Jewel ≪空色の宝石≫ 8
17:30のディナーオープンちょっと前に、彼女はやってきた。
入口のドアに掛かったまだ<Close>のままの看板を気にするでもなく、スルスル何くわぬ顔で店内に入り、トオルのそばまでやってくる。
そして彼女は手に持った荷物をカウンターの上に置き、一度丁寧に頭を下げてからトオルに話しかけた。
「この前は本っ当にありがとう。おかげで助かったわー」
今岡倫子はそう言ってにこやかに笑顔をみせた。
今日の彼女は丈の長めの紺のカーディガンに白のパンツ、パイソン柄のサンダルといった装い。仕事を外れてもあまりラフになりすぎないのが彼女のスタイルなのだろうか。落ち着いた色がベースのコーディネイトが倫子にはよく似合っている。
「あの時は一体どうなることかと思ったけれど……あなたの咄嗟の機転! 私、びっくりしたわ」
「そんな、大したことはしてませんよ」トオルは小さく首を振って苦笑いをみせる。
「大したことよっ!!」
しかし倫子は目をまん丸くして反論した。
「四方の家っていうのは私達にとったら本っ当に重要なお客様なのよ。それを満足して帰すのと不満を残して帰すのじゃ、大違い。例え向こうの方々が気にしてなくても、こっちの上の方が黙っちゃいないわ!」
倫子は顔の表情を何度もくるくる変えながら喋った。その顔が口と同じくらいに雄弁なのにトオルはちょっと驚いていた。このあいだ会ったときもそうだったが、彼女はどうやらこういう喋り方をする女性のようだ。
「あれは……正直、反省してるんです。ちょっと攻めすぎたな、って」
「えっ?」
「いや、僕は長女が生の魚介が食べれない可能性は予想できていたのに、夫人の嗜好の方を優先したんです。犯すべきじゃないリスクを犯した。あれは僕のミスなんです」
トオルは顎を指でかきながら、申し訳なさそうに小さく笑った。
「たまたま、上手く解決出来た。……でも、たまたまだ。プロならあんな事態に陥らないよう、もっと慎重にやるべきだった」
「そんなの! こっちが事前にちゃんと確認してないのがいけないんだから」
「いいや、あれは僕のミスだ。ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」
「あなた……」
倫子は言って一息吐いた。「もう、」と小さくこぼすと表情は呆れたみたいになる。「そんなつもりできたんじゃないわよ。まったく、おばさんにお礼くらい言わせなさいな」
「お礼なんて、そんな……」
肩をすくめて首を振った。トオルはカウンターの脇を一度出ると、入口の扉に向かう。扉を少し開けると、表側に掛かっていた小さな看板をひっくり返して<Open>に変える。
そして戻ってくるとカウンターのひと席を引いた。そこに倫子を促した。
「でも、あなたは気付いてないかもしれないけれど、あの時うちの主任なんて動揺してあたふたするばかりで。おまけに「あわわ」なんてみっともなく言うもんだから、大変な事態なのはわかっていたんだけれど、正直私おかしくて陰で笑っちゃって。まったく、ちょっとはあなたを見習って欲しいわよね」
倫子はトオルに促されるまま席に着いた。彼女を座らせると、トオルはまたカウンターへと戻っていく。
「そう、今日はその主任の使いでもあるのよ。大変感謝しておりますと、伝えてくれって言われてきたわ。それと……」
倫子はさっきからカウンターの上に置いていた荷物から何か取り出した。それはトオルにとっては見慣れたサイズのビンだった。
「これは私からのお礼。あなたにはあなたの事情があるかもしれないけれど、私にだって事情があるのよ。だから、ちゃんと受け取って頂戴」
そう言って倫子はトオルにそのビンを差し出した。
それは、シェリー酒だった。
「『アモンティリャード』! へぇ、すごいな。よく手に入りましたね。僕はこの界隈で売っているのを見たことがないですよ」
受け取ったそれのラベルをじっと見つめながら、トオルは言う。シェリー酒のなかでも熟成したタイプのその銘柄は、飲み口の良さよりも飲みごたえの方を重視した一本だ。値段だってそこそこするはずだし、何よりこんな嗜好性の高いものがこの『都会じゃない街』で手に入るとは思えない。
「どうしたんですか、これ?」
「ちょっと、あなた! おばさんはインターネットで買い物もできないと思ってるんじゃないの?」
急にいたずらっぽい表情をして倫子が言った。
「いや、別に。そういうつもりで言ったわけではまったくないんですけれど……」
なんだか立場の悪くなったトオルは、慌てて別の話題を切り出した。
「ああそう、一つ聞きたかったことがあるんです」
今、咄嗟に思いついたそれを、さも前から気になっていたように言った。倫子には果たして見抜かれただろうか?
「四方家って、もしかして資産家の家なんでしょうか? かなり立派な豪邸に住んでるようですし、一体、どんな事業をしている方なのかご存知ですか?」
トオルの問いに、倫子は口を大きく開けた。またも目を丸くして驚いている。
「ちょっと、あなた。この界隈で飲食業をやっていてあんな大きな会社の事も知らないなんて、営業努力が足りてないんじゃない?」
「そんなことは……すいません」
「もう。別に謝って欲しくて言ったんじゃないわよ」
倫子は唇の端で小さく苦笑した。
「聞いたことない、『株式会社四方トレー』って会社?」
「いいえ、一度も」
「そう。この街じゃ一番の大会社も、あなたに掛かっちゃ形無しなのね」
「いや、別にそんなつもりは……」
トオルは渋い顔をしてみせる。
「馬鹿ね。冗談よ」
またも倫子は苦笑した。今度は唇いっぱいで意地悪そうに。
それから彼女はちょっと考えた顔をして、次いで何か思いついた表情になると、何故か脈略なくこんなことをトオルに訊いたのだ。
「……ねぇ、スーパーで一番売れてるモノって、なんだと思う?」
あんまりにも突然で「はぁ?」とトオルが怪訝な顔をしても、倫子は気にも止めなかった。彼女はトオルがその問いの答えを出してくるまで、ニコニコしながら待っていた。
「ええ~と、う~ん……一番、ですよね? 生鮮食品のような気がするけれど、野菜……ですかね?」
「ぶー」
「あ~。じゃあ、惣菜かな?」
「ぶー」
倫子は下唇を突き出して意地悪っぽく言う。
「もう、ヒントもないんじゃ正解なんてわかりませんよ。……いや、ヒントをもらっても多分わからないです。答え、教えてくださいよ」
トオルは音を上げた。元々、彼はこういった類いのことが得意ではない。頭だけで解決することは出来るだけ避けて、体を使う方法で乗り越えてきた部類だ。
「何よ、だらしないわね。もうちょっと遊べるかと思ったのに」
「遊べるって……意地悪な人ですね」
「ふふん。そりゃそうよ」
倫子はニンマリ笑いをちらつかせた。
「じゃあ、正解。……多分、これに気付く人はあんまりいないと思うけれど、答えは『食品トレー』よ」
「食品トレー?」
「そう、あの発泡スチロール製のアレよ。ちょっと、ビックリでしょ」
「いや、でも倫子さん。あなたさっき、一番売れてるモノっておっしゃいませんでした? あんなモノ、誰も金を払って買ったりなんか……」
トオルはちょっと不満そうな顔をした。しかし倫子の方はちょっと真剣な面持ちに変わる。
「あなた、あれがノー・コストだとはまさか思っていないわよね? 実際、一つ一つは微々たる値段だと思うわ。けれど、確かに食品売り場の中で毎日一番買われていっているのはあの『食品トレー』なのよ。生鮮食品にはほぼ全部、それ以外にもプラスチック製の食品パックやなんかも含めたらかなりの商品がアレを使って包装されてる。しかも、毎日変わらず何百個と使われるわ。これが単位を日本中に換算したとき、一体一日で何個の食品トレーが消費されているのかしら?」
「あっ……」
「スゴイでしょ? 私には想像つかなかった。けれど、想像した人がいたのよ。ここに商業が成り立つと考えて、食品トレー・プラスチック製パック・ビニール袋・業務用ラップ・その他を、たった一代で今じゃ日本全国のシェア8割を牛耳るような大会社に伸し上げた人間がいるの。それが、四方宗太郎。『株式会社四方トレー』の創業者であり、現代表取締役よ」
「…………」
トオルは言葉を失った。確かにそうだと思ったからだ。
毎日、日本中で数え切れない数の食品トレーが消費されている。しかし、トオルにはそれで商売を興そうなどとまで発想が及ばない。同様に、多くの人間がそう考えるだろう。まさについさっきトオルが言った言葉通りの事を考えるはずだ。『あんなモノ、誰も金を払って買ったりなんか……』と。
それは返せば、あんなもので儲かるはずはないと馬鹿にしているようなものだ。
なんとなく、気恥しく感じてしまう。
「私、一度だけご本人にお会いしたことがあるわ。すごくしっかりした信念を持っている人、っていう印象。それとかなりのリアリスト」
「ふ~ん、どうしてそう思われたんですか?」
何気なく訊いたトオルに、倫子はまたもくるくると表情を変えて答える。
「お会いしたのはパーティーの席だったんだけれど、給仕の女性が彼のすぐそばで手に持ったお皿のうちの数枚を落としたの。その瞬間、給仕の子は慌てて拾おうと手を伸ばしたんだけれど、それを四方氏は止めたのよ」
力の入った物言いで倫子は語った。ときどき身振りまで入るのがちょっと滑稽で、トオルは内心ちょっと笑ってしまう。
「その時の彼、何て言ったと思う? 『慌てると、落とした皿より多くの皿を割ることになる』って言ったのよ。普通はそこ、大丈夫かとか気をつけなさいでしょう? 私、それを見たとき『ああ、納得』って思ったわ。こういう人がトップだから、こういう数字を追いかけたような堅実な会社が出来上がるんだってね」
倫子とトオルがそんなことを話していると、大きな音を立てて入口の扉が開いた。