Jewel ≪空色の宝石≫ 1
燦然ときらめく宝石たちはダイヤにエメラルド、トパーズ。ほかにも赤や蒼や、色鮮やかなたくさんの輝きが並ぶ。
手の込んだ装飾付きの指輪、上品なデザインのピアスやペンダント。
『カーサ・エム』に運び込まれるこれらを見やり、トオルは鼻を鳴らした。
これほどに素晴らしいものが目の前に揃っているにも関わらず、正直なところ彼の目を奪っているのは、その美しさではなくて、数字のゼロが羅列になった値札だったりする。
トオルにとってまったく価値を理解できないこの石達が、しかし本日の大事なビジネスパートナーなのだ。今回で5回目を迎えるジュエリー・yoshika主催のコラボイベントが、ここ『カーサ・エム』にて、もうあと一時間ほどで始まろうとしていた。
トオルは、いつもと随分雰囲気の変わった『カーサ・エム』の店内を見回した。
店内の三分の二のスペースを使って行われる貴金属の販売会。
ジュエリー・yoshikaの御贔屓の客のなかでも、とりわけ重要な三組がディーラー側よって選ばれ、特別に招待されるこの会は、普段は絶対に紹介しないような限定品のアクセサリーだったり、この日のために仕入れた貴重な品々だったりが、買わされることを目的に参加する資産家や有名人達に、値札なんてたいして見もせず取り引きされていく。
そしてトオルが関わるのは客への接待を目的とした食事会の演出の方だ。有意義かつ羽振りのいい買い物の余韻を満喫していただくため、彼がひと組ひと組、そのお客様だけの特別メニューを用意するのだ。
16:00から始まって、一組約2時間程度の時間を使って行われるこの会は、最初の一時間がメインの販売会、あとの一時間が食事の席。
最初のゲストが到着するまで、あと30分ほどだろうか。次第に行き交うスタッフの慌ただしさから、店内の空気の密度が濃くなってくるような気がした。
トオルはタタタタッと音を立てて軽快に刻んだハーブを、使いやすいように小さなケースに移す。使った包丁をさっと洗い、仕舞う。
会場となる『カーサ・エム』はそれほど広い間取りではないが、専門の業者に委託して不要なテーブルやイスを排出し、代わりにいくつもショーケースを置いた簡易宝石店のような造りに様変わりしていた。 けれども調度品や額の写真は『カーサ・エム』にもともと置いてあったものを使っているので、よく見るとラグジュアリーな雰囲気と気取らない装飾とが一体となった、どうもちぐはぐな空間だ。
慌ただしく設置作業の最終チェックをするスタッフと、運び込んだ貴金属を仰々しく飾るスタッフが入り乱れ作業する中、カウンターを挟んだ内側ではさっきの包丁仕事で粗方下準備を整えてしまったトオルが、宝石店の販売スタッフの行動を何となく目で追って楽しんでいた。
壁際の指輪ばかり並べたショーケースの前に立つ男性スタッフは、さっきからずっとブツブツとショーケースに話しかけているし、若い女性のスタッフは手に持ったバインダーに挟んだ資料と現物とを一つ一つ照らし合わせて、何度も納得するみたいに頷いていた。40代くらいの長身の女性販売員は、落ち着きなく店内を行ったり来たり、行ったり来たりの徘徊中。
きっと彼らスタッフには、それぞれノルマみたいなものがあって、それが達成されるかされないかで、今後の自分の社内でのポジションに影響を与えたりするのだろう。
緊張やプレッシャーからなのか、皆、同様に眉間に深いシワを寄せ、キリキリ、カリカリと張り詰めた空気を発していた。
『カーサ・エム』の中はさながら、翌朝の出兵を控えた軍隊みたいな殺伐とした雰囲気だ。こういう追い詰められた人間の観察は、普段見えない本性のようなものが覗いてわりと楽しいものだ。
悪いとは思いながら、トオルは陰でクスクスと笑っていた。
実際のところトオルにしたってまったく緊張していない、というわけではないのだ。
今回、彼に任せられているのはただ美味いものを作って提供することだけではない。
というのも、ひとつのテーブルに一時間毎に新しいお客を案内する今回の食事会の性質上、ひと組目の客は次の客の買い物が終わるまでに食事を済ませていなければならないのだ。
そのためにはある程度、アップテンポで食事を提供し続ける必要がある。料理をテンポ良く出しきって、最初のお客にお帰りいただかなければ、一時間後に次のお客をテーブルに案内するはずが結局お待たせしてしまうことになる。
かといってあまりに早過ぎれば、それも問題だ。
食事は慌ただしいものになって、折角贅沢な買い物をして上機嫌な客の気分を台無しにしかねない。
要するに、『主催者』にも『お客』にも都合のいいタイミングを見つけ出して、提供することが要求されるのだ。全員にとってのベストなタイミングを見極めるのも、またそのタイミングで実行するのも、なかなかに高度な技術や判断力が必要とされる。
一発勝負。
けれど、そんな失敗できない緊張感もむしろ心地良い。
ストレスの少ない中での作業は、ミスこそ少ないが同様に高い結果も生まれないものだ。緊張感に呑まれるのではなく、呑み込む。トオルは今、自分の中の気持ちの核みたいなところが、だんだんと集中の密度を増しているのを感じていた。
時刻は16:00まであと15分をきった。
トオルは冷蔵庫から出したあるものをショット・グラスに注ぐ。
それをグラスの半分くらい、一気に口の中へ放り込んだ。舌の奥の方、喉の近くを液体が刺激し、飲み込むと果実の熟成した香りと木の焦がしたような香りが鼻腔に抜けていく。
急に視界の解像度が上がる気がする。映るものがどれも鮮明になる。
何度か喉の奥からこみ上げてくる香りの余韻を楽しむと、気持ちの方もだんだんと盛り上がってきた。
さあ、今日もがんばろうかとトオルが気を引き締めた時だ。
「あら? ねぇ、私にもそれ、ちょっといただけないかしら」
不意に背後で声が聞こえた。
振り返ると、黒いスーツを着たおかっぱみたいなショートカットが特徴の50歳くらいの女性がトオルの顔を覗き込んできた。紫がかった青のアイシャドーの両端に年齢を感じさせるシワが刻まれた、パッと見、貫禄のある顔だった。
「……?」
急に声をかけられたトオルは、最初、彼女が一体何を言っっていたのかよくわからなかった。だから言葉の意図を探ろうとして、じっとその表情を見つめ返した。すると、彼女の方も伝わっていないことを察したらしく、もう一度、今度はトオルの手にあるグラスを指さして言う。
「私にも一杯、下さる? もちろん、お代は支払うから」
「あっ、これ……ですか?」
トオルはショットグラスをみせると聞き返した。
「でも、これってお酒ですよ?」
「そんなの、わかってるわよ」
「えっ……いいんですか、仕事前なのに?」
「ちょっとなら。第一、仕事前なのはお互い様よ」
「まぁ、そうなんですけど」
トオルはその言葉があまりにも正論だったので苦笑してしまった。
「ただ、ちょっとした気付けっていうか……少し強いですよ」
「いいの。そのほうが頭がクリアになるじゃない?」
確かにそうなのだ。トオルがそうしたのも、まさにそういう理由だった。
少量のアルコールは感覚を鋭敏にすることがある。それが作業の進行や結果に良い影響を与えることさえある。カフェインでも似た効果は得られるが、威力は断然アルコールの方が上だ。
あくまで、たくさん口にしなければだが。
「お好きなんですか、お酒」
トオルはグラスに注いだやや黄金色がかった液体を、彼女に差し出した。
「当たり前でしょ。女を一人で50年もやっていくには、色々と道具が必要なのよ」
ニンマリとしてみせると、彼女はためらわずにそれを一息であおり、そして空になったグラスを今度はまじまじと眺めた。
「……これ、何かしら? 美味しいわね」
眉と頬とをキュッと上げて、彼女はちょっと首を捻って言った。記憶の中から同じものを探し出そうとしているのだろうが、どうやら答えは見つからなかったようで、彼女は残念そうに表情を曇らせた。
「シェリー酒、ってスペインのお酒です」
トオルは答える。
「アンダルシア。ポルトガルに近い辺りのお酒ですよ」
「へえ。何だかシェリーってサラッとしていて、飲みやすい印象だったんだけれど、これは割に味が……」
「濃い、でしょう? 日本でシェリーと言えばポピュラーな銘柄があって、それがスッキリ&ドライな味が売りの銘柄なんです。けれど、その味が僕にはどうも物足りなくて。それでうちではこの銘柄を使ってるんです」
ふぅんと鼻を鳴らして彼女は言った。
「あなたこそ、好きなのね。お酒」
「僕のは、仕事ですから」
そう言ってトオルはエプロンの左胸に付けたバッジをつついてみせた。それを見て「ああ……」と彼女は納得したように頷く。
ちょうどその時、『カーサ・エム』の前に一台の車が止まった。中から降りてきたのは60代くらいの男女。おそらくはご夫妻だろう。
トオルは予約の名前と来客数を資料で確認する。
黒木夫妻・2名様。
『カーサ・エム』の中で待機していたスタッフ達が慌ただしく配置に着くと、背筋を伸ばし、手を組んでゲストを迎える体勢を整え出した。
「到着、のようですね」
「ええ。そうみたい」
二人は視線を重ねた。
互いにほんの一瞬の真剣な表情。そしてそれはすぐにゲストを迎える笑顔へと代わっていく。
「ごちそうさま。お幾らかしら?」
「いいえ、結構ですよ」
「ううん、遠慮しないで。これはあなたのビジネスでしょ。私が必要なものを、あなたは提供した。そこには費用が発生するものよ」
しかし、トオルは首を横に振った。
「そう言うなら、あなたは僕のビジネス・パートナーだ。パートナーからはお金は取れない」
「パートナー?」
彼女はちょっと不思議そうな顔で聞き返してきた。
「あなたの仕事がよければ、その後に仕事をする僕はきっと有利になる。お客様の満足を引き出しやすくなる。逆に僕の仕事がよければ、あなたは次回の顧客を捕まえやすくなる。僕らが互いにベストを尽くせば、どちらにとってもポジティブだ。なら、あなたの気付けのために一杯奢るのは僕にとってのビジネスみたいなものじゃないですか?」
頬が緩み、口元を持ち上げた彼女は、ほおぅと口の形をした。
「あなた、面白いわね……」
そういうとトオルに真っ直ぐ向き直って仕事用の顔を作った。
「私、今岡倫子よ」
「僕は廣瀬トオルです。どうぞよろしくお願いします」
彼女が名乗ったので、トオルも名乗りを上げた。失礼のないよう遜ったのは、彼の勘がそうさせていたからだ。
多分、彼女は出来る女だ。敬意を払って、悪いことはない。
「それじゃ、ベストを尽くしてくるわ」
倫子はそう言って、お客様をお迎えするため歩きだした。
その背中は信頼のおけるビジネス・パートナーのものだ。