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Jewel ≪空色の宝石≫ 9

 走ってきたらしく、美純は大きく肩で息をしていた。

 開け放ったままの扉に直立不動で立っている姿はどこぞの寺院の表門のようなのだが、何しろ美純なもんだから迫力なんてこれっぽっちもない。

「傘……」

 切れぎれの息の間に吐き出した一言は、要件を伝えるには短すぎて、おまけに声も小さかった。かろうじて事情を知っているトオルには伝わるが、そばにいた倫子は何だか不思議そうな顔をしていた。

「美純。中においで」

「ダメ……傘……貰ったら、すぐ帰る……から」

「美純ッ」

 トオルがもう一度優しく声をかけると、美純は大きくブンブンと首を振った。

「ダメなのっ! 受け取ったらすぐに帰らないと。お願い、ここでいいから。だから、傘っ」

 固く拒絶するような表情は見方によれば怒っているようにも見えた。その上、荒い息を整えるのに大きく肩を揺らす様は、ますます彼女を憤然としているように見せた。

 とても人に礼を言いにきたとは思えない態度だ。

「お前なぁ……礼を言いに来たんだろ? なのにダメとか、ここでいいとか、ずいぶん失礼な奴だな」

「ええっ?!」

「そんなことより、まず最初に言うことがあるんじゃないか。なぁ?」

「あ……あっ」

 途端に美純は顔色を青くして唇をわなつかせた。

 トオルの言葉で我に返ったらしく、彼女は自分の態度があまりに傍若無人であったことに今更ながら気付いたようだ。 

 困ったような、怯えたような、痛々しい表情になってしまう。

 一所懸命な空回りが彼女らしいな、と昨日までのトオルならきっと笑って済ませることが出来たはずだ。けれども、今のトオルは胸がズキズキしてただ苦しいだけだ。なんと言って優しくしてやったらいいのか、それすらわからないくらいに悲痛でやるせない気持ちに陥りそうになる。

「大丈夫だ。先にお姉さんには許可を取ってある。お前が来たら、コーヒーを一杯ごちそうさせてくれ、ってな」

 美空はきっと美純に、ただ傘を取りに行くよう言ったのではないはずだ。

 他にも礼儀だ態度だと、色々と言い含めているはずだ。

 本人の口からその事実を聞くまでもなく、ヒリヒリしそうな一挙手一投足が間違いなくそうだといっていた。

「う、ぐぅっ」

 美純は結局どうしたらいいのかわからず、次の言葉に詰まってしまった。

 トオルはカウンターを出ると彼女のそばに歩み寄り、背中に手を回して店の中に誘い入れてしまう。

 美純もそこまでされると観念したらしく、もう大した抵抗はしない。

「座って。今、コーヒーを入れるから」

 そう言ってトオルは倫子のひとつ開けた隣の席に美純を座らせる。

 キッチンスペースに戻ったトオルは、いつも通りドリッパーにコーヒー豆を入れようとして、ふと思い直した。

 そして備品などの収納用に使っている棚をゴソゴソと探り、丁寧に布でくるんだある物を取り出す。

 丸いガラス製フラスコと円筒形の漏斗とアルコールランプ。大切に保管していたそれは、トオルのお気に入りのサイフォンだった。

「普段はちょっと手間だから使ってないんだ。でも、今日は特別」

 そう言って、カウンター越しに顔を近づけると美純を覗き込んだ。

 急に近付いてきたトオルの顔に驚いて、慌てて背けた彼女の横顔には、まだ微かな罪悪感らしきものが貼り付けている。

 けれども、トオルは敢えて気付かないふりだ。

「とびきり美味しいの、いれないとな」

 美純は黙ったままだった。

「わざわざ足を運ばせた礼くらいはさせてくれたって、多分、罰は当たらない」

 そう言った彼の手元で、シュワシュワと音を立ててフラスコ内の水が沸騰し出した。

 ひき立てのコーヒー豆の香りが、あっという間にカウンター中を満たしていく。

 漏斗の中に豆を入れてフラスコにセットすると、スーと蒸気圧を利用して下から上へと湯が移動していく。そして水分が全部上へと移動したあと、トオルは漏斗の中をヘラで数回くるくるとかき混ぜる。

 ランプを、フラスコの下から外す。

「あ……ああっ」

 目の前で起こる理科の実験みたいな現象に、さずがの美純もだんまりは決め込めなかったらしい。驚嘆の声を上げて、漏斗からフラスコへ落ちていく液体を見つめていた。

 そして水分が全部フラスコの方へ落ち切ると、終わりの合図のようにぶくぶくぶくと泡が立つ。

「はい。出来上がり」

 漏斗部分を外すとフラスコに溜まったコーヒーをカップに注ぐ。ふんわりと立ち込める香りは香ばしく、ややシャープな印象。

「美純はミルク入りが好きだろうけど、今日はストレートな。そんなに濃くはいれてないから大丈夫だろ」

「え……なんでミルク、だめなの?」

「今日は特別にコナ・コーヒー100%なのです。いつもはブレンドにちょっと使うだけにしてるけど、大盤振る舞いだ。上品な酸味が特徴だからストレートでどうぞ、ってね」

 トオルは人差し指をクイクイとして、教師のような顔で解説してみせる。最後にふふんと鼻を鳴らした様子があんまりにもわざとらしかったようで、それを見ていた美純が思わず吹き出した。

 トオルは眉をしかめて不満そうな表情を作るが、それもすぐに微笑に返る。

「熱いから、ゆっくり飲んでけよ。……ゆっくり、な」

「ん、ありがと」

 そんな会話を軽く交わしてからトオルは美純の前を離れた。そして倫子の前へ戻ると、彼女は何故か仏頂面をトオルに向けている。

 カウンターの上を指でわざとらしくコンコン、と小突かれた。

「ねぇ……」

「はい?」

 トオルは首を傾けて訊ねた。

「もう、男ってすぐこれよね。若い子が来るとそっちばかり。おばさんには一杯も出さないなんて、あんまりじゃない?」

「あ……」

 気付いて、思わず目を逸らした。彼女だって半分は冗談で言っているのはトオルにもわかっていたが、ここは申し訳なさそうな顔をするのがルールのような気がした。 

「まぁ、いいけどね」

 拗ねた顔の倫子はカウンターに頬杖をつく。

「それより……ね、何か頂戴」

「ああ、はい」

 トオルはカウンターに並べた酒瓶を眺めた。今の彼女に合う一杯を吟味する。そして、ふとある物を思い出した。

「そうだっ。折角いただいたから、アモンティリャードにしましょうか?」

 そう言うとロングカクテル用のタンブラーを取り出した。そして氷をいっぱいに詰めるとアモンティリャードを注ぐ。そしてその上からソーダを。

「同業の仲間からはよく馬鹿にされるんですが、いいシェリーや旨いブランデーをソーダ割りにするのが好きで。『もったいない、酒に対する冒とくだ』なんて言われるんですが、むしろ僕は贅沢な飲み方だと思ってるんですよね」

 そう言ってグラスを倫子の前に差し出した。

「あら、美味しそう。やっぱり仕事明けの最初の一杯はシュワワ、っとしたのが飲みたいわよね」

「ですよね。それ、わかります」

 トオルと倫子は互いに目を細め合う。

 先に目を逸らしたのは倫子のほうで、最初の一口を美味しそうに喉に落とすと、ふぅっと息をつく。それから彼女は首を傾け、ひとつ隣りの顔に目を向けていた。

「あの子……」

 いれたての熱いコーヒーと格闘中の少女を見て、倫子の口が動いた。

「四方の次女の方でしょ。あなた、知り合いなの?」

 ちらりと視線がトオルに戻ってくる。

「知り合い、っていうか……まぁ、確かに知り合いですかね。会ったのはこれで三回目ですけれど」

 倫子はちょっと深くため息をついた。

「四方の家の娘さんとは知り合いで、四方の家の事業は知らなかったと……どんだけ大物なのよ、あなたって」

「はぁ。似たような意味で『ニブイ』って馬鹿にされることがよくあります」

 主に哲平からであるが。

「あなた……悪いけど、私のも同じ意味よ」

「はぁ。スイマセン」

 くすくすと倫子は笑ってみせた。

 トオルがさっきからスイッチを入れていた電気フライヤーの様子を覗き込むと、油がちょうど頃合の温度になっていた。冷蔵庫から豆アジとイワシを取り出すと塩を当たり、粉をまぶし、それを油に落とす。シャーっと油のはぜる軽快な音が響くと、何となく食欲が湧く気がするのは一種の条件反射のようなものだろう。

 素揚げしただけの一品にレモンを添えて倫子の前に差し出す。

「頂きもののお礼です。どうぞ召し上がって下さい」

「まぁ、気が利くじゃない!」

 ははは、とトオルは顔を柔らかくした。

「シェリー酒の産地では小さなイワシのフライが定番の料理なんです。まぁ、海の近いところなんで当たり前っちゃ、当たり前なんですけどね」

「へぇー」

 揚げたてを頬張った倫子は、その味に目をキラキラさせた。

 小魚のしっぽの部分を指先で摘んでは、一匹、また一匹と頭からもりもりと食べている。しばらくはそうして彼女が舌鼓をうつ様子を微笑ましく眺め、トオルはいつものマグカップに入れたコーヒーを口にしていた。

 ただ、そのうちに頭に浮かんでくるのは視界に映る二人の女性とは別の、あの女性のこと。

 あの言葉。

 ちらっと目を送ると、そこには性格こそまだよく知らないものの、決して性行不良には見えない素直そうな少女の姿がある。

 この子を『欠陥品』なんて呼ぶ人間の心の中というのは、一体どうなのだろうか。冷えきった冬の森のようなのか、光の届かない海の底のようなのか。

 ぼんやりと思考していると、そんなトオルの顔を倫子が覗いているのにはたと気付いた。

 彼女が問うたわけではない。

「……昨日、あの子の姉が食事に来たんです」

 ただ、何となくトオルから喋り出したのだ。けれども、これは会話というより相談に近いものだとトオルは口に出したあとに気が付いた。

「姉って、四方美空のこと?」

「はい」

 トオルは美純には聞こえないように小さな声で、しかし首はしっかりと頷いてみせた。

 彼女の人間力、とでもいうべきなのだろうか。

 トオルは普段だったら客相手に口に出さないようなことを、倫子には抵抗なく話せそうな気がしていた。

 倫子という女性は良い意味で底が知れない雰囲気があった。言葉を変えるなら、懐が深い。

 さっきまでのトオルは、美純と会ってなんと言葉を交わすべきか悩み、決して明るい気分ではなかった。それなのにしばらく倫子と言葉をかわしてただけで、そんな苦慮も過去のことのように振る舞えている。

 簡単なようで、簡単なことではない。

 励ましたり、同情したり、とは違うのだ。トオルの傾き気味だった気分を、ちょっとした世間話だけで浮上させ、切り替えさせてくれた倫子の話術には感心するばかりだ。

 それに人柄もそうだ。

 まだたったの二回しか会っていないのにトオルはすっかり倫子を信頼し切っていたし、ある種尊敬の念も抱いている。

 彼女にはテコでも動かないものを動かしてしまいそうな不思議な説得力がある気がするのだ。

 だからトオルは彼女にこの話を聞いて欲しかったし、彼女の見解はどうしても聞いてみたかった。

 そんなトオルの思惑を知ってか知らずか、倫子は指先に付いた油をぺろっと舐め、「続けて」と促すように目顔を作ってくる。

 そんな彼の思惑など、ショットグラスのウィスキーよろしく一口で飲みきってしまいそうな倫子に、トオルは思わず苦笑いだ。

 胸の中も軽くなって、あっさりと言葉が出てきた。

「なんていうか、美空は……変わった子でした。まだ大学生だっていうのに、周りと自分を切り離したような。浮き世離れしてる、っていうか。彼女の本質はきっとそうじゃなかったのに、あとから形成した自分が勝っちゃているっていうか。ともかく、自然体じゃないなって思いました」

「……資産家の家の長女ですものね。一癖あったって不思議じゃないわよね」

「ええ」

 グラスの中の液体をちびりとし、倫子はトオルの目を覗き込んできた。たったそれだけでトオルは自分の中のずっと深くまで覗き込まれたような気がしてしまう。

 何というか、胃カメラみたいな視線だった。

「……で、その妹がどうなの?」

「えっ?」  

 促されて、トオルはちょっと驚いてしまった。

「だから、その話と、あの子のことと、どう関係があるのってことよ」

 倫子は視線で美純を示して、そう呟いた。

 困惑に近い感じだった。端折ったというより、二・三歩飛び越された気がした。

 もう幾つか、別の話題で探りを入れてから本題に移る腹づもりだったから、先に倫子のほうから切り出されたら置いてきぼりをくったみたいな気分だ。

 気持ちの出遅れを取り戻そうと、自然と言葉は簡潔になってしまう。

 すでに会話は倫子のペースだと実感した。

「長女の言葉をそのまま使うと、あの子は四方家にそぐわない人間だそうです。姉は妹をかなり厳しく仕付けたようですが、飲み込みの悪い妹を見限ったようです」

「へぇ、スパルタね」

 倫子の素っ気ない相槌は、多分、本心ではない。そう思ってトオルは続けた。

「その上で、こうも言っていました」

「…………」

 その一言を口にするために、一度ゴクリと唾を呑み込む。

 そして絶対に美純には聞こえないよう気を遣って、小さな声で言う。

「欠陥品だ、と」

 倫子の眉が小さく動いて、眉間に皺が寄った。

 口元を一本に引き結んだみたいにして、肩でひとつ、息をついた。

「そう……大変ね、お金持ちがちゃんと生きるのって。私なんていい加減に生きてきたせいか、そういう苦労はしたことないわ。そのおかげかしら、あっという間に歳を喰っちゃったのは」

 倫子はわざと笑ってみせたようだった。

 けれど、見ればわかる。彼女の目は笑っていない。

 頬杖を付いて、視線は美純の方に斜めに向けていた。美純のほうはそれにはまったく気づいてはいなく、ようやく飲み頃の温度に落ち着いたコーヒーに、満足そうな顔で口を付けていた。

「可愛い子よね。悪い子じゃなさそう」

「僕もそう思います」

 自然に言葉が出ていた。

「あらっ?」

 ちらりと倫子の目がトオルを見返したのと、入口の扉が開いたのは、ほぼ同時だった。

「いらっしゃいま……せ?」

 軽い会釈でそれに応える、四方美空がいた。

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