Jewel ≪空色の宝石≫ 4
「ありがとう。私、これなら食べられるわ」
「そうですか。よかった」
トオルはホッと胸を撫で下ろす。何とか事なきを得たようだ。万が一、この作り直しを彼女が食べれなければ、その時は素直に頭を下げるつもりだった。
「あら、そっちのお皿もとっても美味しそう。何だか交換してほしいくらいだけれど……」
四方夫人が向かいに座る娘に呟く。
「もう、お母さんっ。そうしたら、私が食べられなくなっちゃう」
「ふふふ。そうよねぇ」
コロコロと笑う四方夫人に、トオルはぎょっとする。折角、執り成した場をお願いだからかき回さないで欲しいものだ。思わず苦笑いをしてしまう。
「…………」
その横でわざと座り直した様子の次女には、冷たい目線だ。
すでに何かを言おうと口の形をかえていた美純は、トオルの無言のプレッシャーに負けて、代わりに次の一口を口に運んだ。
その後の食事は滞りなく進み、二皿目のパスタは、誰かさんの好みを十二分に反映した『手長エビのトマトソース』。目をキラキラさせて食べる様子を眺めるのはちょっと気分が良かったし、三皿目に出した『本マグロのカツレツ、マスタードソース』に、夫人は何度もため息を漏らしていた。
メインディッシュは『牛フィレ肉とフォアグラのソテー、マンゴーとバルサミコのソース』を用意した。夫人と長女のグラスに赤ワインを注ぐ。ワインと料理とを交互に口に運び、顔をほころばせる四方夫人は言った。
「素敵……。なんて美味しいワインかしら」
うっとりとした瞳で傾けたグラスをのぞき込みながら、そう言った。
「でも、……実はそんなに凄い銘柄ではないんですよ」
「まぁ、こんなに料理と合うお味なのに?」
四方夫人は目をまんまるくして驚いた顔をした。そうするとまるで大発見をした時の小さな子供のように見えてとても可愛らしい。また夫人の雰囲気にはそういったちょっと幼い、それでいて純粋な空気がピッタリと合った。不思議な空気感のある人だ、とトオルは思った。
「ついつい、良いものには良いものを、と考えがちですけれど、良いもの同士は互いの個性を相殺し合ってしまうことのほうが多いですから」
そう言うと、トオルは少しずつ片付けを始めている宝石類のショーケースの方を軽く指差した。
「今日の僕は、あくまであちらの引き立て役ですから。メインディッシュの付け合せの葉っぱと同じ係りです。ですから、ほどほどに、でしゃばらず、です」
小さな笑みを浮かべ、夫人を見た。夫人はふ~ん、と微妙な反応をしていたのだが、ふとトオルの左胸に付いていた葡萄のバッチを見付けて、ああっと納得した。
「シェフはソムリエさんでもあるのね。失礼しました、すごく素敵なワインのチョイスだわ」
「そう言っていただけると光栄です」
軽い作り笑顔で答える。
その隣で、えっ? と小さく反応していた美純には、本日のところは無反応で済ましておく。
トオルは四方夫人が訊ねてきた料理やワインのちょっとした疑問に二、三、答えたあとに再びカウンターの中に戻った。
今夜、最後のデザートの準備に取り掛かる。
デザートのメニューは『カーサ・エム』の定番の一品。
『スイート・カプレーぜ』と名付けたその一品は、トマトを使ったちょっと酸味のあるジェラートとバジルの薫りが華やかなシャーベット、それにリコッタチーズを使ったセミ・フレッドを合わせた冷たいデザートだ。赤・緑・白の三色がイタリアンカラー鮮やかにひとつの皿の上に盛り込まれる。仕上げにベリーのソースをデコレーションして準備OKである。
「まぁ」と「わぁ」と「ふわわぁぁ~」とほんのちょっとずつ違う感嘆の声の三重奏に、トオルは満足だ。
デコレーションを華やかにしたドルチェの皿は、この驚きや感動も美味しさの一部みたいなものだから、彼女達のこの反応は上々である。
女性三人は口々にその見た目や味わいを形容し合って、美味しさを共有し合っていた。
その間、トオルはカウンターのこっち側でコーヒーを入れる。
引き立てのコーヒー豆をネル・ドリップでゆっくりと抽出する。そうしている間、トオルはぼんやりと四方家の家族のやりとりを眺めていた。女が三人よれば姦しいなんて言うけれども、この家族が見せる姦しさはずいぶんと穏やかだ。その大きな一因は、母である四方夫人の独特の雰囲気であることは間違いない気がした。
彼女の発する独特なオーラとでもいうか、空気感は本当に不思議なところがあった。
凛としていてスキがないのに柔らか、芯があるようで掴みどころがない。
『天然』というよりは『一流の自然体』なんて言葉の方がしっくりくる。
ともかく、四方夫人という女性はそうであるのが当然、みたいなピタリとハマる雰囲気。彼女には不思議な説得力があった。
ただ、ちょっとした違和感も感じていた。
それは敢えていうなら、取り繕った空気感。
あの三人を見ていて何故か腑に落ちないところがあるのは、時折言葉を選ぶような素振りが見えることだ。
美純にしたってそう見えた。
あの日の夜、図々しくもトオルに向かってドルチェのお代わりを要求したような少女が、家族との会話に気を遣っているのは妙な気がした。
かといって、それが不自然に見えるというほどでもないのだ。
接客業を生業にするトオルだからこそなんとなく気になっただけで、もしかすればただの彼の思いすごしかもしれないのだ。
トオルはそれ以上は深く考えずに、煎れたてのコーヒーをカップに注ぐとテーブルに向かった。
本日最後のゲストのお帰りだ。
「シェフ。どうもありがとう。御馳走様でした。本当に美味しかったわ」
「ありがとうございました」
初めてサービスした四方夫人が一体普段はどのくらいお酒を飲まれる方なのかは知らないが、今夜はほんのりと頬が赤くなるまでワインを楽しまれて上機嫌であった。
「今度はぜひ、夫も連れてきたいのだけれど。……構わないかしら?」
「もちろんです。お待ち申し上げております」
「ありがとう」
そう言い残すとスルっと車上の人になる。そういった姿まで様になるのがこの人の凄さなんだろうか? とトオルはちょっと思う。
「シェフ。気を遣っていただいてありがとうございました。また伺います」
丁寧に頭を下げてお礼を言う、美空。確か大学生ということだったから二十一、二くらいの歳のはずだが、幼い頃からの躾からなのかびっくりするくらい立ち居振る舞いが板についている。まさに令嬢という感じだ。やや冷たい雰囲気はあるものの、それも含めて彼女の魅力的だと思えば納得できる。フローリングの床にヒールを響かせて出口のドアをくぐっていった。
最後に続く美純は、先の二人に見付からないように、胸元で小さな『バイバイ』をしてみせた。これはこれで彼女らしい。トオルはやれやれと口元をほころばせ、ウインクして応える。
が――――。
「美純ッ、なんでちゃんとご挨拶もできないの。失礼な娘!」
突然、鋭い叱責の声が響いてトオルは唖然としてしまった。
前を歩く美空が表情を険しくして振り返り、美純を激しく叱りつけたのだ。
彼女の刺すような視線が美純を射抜くと、美純はハッとなって青白い顔をしてトオルの方に振り返った。
「あ、ありあと……ご、がざいましッ、た!」
水飲み鳥みたいなぎこちない会釈をすると、美純はそのままの硬い表情で店を後にする。
外から冷たく言い放つ声が聞こえてくる。
「全く、どうしようもない子。恥ずかしい……」
「美空、もう、いいでしょう? 美純もわかっているわ」
その言葉を最後に残して、三人を乗せた車は走り出していく。
トオルはちょっとだけ理解した。
あの三人を見ていて感じた違和感が、何なのか。