Jewel ≪空色の宝石≫ 11
鼻腔の奥の方がじーんと熱くなって、こめかみ辺りがずんと重たくなった。頭の中は何かを考えているのだが、それがまったく心のところにまで落ちていかない。
思考と感情の間に厚い隔たりができたみたいに、二つがうまく連動していない。
ただ、今は真っ先に動き出した感情のほうだけが、トオルを激しく動かしていた。
美純が泣いていた。
ただ、いつまでもその事実だけが彼の眼にこびり付いていた。
トオルの目は美空を見た。
すると急に眉間に疼痛が走り、その痛みとは違う理由でそこに深い皺が寄った。
頭で考えるより先に体がキッチンを飛び出そうとしていた。
しかし、だ。
「もし、ね?」
その声が倫子からのものでなかったら、トオルはきっと振り返らなかったはずだ。
「えっ?」
「もし、私が男を平手打ちして店を出ていったら……あなた、私の連れの事、慰めてあげてよね?」
そう言った倫子の表情は柔らかい笑みに包まれているように感じられた。
まるで、本当にそんな事態が起こり得るとでも言っているかのように。
しかしトオルが言葉の意味を理解できずに気の抜けたような状態でポカンとしていると、今度はちょっと意外そうな顔をする。
「あらっ、そういうこと? 誰にでも優しいってわけじゃないんだ」
「……えっ?」
トオルは無意識で訊き返していた。それに対して倫子はやれやれという顔をする。
「そんなに眉間に皺を寄せてるから、てっきり困った奴はほっとけない正義の味方タイプなのかと思ってたわ」
何か言葉を返そうと思ったのにしばらく何も浮かばなかった。
思考を二、三歩後ろに置いてきた、そんな感じだった。彼女の言っていることを頭の中で何度反芻しても、長距離のトラック競技を走っているように言葉がクルクル同じところを走り回っているばかりだ。
彼女の言葉の意味が胃のほうへ落ちていかない。
トオルは呆然してと倫子の顔を見ていた。
「ほーらっ、何、ぼーっとしてるのよ。あちらのお客様、お会計よ」
倫子がぴしゃりと言う。
「あっ、す、すいません・・・・・・」
「もうっ。あと、私にはもう一杯、よ」
「はぁ、すいません」
素直に二度頭を下げるトオルの顔がおかしかったのか、倫子と帰り仕度を済ませたお客が一緒になって吹き出す。
「ちょっとあなた、そんなにじっと私の事ばかり見つめちゃって。こんなおばさんの魅力に、なにクラクラしてるのよ? しっかりしなさいよね」
「…………」
倫子のパンチの効いた冗談もうまく笑い飛ばすことができない。
正体のないような状態で会計を済まし、カウンターに戻ってきても、トオルはやっぱり元の通りにはできなかった。
赤々と焼けた石のような『熱』が自分の中にある。
倫子の声がなかったら、それをそのまま美空に向けて投げ付けていたかもしれない。
「何だか、あなたらしくないわね。どうかしたの?」
「いえ、……すいません。本当ですよね、僕らしくない。スイマセン、なんか……」
トオルは無理矢理笑ってみせる。
倫子はまだちょっと安心していない顔のまま二度三度頷くと、二杯目の赤ワインに黙って口を付けた。あえて訊ねてこない彼女の大人の気遣いに、頭では理解できているのに礼のひとつも言うことができないでいる。
そのうちにテーブル席のカップルが時間を気にして店を出ていってしまった。
店内にはトオルと倫子と美空の三人が残った。
こんな時こそ自分が何かを言うべきなのに、言葉がちっとも出てこない。
倫子はそんなトオルを気にしてなのか、グラスに目を落としたまま。
不自然な沈黙を破るのは、けれどトオルではなくて美空の一言だった。
「すいません。私、コーヒーをそちらのカウンターで頂いてもいいですか?」
美空がすっと立ち上がると、トオルに笑顔を向けてきたのだ。
「えっ? あっ、ああ……どうぞ、構いませんよ」
急に話しかけられて、トオルは一瞬口ごもってしまう。けれど当然断る理由などないから、トオルもなんとか笑顔で返した。ただうまく笑えていたかは美空に聞くまでもないようだ。
頬の筋肉が引きつっただけの、無様な笑顔。
「そう、よかった。妹には一緒にコーヒーまで楽しむのを辞退されてしまったから。でも一人でなんて、それもなんだか気が引けるもの……」
彼女のその言葉はどうも皮肉には聞こえなかった。なにより表情には、話し相手を見つけたようなほっとしたような色が見えたのだ。
『Jewel』 ――――四方美空――――
美空がハンドバッグを片手にカウンターに移動してくるのを、トオルはなんとも言えない気持ちで見ていた。
再び生まれた赤い種火が、胃の底をちりちりと焼くような痛みがあった。