Jewel ≪空色の宝石≫ 5
週末の営業が終わり、定休日を挟んだ火曜日の夜。
ディナータイムも少しずつ落ち着こうかという頃、彼女が店を訪れたのだ。
「いらっしゃいませ。あっ……」
入ってきたお客はトオルに向かい目顔で小さく挨拶をして、それからカウンターの空いているひと席に座った。
四方 美空だった。
「こんばんわ。先日はどうもありがとうございました」
トオルは軽い会釈と共に挨拶をする。
「いいえ、こちらこそ」
美空はそう言うと口元だけの笑顔をみせた。その表情がとても板についたものだったから、トオルはちょっと驚いた。笑ってみせる必要がある、そういう生活をもう何年もしてきた人間のする年季の入った作り笑顔のように感じたのだ。
彼女はまだ、20代前半なのに、である。
「先日はごちそうさまでした。お料理、とても美味しかったです。それに母がすごく気に入っていて、帰りの車の中でも何度も『また行きましょう』って」
「そう言っていただけると何よりです。よろしくお伝えください」
「はい」
そう遣り取りしたあと、トオルは彼女にメニューを差し出した。それに美空が目を落とす前に、先に一言声を掛ける。
「先に、何かお飲み物をおすすめ致しましょうか?」
美空はしばらく無言でいたが、「そんなにお酒は強くないんですけれど、軽めのものなら……」と頷く。
「口当たりの甘いモノの方がいいですか? カクテルも材料があるものだったらできますが」
今度は首を横に振った。
「ごめんなさい。甘いのはちょっと苦手で。それに私、割ったリ、混ぜたりする類いのお酒が苦手なんです」
「なるほど。でしたら、ちょっとお待ちください」
冷蔵庫を開けて中から一本の瓶を取り出す。
それは先日のイベントで見事彼の窮地を救った一本だった。そんな縁もあったからだろう、トオルはその酒を美空に紹介することにした。
「なら、シェリーにしませんか? スペイン産のポピュラーな食前酒。ワインより3~4度、アルコール度数が高いだけですし、伺った感じだと、こういうほうがいいのかなって思います」
再び美空と顔を合わせると、トオルはそう勧めた。
「そう……じゃあ、そうします」
答えると、美空はまた口元だけの笑みを彼に送る。
トオルはカウンターの上の棚からグラスを一脚、選んだ。シュッとしたフォルムのシャンパングラスを一回り小さくしたようなモノだ。それによく冷えたシェリー酒を注ぐ。
「お待たせしました」
美空の前に出したグラスは、ガラスに葡萄の房の装飾を削り込んだ一脚だ。中に冷たい液体を注ぐとガラスの表面が曇って葡萄の絵が浮き出して見える、手の込んだ造りの物だった。
「ありがとう」
美空はグラスを傾ける。
確か、まだ大学生だったはずだ。けれどその身のこなしは随分と様になっているように見える。飲み慣れているというよりは、よく訓練されてるといった様子か。だが、同世代とグラスを合わせるときは女性としては浮いた存在なのではないだろうかと、ちょっと気になってしまう。
その彼女がメニューに目を落としている間、トオルは別のお客の料理を仕上げることにした。
ニュージーランド産の仔羊のローストをバジル風味のバターソースで。焼き加減はベストに近い淡いロゼ色。ちょっと満足のいく皿をテーブルまで運んでいく。
カウンターに戻りがてら、そこに座る美空に目をやると、スラッとした背筋とちらっと覗くうなじが美しい。
今日の美空はやや落ち着いた装いだった。ライトグレーのジャケットにサックスブルーのブラウス、白のロングスカート。足元がサンダルくらいならちょっと気も許しやすいが、今夜の彼女は皮のパンプス。
まぁ、これが美空らしさなのだろう。テリトリーのある女性、といった空気を感じさせる。
こういう雰囲気の女性にはトオルは深入りしない。
自分のリズムを乱されるのは好きではないだろうから、彼女の目がメニューから離れたのを合図に、トオルはそっと声を掛けた。
流れるようなリズムで淀みなく注文をする彼女は、ここでも慣れているというより、よく訓練されている、だ。
余り悩むこともなく前菜と手打ちパスタをオーダーした。
「少し軽い食事になりますよ」とトオルが補足すると、「そこまでお腹が空いている訳ではないので」と答える。そしてトオルが前菜の準備に取り掛かる頃には、美空も何かの書類を取り出して料理が出来上がるまでの間の時間を無駄なく使い始めた。
あのちょっとぽぁぽぁな美純と比較してしまうからか、やはり冷たい印象があった。
一杯目が終わると「白ワインを……」とそれだけ言葉にして、あとは引き続き手元の紙に目を落とすばかり。こういう雰囲気の女性はたくさん見掛けるが、こういう雰囲気の女子大生はちょっと見たことがない。
不思議な、というより異様な空気をまとった女性のように思えた。
出した料理を淡々と食べる様子もまた機械的で、どうしても冷たい印象を覚えてしまうのだ。
「料理はお口に合いましたか?」
純粋に気になったことをトオルは訊いてみた。今夜の美空はこの前の家族での食事とは違って、ほとんど表情を変えずに咀嚼するだけに見えたからだ。
「ええ。前回同様、すごく美味しいです。ごちそうさまです」
そう答える美空の顔は、小さく微笑んだ。
これが今日、三度目にみせる笑顔だというのに、これまでの二回と全く同じようにその表情から少しも感情の動きを感じられないのは、見事な役者ぶりというべきなのだろうか。
心無しかこちらの表情もぎこちなくなってしまう。
「もしよかったら、ドルチェやコーヒーをお薦めしましょうか?」
「ううーん、そうしたらコーヒーだけ頂けますか」
「もちろん。ちょっとだけお待ちください」
そう言ってトオルはポットを火にかけ、湯を沸かし始める。
せっせとトオルがコーヒーを入れる準備をしている間に、美空を除く最後のお客が席をたっていった。そうして店内にはトオルと美空と低めの音のBGMだけが残った。さっきまで店に流れている曲なんて耳に入らなかったのに、急にそれがピアノとバイオリンのインストゥルメンタルだと気付く。それくらい、店内は静かになった。
湯が湧くシュウシュウいう蒸気の音が折角のBGMを邪魔した。
ひきたての豆をドリッパーに重ねたネルに落とす。湯を注ぐと、コポコポッと豆とネルを通ってコーヒーがドリップされていく音がカウンターに響く。さっきまで書類を眺めてばかりだった美空は、今はトオルの手元をじっと見ていた。二人分の視線を浴びながら、いつもと同じペースで黒褐色の液体はガラス製のサーバーに落ちていく。
辺りには香ばしい薫りが漂い始めた。
ふと、美空が口を開いた。
「美純、以前にもここに来たことがあるんですね」
「えっ?」
ほんのちょっとだけトオルの手元に力が入って、湯を注ぐペースを乱した。
「どうして、そう思われるんですか?」
「傘が」
そう言って美空は入口の方にチラッと目をやった。そこには確かにあの子の赤い傘が立てかけてあった。
あの雨の夜に忘れていった、美純の傘。
トオルは訊ねた。
「あれが妹さんの物だと、どうして?」
美空はトオルの方を向き直って答える。
「あの傘、フランスの小さなメーカーが造った物なんです。職人が一本一本手で造っているから生産本数なんて年間100本くらいの本当に小さなメーカー。だけど母はそこの傘が大のお気に入りで、フランスに行ってはいつも直接出向いて購入してくるんです。自分の分と、私の分。それに美純にも」
「…………」
「日本には、まず入ってこない物です。ましてやこんな小さな街では今迄見かけたこともない。色だって彼女の物と同じ赤。多分、間違いないわ」
カップに注いだコーヒーを美空に差し出した。彼女はまた笑顔で「ありがとう」と言った。今日、四回目――。相変わらず静かな微笑みだった。
トオルはどう答えるべきか迷った。
まぁ、事実は美空の言う通りだし、彼にしてみればそのまま二つ返事で返せばよいことだった。けれど、何故かトオルは言い淀んだ。
引っ掛かっていた。あの日の帰り際、垣間見た美空と美純の関係。
そして彼はほんの小さな嘘をついたのだ。
三分の一だけ嘘。三分の一は本当のこと。あとの三分の一は彼の優しさをまぜた、ちょっとだけ違う事実を捏造する。
「実は、前に僕が近くのスーパーで買い物をしてきた帰り、道に落とし物をしちゃったことがあったんです。アンチョビの缶詰めだったかな、それを後ろを歩いてた妹さんが拾って届けてくれたんですよ。確か、一、二週間くらい前のことです……」
えっ、と美空は言って、コーヒーのカップを持った手を空で止める。
「そう、……なんですか?」
「昼過ぎから土砂降りの日でした。ちょっと切らした物を買い足すだけだからと傘も差さずに出かけたら、すごい雨。慌てて走って帰ってもんだから、どうも途中で落としたみたいで。それを親切に届けてくれたんで、僕は彼女にコーヒーを一杯。雨の中、わざわざそうしてくれた彼女をそのまま帰すなんて僕には出来なかった」
そう言ってから、トオルは笑顔を作ってみせた。それは美空がやるのよりも、何倍も上手に出来た『プロ』の作り笑顔。それで美空はカップを皿にした。彼女のまわりの空気が少しだけ緩んだ気がした。
「良くないことだったら、すいません。でも、無理に引き止めたのは僕なんです。けれど、引き止めたせいで今度は彼女、傘を忘れていってしまった。帰る頃には雨は止んでいて、それで……。悪いことをしちゃったな、と思っていたんです」
「もう、あの子ったらだらしがないわ」
美空はため息をついて言った。その様子を見てトオルは、あともう一つだけ嘘を付くことにした。
「帰りがけに「また、おいで」なんて僕が言ったのがいけなかったんですよ。彼女、ブンブン顔を振って「私、まだ高校生ですから、こんな所……」って。それで逃げ出すように慌てて走って帰っちゃったんですよ。最近の高校生はそういうところ頓着ないのかなって思って言ったんですけれと、彼女はちょっと違ったみたいだ……」
トオルはまた笑顔をみせた。それでとうとう美空は観念したようだった。
彼女は胸に溜めていた息をゆっくりと吐き出した。
「そうですか。あの子がそう言いましたか……」
そう言ってから彼女は少し冷めてしまったコーヒーのカップを口に近づけた。
トオルも美空も、それ以上その話題には触れなかった。
彼女からは他に会話はでてこなかったし、トオルの方も色々と喋るのはうまくないと判断したせいで、店内はBGMだけが響く病院の待合室のような堅苦しい空間になってしまった。今はたまたまアコースティックギターのミディアムスローな曲が流れていたが、出来ることならもうちょっとアップテンポな曲の方がトオルの気分は救われたはずだ。
ただ、今更曲を変えるのもそれはそれでおかしな感じなので、結局トオルはいろんな意味で諦めたのだった。