詞であるかのように溢れていた。
そうなったのは、美純にとっての『天敵』であった姉が今はこの国内には居ないこということも、確かに理由のひとつに違いない。が、それよりももっと大きな笑顔の要因は、大好きな姉と手探りながらもゆっくりと心を通わせ合えるようになれたことのほうだろう、とトオルは思う。
美空は今、カナダにいる。
トオルが彼女とここで話しをしてから、まだほんの数週間しか経っていない。けれど彼女はそう『宣言』してから、たったの2週間弱でこの国を離れていってしまった。
『私、留学しようと思うんです』
彼女のようなしっかりとした女性にしたって、その手際のよさだけでは説明つかないほどの速さで準備を整え、そして美空はあっという間に飛んでいってしまった。今となって考えれば、きっと何かの下地は彼女の中でじんわりと準備されていたのだろうと思う。表面化していなかっただけで、頭の中では希望や欲求が溢れていたんじゃないだろうか。
厳格でリアリストだと音に聞く父、四方宗太郎を説得し、美空は新しい自分を見出そうと変化を始めたようだ。
「父は、すぐに理解してくれました。……ううん、むしろ快諾してくれて、援助は惜しまないとも言ってくれたんです。私、父のことを誤解していたかもしれない。もっと反対されることを覚悟していたのに、『そうか。頑張ってきなさい』って、たったの一言で済まされて……なんだか拍子抜けしちゃった」
あの日、そのことをトオルに報告に来た美空は、随分と明るい表情でこう言っていた。その姿を半歩後ろから見詰めていた美純の顔も、同じくらいに明るく輝いていたのを覚えている。
彼女達はその日、初めて二人揃ってこの店を訪れた。いつもは姉の視界から少しでも逃れるようにちょっと離れて歩く美純は、しかしこの日は違っていた。姉が彼女のために開けた扉をくぐって、そして美空が自分の隣に来るまで入口のこっち側で待ってから、二人して店内に入ってきた。
それは<当たり前の家族の姿>であり、<当たり前の姉妹の風景>だとトオルは思う。ただそれが、どの家庭でも同じように簡単に手に入るのかは別として。
「――私は自分に与えられた環境を大事にしたい。四方の家は国内外問わず、多くのお客様が訪れます。今以上にもっと多くの方とコミュニケーションが取れたら……それは私にとってとても重要な事だと思うんです。学ぶ機会があるのなら、今はそれを最大限に活かしたい。もっともっと多くの人と会って、言葉を交わしていきたい。だから、私はこの国を出て自分のために時間を費やそうと思うんです」
カナダへの留学の理由をトオルが訊ねると、美空はそう答えたのだった。そして、そう言った美空の姿は凛としいてとても美しかった。これまでも何度もそう思った事はあったのだが、今回はちょっと質の違った意味でそう感じた。まるで羽を広げた鳥のように、その美しさの全貌を表したかのようだった。
「今日は、お礼とお願いに来ました。……色々とお世話になり、ありがとうございました」
「そんな。別にお礼を言われるような事は何にもしてないよ。実際、おっさんの小言につき合せただけだし」
トオルがそう言うと場は和み、トオルも美空も美純も笑った。三人とも自然な笑顔で笑い合えた。
「美純に対しての『考え方』は今も変わりません。でも、美純との距離感は変えたい……。私は、彼女の姉です。でも、それを私は忘れてしまっていたんだと思います。自分のことで一杯いっぱいになって、家のことに縛られて……その負荷のうまく処理しきれなかった部分を、最後はいつも彼女にぶつけていたんだと思います。私達は姉妹なんだから、苦しかったらお互いに音を上げればよかったのに。愚痴を言い合って、いっぱい話し合って、それで笑い合えばよかったのにな、って思ったんです。――今更、なんですけれどね」
美空が今ではなくここではない何処かをじっと見つめながら、丁寧に言葉を紡ぐ。
「そう。……でも、今更ってことはないよ」
呟くように小さく答えた。トオルは美空が紡いだ言葉を、彼の言葉で正しく変換しなおす。『四方家の二人の少女のため用』の柔らかい言葉に置き換えると、穏やかな口調でもって言う。
「みんな、何が正しいのか模索しながら生きてるんだし。正しいと思って選択した道が、実はかなり間違ってたりすることもいっぱいあるし。実際のところ何が正しいのかなんてわかる人間は、きっと世の中を探しても一人もいないんだ。でも、正しくない人間ってのがどんなのかは、多くの人がわかってるんだよね」
「えっ……?」
「間違ってると気づいたときに、反省して、正しいことを模索できない人間。間違ったことを認められない人間。こういう人間はもう、救いようがないからね。だから『今更』って言葉は、多分、今の君達に使う言葉じゃないんだ。……きっと」
トオルが作る料理をカウンターで横並びに座って食べる二人の姿は、紛れも無く姉妹だった。
彼女達は二人の会話を楽しみ、時折交ざるトオルとの会話を楽しみ、カウンターで過ごす時間を楽しんだ。日が暮れ、二人が店を出ようという頃には、美空はちょっとほろ酔いだった。余程気分がよかったらしく、上機嫌でカラカラと笑っていた。そんな普段とは違う姉の姿を初めて見たのだろう、美純はちょっとだけ不安そうにして姉の手を握り、体を支えていた。
空気が――――あたたかだった。
美空は最後に一つ、トオルに頼みを訊いて欲しいと言った。
「美純には、一人で食事をさせたくないんです。うちには私が居なくなればほとんどはあの子しか居なくなってしまう。父と母は普段、家で食事をとることの少ない人達です。あそこには食事を作る人間もおりますし、後片付けをする人間もいます。けれど、同じ席で食事を楽しむ人間はいない。そんな冷たい食事ばかりさせたくはないんです。……だから、毎晩とはいいません、でも週に3、4日はここであの子に食事をさせて上げたいのです。どうか、お願いできないでしょうか?」
アルコールのせいか、しっとりとした表情で申し出る美空の目は、ほんの少しだけ潤いを帯びているように見えた。ああ、とトオルは思う。この子はたったのこれだけで世の男性の多くを攻略してしまうタイプだ、と。プライドの上に固く張った緊張感で近寄り難かった前と違い、求めたり甘えたりできるようになってしまえば彼女は強い。多くの人が努力で培う『魅力』を、彼女はもともと人より多く与えられて生まれてきた部類だ。
「構わないですよ。うちはこれで常連を一人、つかまえたことになるし。カウンターのひと席は毎晩彼女のために取っておきます」
美空は弾けるような笑顔をみせた。
「ありがとう。わがままなお願いで、ごめんなさいね」
「いいえ、ご心配なく」
その隣でようやく会話の意味が理解できたらしい少女がかぶりを振った。
「ちょ、お姉ちゃん! そ、そんなことしなくってもいいよ。私、一人だって大丈夫だからぁ」
「別にいいじゃない? 来たくない日は、こなければいいんだし」
「でも……」
美純がちらっとトオルの顔を覗いてきたので、彼は反射的に口角を上げて笑顔を用意した。すると、それにちょっとびっくりした美純が慌てて顔を伏せてしまう。
「私は別にいいけれど……ねぇ、美純――」
美空がそんな美純に顔を近づけて、何か耳打ちする。途端に美純が振り返って「嫌ッ!」と声を上げた。
「そう、残念……。あなたがそうじゃないのならって、思ってたのになぁ~。私、こんなに気を許せる人って、あんまりいないの」
「だ、ダメッ! お姉ちゃん、ずるいよぉ~!!」
「ふふふ。冗談よ」
「もう、……嫌い」
やり取りの内容まではよくわからなかったが、どうやら美純がここに食事に来るのは決定らしい。気づけばいつの間にかお抱えの栄養士扱いだ。まぁ、別に自分は困るわけでもないし、売上にだって貢献してくれるのだろうから、店にとってはむしろありがたい話だ。
それからしばらくトオルと言葉を交わし、その後二人は店を出ていった。
美空と会うのはこれっきりしばらくないのだろうなと思い、彼は入口から出てしばらく姉妹を見送る。
店にいる間はあんなに仲が良さそうだったのに、帰りの二人は何故か仲が悪くなっていた。むくれる妹をなだめる、優しい姉の姿がゆっくりと遠ざかっていった――。
美純はだいぶ長いメールを打っていた。
「なんだ、随分と長く打ち続けてるけど、誰にメールしてるんだ?」トオルは何気なく彼女に訊いてみる。
「え~、別に?」美純は気のない返事だ。
彼女のためのサラダを盛り付けながら、トオルはちょっとだけ意地悪な言葉をかけた。
「……そうか、彼氏だろう? 悪いヤツだな~、美空に言いつけてやるぞ」
「ち、違うもんッ!!」
ギョッとした顔をして、美純が慌てて立ち上がった。
「そんなんじゃない、お姉ちゃんだもん! 変なこと言わないでよ、バ、バカッ」
「くくくっ、バカとは酷いな。でも……逆にそんなふうに大袈裟に否定するのって、怪しくないか?」
トオルは一度手を止めて、そして彼女を覗き込む顔をわざと疑うような表情にする。
「なぁ、美純。ほんっとうのところは、彼氏なんだろう? いいぜ、美空には黙っててやるから正直に言ってみろよ?」
すると美純は突然真っ赤な顔になって、何故かびっくりするくらい張り上げた声がトオルにやり返した。
「彼氏なんて、いないもんっ! バカッーー!!」
ドスンッ、と激しく音をさせて椅子に座り込む美純。そしてまた携帯の画面に向かってにらめっこを始める。何故か不貞腐れたような顔をして、再び携帯の画面を指で触り、そしてたまに荒っぽく叩く。
そこまで怒らせるつもりはなかったんだがな……とトオルは嘆息した。急に不機嫌になった美純に、彼は自分のちょっと過ぎた意地悪を反省するのだった。