Opposites attract. (正反対のもの同士は引き合う) 1
70年代のメロディーが流れる。
――憧れと理想だった『おと』。自分が生まれた年の頃に流行ったこれらの曲を、リアルタイムで聴いていたことなんて当然ないに決まってる。
その曲が歌われた頃の時代背景や歌った人の想い、願いなどを知識として持っているわけでもなく、自分の親くらいの人間が歌っていた曲だ、『等身大』なんて言葉が当てはまるはずもない。
中学生くらいだろうか。
部活動での先輩後輩の関係で年の差を意識するようになると、一つ二つ上の先輩達のそばには、なんとなくその曲があった。一歩でも速く大人になりたい彼らの精一杯の背伸びだったのだろうが、まだ子供だった自分には輝いて見えた。大人達のように、それらの曲を身にまとった彼らを羨ましく思い、憧れた。今ほど演奏技術も機械技術も発達していたわけじゃない時代、ギターやベースで創るシンプルでストレートなメロディーにのせて、ボーカルのハスキーな声が何かを叫んでいた。俺はこうだ、と。お前らは間違ってる、と。もっと世界は平和であれ、と。多分、10代の頃の認識はそんなものだろう。カメラのフラッシュにあてられたみたいに、頭のどこかにそんな響きが焼き付いた。
時代が過ぎ、大人になってもそれらの曲は未だそばにあった。社会に出たての自分達は、右も左もわからずに悩み、苦しみ、そして酒を飲み、そこに再び曲があった。あの頃と比べ、歌詞も、想いも、いくばくか理解できるようになった自分にあらためて訴えかけてくるのだ。自分はこんなもんじゃないだろう、と。明日はきっと変わる、と。夢はもっと大きく持っていいんだ、と。弱った心に手を差し伸べ、支えてくれた。前へ進む活力と希望を与えてくれた。
今、それでもまだその曲は隣にいる。
共にこれまでを戦った同士として。苦楽を共にした伴侶として。まだ捨てきれない未来や夢を語る友として、そこにいる。歌詞とは別に曲が持つ固有の空気や、歌い手の生き様みたいなものを通して何かを語りかけてくる。あの瞬間に流れていた、思い出深い大切な一曲……。激しく生き、そして若くして逝ってしまった稀代のシンガー……。曲も自分達と同様に歳を重ね、長い時間を生きてきたのだ。そして色々なことを経験して、変わり、成長した。昔とは違う、新たな説得力みたいなモノを身に付けてきのだ。
多分、そういうことなのだと思う。あの時代の曲が色あせていかないのは。今も、耳にするのは。自分達より下の世代にもまだ受け入れらているのは。
それは等身大の自分を唱う曲にはない魅力。時代と共に姿を変える人間の叫びなのか、想いなのか。そんなものが根幹にあるからなのかもしれない。
時代は変わった。心に残る曲は希少になった。思わず口ずさむメロディーは、数えるほどもない。等身大の自分は明日にでも心変わるのだ。等身大の曲たちはそれにまた新しいメロディーと歌詞で応える。音楽は今や消耗品。心に残る曲が生まれるための土壌は、もう何年も手を入れていない硬い土だ。種を撒いても根は張らず、水を撒いても芽は出ない。
今日の『カーサ・エム』のカウンターには70年代のあの曲のインストゥルメンタルが流れる。
そしてカウンターには、それを口ずさむ声が静かに響く。
鼻歌で、気持ちよさそうに唱う声。きっと彼女はその曲を知らないはずだ。ところどころ音をずらしながら、それでもその曲は続く。時代が変わっても、メロディーは生き続けるのだと証明するみたいに。
美純のその鼻歌は軽やかに心地よい音色のまま、ずっと続いていく。