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Jewel ≪空色の宝石≫ 10

「お、お姉ちゃんっ?!」

 ガタッ、と音がした。ガシャン、とも音がした。

 白と青のコーヒーカップが床で砕けて、茶色の液体が床に広がった。

「キャッ! あ、ああっ……」

 美純は自分が急に立ち上がったせいで落としてしまったコーヒーカップを拾おうと、慌てて屈み込んだ。

「美純、いい、触るなッ」

 叫んだが、遅かった。

「つっ!」

 美純が一瞬、身を固くしたのがひと目でわかった。

 案の定、破片で指を切ったらしい。トオルはカウンターを飛び出して彼女のそばに駆け寄った。しゃがみこんだ美純はじっと割れたコーヒーカップを見詰めたまま、体を小さくして震わせていた。

「言わんこっちゃない。だから触るなって……」

 彼女の震える肩に手を掛け、トオルも体を折って美純の顔を覗き込んだ。

 それで気が付いた。

 彼女は割れたカップを見詰めているのではなかった。怯えて、顔を上げられずにいるのだった。

「美純……」

 無機質な声が妹の名を呼ぶ。

 それに美純はビクッと大きく反応した。肩に手を掛けていたトオルには、彼女の胸中が直に伝わってくるのを感じた。

 これは、ただの恐怖だ。弱者が強者に対して覚える、絶望にほど近い感情だ。

 美純はおそるおそる、ゆっくりと美空を振り返った。なんとか向けたという表現がぴたりの横顔は、青白く弱々しい表情をしていた。

 そんな美純に向けてまだ何かを言おうとする美空より先に、我慢できなくなったトオルが口を開いた。

「約束が違う! あなたはいいと言ったじゃないか?」

「…………」

「別に他人の家庭のことまで口出すつもりはないが、美純は今、僕の店にとってのゲストだ」

 見上げるかたちで美空に向ける視線は、どうしても鋭くなってしまうが気にはならなかった。

「美純はまだ高校生よ。こういう場所に一人で来るなんて、まだ早いと思いませんか?」

 美空の言葉に感情的に反論しそうになる自分を抑えて立ち上がると、トオルは姉妹の間に体を差し込み、美純を庇うように立ち尽くした。

 美空はそのトオルの様子にちょっと驚いたような表情をしたが、すぐに穏やかな笑顔を浮かべる。

 視線はトオルの脇を通り抜け、再び美純に向けられる。

「美純。カップを割ったこと、謝罪なさい。それと今日はこちらで食事をしていきましょう。いいわね?」

「なっ?!」

「えっ?」

 トオルと美純、二人が一緒に絶句した。

 けれども美空は平然として店内に入ると、奥の方のテーブル席に着いた。

「美純、座りなさい」

 そう妹を促す。

「君は……一体、どういうつもりでやってるんだ?」

 わざわざ他人の嫌がる事をするような陰険な人間には見えないが、なんの考えもなく行動するタイプとも思えない。トオルはこの美空の行動がまったく理解できなかったし、それにどういう意図があるのか想像もしたくなかった。

「何か問題でも? 私はもともと、美純と二人で夕食をいただこうと思って来ただけよ。こうなってしまっては疑われてもしようがないけれど、本当にただそれだけの理由よ」

 正直、言い草がイラッとした。表情ひとつ変えることなく言い放つ彼女が癇に障った。

 その仮面の裏にはどんな表情があるのか。

「そう、ですか……失礼しました」

 けれどこうなってしまえばトオルには何も言う権利はない。トオルは一度カウンター内に戻った。救急箱を出すと、急いでそこから絆創膏を一枚取り出す。

 美純のそばに戻ると手に持った絆創膏を彼女に差し出た。

「はい」

「あ、ありがと」

 トオルは笑ってみせようとして上手くいかなかった。

 気持ちが引っ掛かって、唇が引きつって、だから不機嫌な顔になってしまった。

「カップ、ゴメンね……」

 彼の表情を見たからなのか、それとも美空の指示だからなのか、美純は足元のカップに再び目を落として言った。

 口元をきゅっとさせ、申し訳なさそうに俯いてしまう。

「別に。気にしてないから、大丈夫」

 答えてから、美純の両肩に手を当てて回れ右をさせる。

 軽く背中を押すように力を加えると、それを推進力にして美純がゆっくりとテーブルに向かって歩きだした。

 本当は、この後に及ぶまで心のどこかで捨てきれない希望があったのだ。

『実は自分の考えすぎ。本当は姉妹の仲はそこまで悪いわけではないんじゃないか?』

 けれど、それは否定しなければいけないと痛感した。美純の肩を押すときにあった彼女の小さな拒絶が、それを如実に物語っていた。

 トオルは気付かないうちに奥歯が強く歯ぎしりをしていた。頭の中が赤く煮えくり返るようだった。

 美空のやり口が気に入らない。いくら姉だからって、それはない。

 だがその時、急にカラカラと澄んだ硬質の響きが彼の耳に入ってきた。ハッとして振り返るとそこには倫子がいて、飲みかけのグラスを傾け、氷とグラスの奏でる音を楽しんでいるようだった。一頻りそうしていてから、まるで今、トオルの視線に気がついたかのような素振りをみせると、彼女はほんの少しだけ笑みをみせた。

 しばらく、完全に倫子の事を忘れていた。

 それがすっかり顔に出ていたらしく、今度はくすくすと笑らわれた。それから彼女は手のひらをヒラヒラとして、トオルに向かって軽く頷いてみせるのだ。

 頑張れ、とでもいうことだろうか。

 トオルは一度大きく深呼吸をすると、出来るだけいつもの接客用の顔を作って美空のテーブルに向かった。

「お食事はいかがなさいますか?」

「私はシェフにお任せします。……美純っ、あなたは?」

 そういうやり取りをするのに慣れた姉と、

「へっ? え、わ、わたし、は」

 そういうことに不慣れ、というより向かない妹とのチグハグとした食卓。

 四角い箱に丸いものを収めたような違和感。

 トオルは二人のための食事を準備しようとキッチンに戻ってからも、ずっとそんな噛み合わない歯車のような苛立ちを抱えていなければならなかった。

 なぜなら、彼女達のテーブルからひとつも会話が聞こえてこなかったからだ。



                   ◆



 四方姉妹が食事を始めてから1時間くらいたっただろうか。

 二人は今、メインディッシュを食べている。

 地鶏のロースト、ローズマリー風味。姉がスマートに口に運ぶものを、妹は格闘するみたいに切って、刺して、口に入れる、をしていた。

 あれから更にテーブル席に二人、カウンター席に一人のお客が来て、『カーサ・エム』の夜はそこそこ賑わった。それでも各席の料理は出し切ってしまって、あとはドルチェのみ。

 今は一段落ついたところだ。

 トオルはマグカップを取った。中身はもう冷たくなってしまったコーヒーだが、火の前でずっと仕事したあとの火照った体には丁度いい。口にして一息ついていると、カウンターの向こうの倫子がなんとなく呟いて言ったのが聞こえた。

「あの子達、食事の間じゅうほとんど会話してないのね。きっと、家でもそうなんでしょうけど」

「……どうしてそう思います?」

 トオルは訊いてみた。

「慣れちゃってるわよね、会話しないでいることに。あの子達、無言で向き合っているのが自然なのよ」

「もう、何年もそういう生活をしてる、ってことですよね」

「そうだと思うわ」

 倫子は二杯目の酒を赤ワインにかえていた。南イタリアの果実味のあるフルボディー。ちびりと飲みながら、視線をトオルに戻す。

「……聞いてもいい?」

 不意に出た言葉に、トオルはうまく答えられず「何をです?」と聞き返した。

「あの子達と、あなたの関係」

「はぁ……」とトオルは反応に困って答えた。

「それ、実は僕もよくわからないんですよね」

「どうして? あんなイイトコのお嬢さん達が気を許してるなんて、ちょっとないでしょ」

「許して……るんですかね、この状況って?」

 トオルの苦笑いに、倫子は答えなかった。ただちょっと首を傾けただけだ。

 美空達のテーブルに目を向ける。

 二人は今、初めて会話らしいものしていた。

 姉が幾つか言葉を走らせたのに、妹は時々首を縦か横に振るだけで答えている。一見、会話と言うよりは尋問のような、一方通行のコミュニケーションで二人は一体どんな内容をやり取りしているのだろうかと考える。

 トオルは、彼女達二人での会話がこれ以上美純のことを辛くさせるものであってほしくないと願っていた。

 赤の他人の自分が、家族間の色々に割って入るべきではないと思う。けれど、美純は姉の言葉や行動一つ一つにとても敏感に反応して、その上酷く傷付いた顔をしていた。

 できることならもう、あの顔はみたくない。今だけはたわいもない会話で、ちょっとでも幸せな時間であってほしい。

 それなのに突然――――美純は泣きながら店を飛び出して行ってしまったのだ。

 彼女は通りを歩く人の波を押し分けて、すぐに冷たい街の中に呑み込まれて行ってしまう。

 その後ろ姿を見てトオルは、声も出せないくらいに一瞬で頭の中が白くなっていくのを感じていた。

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