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Jewel ≪空色の宝石≫ 13

 トオルも倫子も別に埋まっているものを掘り起こしたいわけではなかった。

 だから、自分達から訊ねるつもりなんて毛頭ない。

 美空が本当に必要だと感じたならば、自分から吐き出せばいいのだ。それをどうしても誰かに聞いてほしいと思うなら、耳を傾けてやることはできる。

 彼女にとって一番必要だったのは、固く張り付いてしまっていた記憶のかさぶたを一枚、一枚、ゆっくりと剥すこと。ただ、それはあまりにしっかりと傷に張り付いてしまっていて、彼女自身の力ではもうどうすることもできないくらいになっていた。

 倫子はそれをわかっていたのだ。

 力一杯に剥して、傷から血を流して、それでやっと普通に呼吸ができるようになった美空は、今、ちょっとずつ、ちょっとずつ、痛みの記憶を辿るように昔を語り始めた。

「少し前まで、私はある人と恋をしていました。相手は同じ大学に通う、ひとつ上の先輩でした」

 手に持ったカップを置き、美空はゆっくりとした口調で喋り出す。

「人数合わせで仕方なく出席したコンパで、お互いに場の空気に馴染めなくって、抜け出して……始まりはそんな感じでした。でも、それから私達は一年くらいの時間を掛けて、ゆっくりとお互いの距離を縮めていったんです」

 トオルと倫子はそれを黙って聞いていた。

「私達は結婚するつもりでした。彼が卒業して、仕事が落ち着いたらすぐにでも」

 美空がチラッと顔を上げてこちらを見たので、トオルは少しだけ笑ってみせてやった。それに彼女はくすぐったそうな表情を返してくる。

 美空が、まるでそこに何かあるかのように左手の薬指に目を送ったのには気付かないふりをした。

「彼の卒業が近付いて、私はとうとう父にそのことを伝えました。彼と会ってほしいと頼みました。あまり乗り気でなかったのは、きっと娘を取られる父親の自然な反応なんだと思っていました」

 美空が眉を伏せる。

「でも……本当はそうじゃなかった」

 ゆっくりと二回、首を横に振った。

 トオルはその様子を見ながら、手元のグラスを少し傾けて乾き始めていた唇を湿らせた。

「父は――彼に会うなり、こう言ったんです。『そんな仕事をしている人間にうちの娘はやれない』と。『真っ当な仕事につかないなら、今後娘に近づくことも許さない』と」

 それまでただ、じっと見詰めていただけの倫子が口を開いた。

「その彼って、一体、どんなお仕事をされてるの?」

「片岡啓介。去年の新人王をとった……」

「嘘ッ?! まさか、ドラフト一位の?」

 倫子は絶句した。

 美空はコクリと頷いて、言葉を続けた。

「啓介にとって、野球は何より大切なものです。それと、私とを比べることなんてできっこない。なのに父は……あんなの、酷い。あんまりよ……」

 美空は肩を震わせた。

 トオルにはかける言葉がない。ただ黙って、彼女の言葉に耳を傾け続けた。

「結局、それっきり私達は会うことはありませんでした。たとえ父が言った言葉でも、彼の心を傷付けたのは間違いないんです。もう、彼とは会わない方がいい……そう、思いました」

「でも、お父さんは本気でそう思って言ったのかしら? 私には、なんだかそうは考えられないんだけれど」

 倫子が呟く。

「一度、父には訊ねました」

「そう。それで……」

「『野球選手であることを否定するつもりはない。だが、四方の娘は野球選手の妻にはなれない』父は、そう言っていました」

「それってどういうこと? あなた、納得している?」

「父の言っていること、半分は私にも理解できます。でも、半分は無理。だってそれで彼は傷ついたもの……」

「お父さんの事、許せない?」

 倫子の問いに美空は首を横に振った。一度大きく深呼吸をしてから、彼女は答える。

「それでも、やっぱり半分は理解できるんです。だから、私、父を否定することも出来なくて」

「なんだか、ちょっと辛いわね」

 倫子の言葉に、美空は力なく頷いて笑った。

「だから、決めたことがあるんです」

 トオルが目顔で訊ねる。すると美空はちょっと切ない笑顔を浮かべて言うのだ。

「私、四方のために恋愛しようって」

 それには直ぐ様、倫子が口を挟んだ。

「そんなっ! 何も、そんなふうに思いつめなくったっていいじゃない!!」

「でも、私には守らなきゃいけないモノもあるから……」

「そんなの、おかしいっ! 自分の事、もっと考えなくちゃダメよ」

「うん……でも、これはとっても大切なモノだから」

 そう言ってから、ふぅっと美空は息をついた。きっと、ずっと前から彼女は決意していたのだろう。ただ、言葉にするにはもう少し余計に勇気が必要なのだ。

 自然と目があった。

「私がこの家のために生きて、この家を守れば、きっと美純は自由にしてあげられる。だから、私はいいんです」

 その言葉にトオルはあまり驚かなかった。

 姉が妹に厳しいのは、優しさの裏返しなのだ。

「でも……」

 倫子の言葉は、美空の言葉で優しく遮られてしまう。

「だってあの子は私ほど強くない。美純はまだ高校生なんです」 

 倫子は深くため息をついていた。

 自分が何を言ったって美空の思いは変わらないのだと、それをわかっている顔をしている。

「ばかよ。優しさって、そんなにたくさん犠牲が必要なものじゃないでしょ?」

 その倫子の言葉に、美空はそれまで見せたことのない一番の穏やかな表情で応えていた。


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