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No rain, no rainbow. ≪涙≦笑顔≫ 1

 こんな漫画のキャラクターがいてもおかしくはないだろうと思うが、いざ自分がそうだったとわかるとなんとも言えない気分だった。

 頬に走る派手な傷跡が痛々しく、あの時美純が見てびっくりしていたのはこれかとトオルは頷いてしまう。鏡に映る自分の顔の前でじかに傷に触れてみるとまだひりひりと痛い。

 右目の下あたりから顎に向かって擦り切れた傷跡は、血が固まって見た目も赤黒い色になっていた。

 正直、かなり目立つ。

 昨日の夜というか今日の朝というのか、ともかくトオルは帰宅するなり早々に寝てしまった。

 朝は慌ただしくシャワーだけ浴び、家を飛び出した。朝食は週に三度はお世話になる某ハンバーガーショップで朝のセットを購入する。いつもの店員さんがカウンター越しに「おはようございます」と声をかけてくるので、トオルも同じように「おはよう」と返す。

 週に何回か、同じ時間に何年も通い続ければ、いくらマニュアル重視のチェーン店だって『いらっしゃいませ』の後が『今日は何になさいますか?』から『いつものでよろしいですか?』に変わるくらいの関係にはなっていた。

 それは確かにあくまでカウンターを挟んでの『店員と客』というシチュエーション限定の間柄であって、もし道端でばったり会った時にはむしろ気まずくなってしまう程度の希薄な仲なのだが、まぁそんな自分と店員との間は、けれど今朝に限ってカウンター越しであっても妙によそよそしい空気だった。

 その時初めてトオルは、自分の顔の違和感に気が付いた。

 店員の視線が如実にものを言っていたのだ。

 言うべきか、言わざるべきか。

 笑ってやった方がいいのか、触らないのが吉なのか。

 そんな目で俺を見るのはやめてくれ、とトオルは無表情の圧力で返すだけだった。

 しかし、この歳になれば顔の傷なんてみっともないだけだ。それにこんな派手な傷となればもう、ただの恥ずかしい中年男子だと思われてもおかしくはない。

 そして、そんな傷跡を見て高らかに笑う男がここにいる。

「はははっ! お前、それはないだろっ。なぁ、ちゃんと自分の顔、見たか? はははっ!!」

 まったく遠慮なしな笑いが、オープン前の店内に高らかに響き渡った。肩と白髪交じりの頭を一緒になって派手に揺らし、トオルに向かって指を差している。

 カウンターに腰かけて煙草をふかしながらバンバンと膝を手で打ち大笑いする男、平井哲平。42歳。

 この『カーサ・エム』のオーナーで、つまりトオルの上司である。

「おいおい、今どきの30歳は深夜にチャリをぶっ飛ばしてこけるもんなのかよ?」

「哲さん、俺、34ッす……」

「はははっ、だからなんだよ!? 弁解にもなってねーぞ」

「まあ、おっしゃる通りなんですけどね……」

 煙草をくゆらせながら、さっきからずっと笑いを洩らしている哲平を、トオルはちょっと恨めしそうに見た。

 実際、彼が恨めしいのはいつまでも顔の傷を笑う大人気ない上司の方ではなく、煙草の方だ。

 結局、満足な睡眠時間は取れなかったから、頭を覚醒する刺激が何かほしかったのだ。

 そういえば、前に哲平はトオルが禁煙することにしたのを聞くと「そうか、今日からお前も敵か」なんて言って、それからちょっとも遠慮するどころか、逆に盛大に目の前で吸うようになったのを思い出す。

 『カーサ・エム』は普段は完全禁煙の店なのだが、オープン前のこの時間、哲平だけは治外法権だった。

 そのせいでトオルはほぼ毎日、鬱々とした気分で営業を始めることになるのだ。哲平にしてみたら、気に言った人間にちょっと悪戯をする程度の愛情表現のつもりのようで、しかしだからこそ尚性質が悪いのだ。

 それでもトオルにはどうすることも出来ないので、今はもう諦めていた。

 とはいえ、哲平のそんな子供みたいなところが実はそんなに嫌いではなかった。

 哲平はしばらく煙草とトオルの傷、そして出されたエスプレッソを満喫してから、最後の一服を吸い終えると「それで……」と来週末に予定していた宝石店とのコラボ・イベントの話を始めた。

 土曜の夜、店内を貸し切って行う予定のイベント。

 『カーサ・エム』の店内全てをつかっての宝石・アクセサリーの販売会。購入者には宝石店側からという名目で『カーサ・エム』の料理が振る舞われるこのイベントは、今回で5回目の開催となる。

 きっかけは、哲平が彼の友人のアクセサリーショップオーナーに話を持ちかけたことから始まった。第一回目が大好評だったおかげで、それからふた月に一辺のペースで定期的に行われるようになったのだ。

 派手な買い物をして満足げな顧客が、シャンパンを傾け豪華な食事で愉悦に浸る。

 やりたくてもそれに応える環境のないこの『都会じゃない街』では、ニーズはあっても実現できなかったことだ。

 それを見抜き、形にする。簡単なようでいて難しいその第一歩を踏み出すのは、きっととても難しかっただろうと推測するに固くない。

 だが、哲平は見事にやってのけたのだ。

 トオルの料理とサービスを使って、顧客を満足させる。

 顧客が「また……」となれば次のイベントを企画すればいいし、顧客はイベントとは別にも「『カーサ・エム』を利用することだってある。そんな中の何組かは、今では大切な常連客の一人だ。

 『Win&Win』の関係を作り出すこと。

 哲平の本業は運送業の社長だ。

 『カーサ・エム』は彼が人から譲り受けたもので、副業的なものだった。けれど、彼の発想は畑違いの業界に対し独創的且つ理にかなっていて、おかげで『カーサ・エム』の経営は今、順調だった。トオルは、そんな哲平の優れた経営眼に憧れを感じていた。

 彼の下でもうすぐ4年。今も変わらず彼の下で働き続けているのは、そんな哲平という人間の魅力によるところが非常に大きかった。

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