Jewel ≪空色の宝石≫ 2
トオルが二組目のお客のパスタを茹で始め、タイマーを掛け、そしてソースの鍋を火にかけた頃に、本日最後のお客達を乗せた車が予定より10分ほど遅れて店の前に着いた。
到着を待っている間、仲間同士で雑談などを交わしていた宝石店のスタッフ達は、小走りに自分の持ち場へと戻り出す。
『カーサ・エム』の入口の扉が開くと、「いらっしゃしませ」とスタッフ達が仰々しく頭を下げてゲストを迎え入れる。
人数は3人。
確か一人は『生魚が苦手』だったはず。
トオルは、冷蔵庫の壁面にマグネットを使って貼り付けておいた顧客の資料を再確認する。
ゲストは女性3人。母と娘二人。
記憶の通りに長女が生魚NG。次女は未成年のためソフトドリンク用意と書いてある。
販売会は今回が初参加。
そして、
――四方夫人、ご息女! くれぐれも粗相のないように!! ――
手書きの注意事項がデカデカと書き込まれている。
クレグレモソソウノナイヨウニ。
こんなふうに書かれると別にひねくれている訳じゃないが、逆に嫌な気分にさせられる。トオルはいつだって、どんなゲストにだって、そんなことがないようにしているわけで。鍋の中のパスタを箸でほぐしながら、無意識で舌打ちしてしまった。
まぁ、そこまで言うなら一体どんな相手なのか見てやろうじゃないか、と彼は品定めしてやるようなつもりで入口の人だかりに目を向けた。
販売スタッフにいち早く取り囲まれたのは、一番最初に店内に入ってきた女性だ。
あれがきっと四方夫人だろう。その後ろに、肩くらいまでのセミロングの女性。身長は170cmちょっとあるだろうか? 取り巻く男性販売スタッフと比べても割と背が高くすらっとした20代前半の女性と、さらにその後ろにもう一人いるのだろうけれども、残念ながら最後の一人は人だかりで顔を覗くことは出来かった。
くれぐれもな夫人。
年の頃は50歳くらいだろうが、遠目にしてなかなか美しい容姿だとわかる。娘よりは低いものの、あの歳の女性にしては長身だし、それなりに出るところは出て引っ込むところは引っ込んだ、きちんと管理・維持された体型をしている。そしてびっくりするほど小さな顔は、なるほどお美しい。
そしてくれぐれもな娘たち。
長身の娘の方が長女だろう。鼻筋の通った綺麗な顔立ちだ。全体的にスレンダーな印象。それと透き通るような白い肌と艷やかな黒髪は、丁寧にケアされているのだろう。パッと見て一部のスキも見つからない。形の良い眉と切れ長の瞳がちょっと冷たい印象を与えるものの、どこに出しても恥ずかしくない立派な娘であることは疑いようもない。
そして、次女の方。
人波の間から、ようやく長い髪を結い上げてクリップで留めた可愛らしい横顔が見えた。小ぶりの形のいい耳としゅっとした顎のライン。
横顔は確かに美しい。
目元のメイクは控えめで、顔立ちはまだあどけなさを残しているようだが、母や姉に劣らず整った顔の造りをしている。それに、彼女には姉にはない女性らしい膨らみが胸と腰にあった。今がすでにこれだから、きっとあと数年もすれば母や姉すら羨むような美貌の持ち主になるのだろう。
ああ、君は一際クレグレモ、だな。
そんなふうに三人それぞれを採点し、「これなら合格。まぁ、なんなりと仰せのままにやりますよ」、なんてちょっと調子のよい事を考えてみる。
当然、冗談だ。
しかしそんな馬鹿げた考えをさせてくれた手書きの『クレグレモ』には何かを贈りたい気分だと、フライパンのソースの出来を確かめながらほくそ笑んだ、そんな時だ。
ふと、視界の隅で小さく手を振られたのが見えたような気がした。
さっきまで目を向けていた店の入口辺り。
トオルは怪訝に思って顔を上げたが、もうすでに視界の先ではセールスの熱が陽炎みたいにゆらゆらと見えるだけだ。
トオルは自分の気のせいか、と首を傾げた。
だが、振り返っても背中のところが妙にこそばゆいのは、なんとなくまだ視線を感じるからなのだ。その肩と背中をもぞもぞと動かしても解消しない不快感が気になってしまって、トオルはもう一度人波の方に向けてじっと凝らす。
すると、だ。
なぜか人の群れからちょっと外れたところに、一人、ぽつんと立っている少女。
吸い寄せられるように、目が合ってしまった。そして見つめ合っているかのように、じっとその視線の先を逸らすことができないのは、何かがトオルの胸に引っかかっているからだ。
「ふふふっ」
そう笑いかけてきたのが、彼女の口の形でわかった。
驚いて、思わず息を止めてしまう。
さらにその笑顔に見覚えがあるのに気付いたときは、トオルはしばらく息をするのを忘れそうになったくらいびっくりしてしまった。
唖然と顔全体に大きく書いたようなトオルの情けない表情を、くしゅくしゅの笑顔をして見ている少女は、美純だった。
『ピピピピピッ!!』
彼がその事実に驚いて目を見張ったのと、パスタの茹で上がりを示すアラームが鳴り響くのは、ほぼ同時で。
トオルの意識はその瞬間、急速に手元に引き戻される。
ハッとなって慌てて鍋から茹で上がった麺を取り出すと、ソースと麺を絡めていく。他に気を取られて思いのほか詰まってしまったソースに、ゆで汁を少しだけ足して調節する。
オリーブオイルをかけながら煽り、香りをたたせていく。皿に盛りつけ、チーズを削りかけ、バジルを飾る。完成にとりあえず胸をなで下ろす。
トオルは皿をゲストのテーブルに差し出し今日のパスタのメニューの説明をした。
ただその時の頭の中は、もう全然違うことを考えていたのだ。
ちらりと視線を流すと、トオルの視線に向こうも気付いたのか、わざと屈んで覗き込むようにしている。彼女のニヤニヤ光線がトオルの頬をチクチク刺してくるのが嫌というほどわかった。トオルはそれが腹立たしいのと、悔しいのと、おまけにちょっと恥ずかしいので、思わず唇を強く噛んみ締める。
一際、なんて思ったことは一生の汚点だ、と思った。
◆
トオルにとって本日最後のゲストである、四方親子がテーブルに着いた。
ただ、四方夫人の周りはまだちょっと落ち着かない。何人かの販売スタッフに声をかけられては、にこやかに返事を返したり、書類にサインをしたりしている。どうやら商談の方はすこぶる順調だったようで、彼らの表情はホクホクとしていた。
しかしトオルの顔は不機嫌そのものだ。さっきからこっち、美純の視線がずっとうるさいのだ。
彼女は家族の手前だからか至ってしおらしく振舞っていたが、時々トオルの顔を見ては顔を背ける素振りをした。半分は本気で半分は冗談なのだろうが、腹立たしいのは変わらない。
ただ、それと仕事とは別だ。
ようやく取り巻きから解放された四方夫人にトオルは挨拶する。
「こんばんわ、四方様。ご来店、ありがとうございます」
「こちらこそ。今日はお招きいただき光栄ですわ」
穏やかな笑顔をたたえて、四方夫人は言った。
「そう言っていただけると、自分も光栄です」
トオルはゆっくりと頭を下げてから、営業用の笑顔を向けて言った。
夫人の発する言葉は一音一音がはっきりとして非常に聴きやすく、けれども穏やかでそよ風のような柔らかいイントネーションだった。耳障りの良いリズムがあり、たった一言交わしただけでトオルの頭の中にしっかりと彼女の音が張り付いていた。
それは彼が知っているどんな声とも違った、とても特徴的で一度聞いたら忘れないような不思議な響きだ。
「イタリア料理はお好きですか?」
トオルと問いかけに、やんわりと答えが返ってくる。
「もちろん。それにあなたのお料理はとくに興味があるの。とっても美味しいと評判でしょ。本当に楽しみにして来たんですの」
「えっ……」
挨拶変わりの世間話の中に予想もしていなかった一言が出てきて、トオルは驚いた。
彼女とは初対面だ。
なのになぜかトオルの事を知っているような口振り。
まさか美純が……とも思ったのだが、そうではなかった。
「以前、この会に参加された奥様が褒めちぎってたのを聞いて。機会があればぜひ伺おうと思っていたの。なかなかその機会に恵まれなくて残念に思ってました。でも、そこへ今回のお誘いでしょ。私、本当に楽しみにしてましたの」
ちょっと恍惚な笑みをみせて、四方夫人は言う。
「ああ、そうでしたか。なら、ご期待に添えるよう、今日は精一杯頑張らせていただきます」
彼女の声で聞くその言葉は、決して悪い気はしなかった。
しかし、だ。
お世辞や社交辞令を使いこなしたり、会話の駆け引きや裏をとったり化かしたり。
トオルの知る社会的地位の高い人々は、そういった言葉の冷戦を日々繰り広げる方々ばかりで、場合によっては夫婦間でも探り合いの耐えないないような輩もいた。
実際、宝石を買い漁るようなこのイベントにはどろどろとした言葉を吐き散らす、腹の黒そうな連中もたくさんやってくる。そんな人間と会話するのは仕事とわかっていても鼻をつまみたくなってしまうが、この四方夫人はまったく違う種類の人間のようだ。
実際のところ、彼女には駆け引きなんて観念はないのだろう。それは目を見てなんとなくわかってしまった。きっとこの人は感じたそのままを純粋に口にしてしまうタイプだ。
美純があんなに真っ直ぐなのも確かに頷ける気がした。
トオルはさっきまでの自分考えをちょっと反省した。
四方夫人、どうやらかなり人好きのする人間らしい。
考えてみれば、彼女は全然悪くないのだ。悪いのは、むしろあの書類の一言で変な先入観を持ったトオル自身なのだ。
これは確かに、くれぐれも粗相のないように、だ。
「さぁ、今日は何をご馳走していただけるのかしら? 私、楽しみだわ」
トオルの胸中など関係なしに、四方夫人はさっきからすこぶる上機嫌だった。
その様子は、大好きな番組が始まるのを今か今かとテレビの前で待ちわびる子供のようにも見える。
トオルはまず乾杯のシャンパンを二杯と、ノン・アルコールのスパークリング・グレープジュースを一杯、グラスに注いで3人のゲストに差し出した。
「どうぞ」
「まぁ、シャンパン。嬉しいわ」
顎をコショコショっとされた猫みたいに幸せそうな顔をして夫人は言った。
「じゃあ、あなた達。乾杯しましょう」
そう言って四方夫人は手にとったグラスを娘達に傾ける。
グラスの重なる乾杯の音を背中に聞きながら、トオルは最初の料理を準備するためにカウンターの中に戻っていった。