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No rain, no rainbow. ≪涙≦笑顔≫ 12

 気が付くと二人共、腹の底から目一杯に笑っていた。

 何がそんなにおかしかったのかは、本当はわからない。実はただ胸にこびり付いていた悩みのカスや、ジメジメで鬱蒼とした思いのどろどろを、笑い飛ばした勢いで一緒に掻き出そうとしただけなのかもしれない。

 でも美純が笑っていればトオルは笑えたし、トオルがそうなら美純もまた笑顔だった。

 おかげで、さっき会ってからずっと曇りっぱなしだった彼女の表情は、いつの間にか明るくなっていた。

 悩みも苦しみも決して消えてなくなったわけではない。多分、美純の中にはこれまで抱えてきたのと同じだけ、それは残っているはずだ。 

 それでも、笑うことさえできていれば、苦しみも悩みも少しずつ溶けていって、いつかは本当の笑顔の芽が吹くはず。

 そうであってほしい、と願う。

 お互いに十分笑って、お腹の筋肉もこれ以上の負荷はゴメンだと音を上げたころ、美純の目がくるっとなった。

「ところで……ねぇ、さっきの話って、あなたのコト?」

 急に上目遣いの顔を覗き込ませてきたかと思うと、美純は興味津々の顔を浮かべた。けれど、トオルはわざと無表情を作り、その質問には答えない。

「あなたって、なんかこそばゆいからやめろよ。ト・オ・ル、だ」

「えー、じゃあ、トオルさん? トオルさま?」

「あのなっ、わざとらしいのもムカつくからやめろ。トオルでいい。みんなからはそう呼ばれてる」

「でも……私よりもずーっと年上なのに、いいの?」

 年上のところをやたらと強調して言う美純だ。

 いたずらっぽくした笑顔をみせるが、トオルがジロリと睨みをきかせ、こぶしを握って振り上げてると、キャッとおどけた声を上げて両手で自分の頭をかばう。

 ちょっと腕を伸ばして頭を小突こうとすれば、キャーキャー言って右に左に体を捩る。大人げないぞーとクシャクシャの顔で口撃してくるのに、トオルもとうとう苦笑いだ。

「ト・オ・ル、だ。呼ばれなれてるからそっちの方が楽なんだよ」

「うんっ。じゃあ、そうする」

 美純は思いのほか素直に返事をすると、ニコリと笑顔を向けてきた。

 目を細め、唇を形よく半円にした、まるで笑顔の見本のようなその顔が美純にはよく似合う。彼女の魅力を引き立てるのは、きっとこのキラキラとした表情なのだ。

「それで、さっきの話はトオルの昔の話?」

 目を輝かせた彼女の表情は、好奇心旺盛な17歳の少女のそれにほかならない。

「あれか? 友達の話……いや、テレビで見た話だったかな。まぁ、そんなところだ」

「えー、何それ」

 美純は急に不満そうな声を上げて、ほっぺたを膨らませて反論してきた。

「そんなの、なんでもいいだろ。さあ、食べ終わったなら、もう帰ったほうがいいんじゃないか?」

「そうやって話を逸らすの、ずるいっ」

「ずるくてもいいの。これ、大人の特権」

 トオルは肩をすくめてやり過ごそうとする。しかし、美純もなかなかしぶとい。

「もうっ、教えてくれてもいいじゃない。海外って、どこに行ったの? ドイツ、フランス、それともアメリカ? ねぇ、訊きたい、訊きたいっ」

「お前なぁ……ほら、今日はもう遅いから、店仕舞いだ。用のない方はお帰りください」

 トオルはうっとうしいとばかりに手でシッシッと追い払う素振りをする。

 眉間にむぅと皺を寄せた不満印の美純は、それでもなんとか食い下がろうとしてきた。しかし、トオルはさっさとキッチンの火を落としてしまい、さらに店内の照明も必要最低限を残し全部を消してしまう。

「ほら、帰るぞ」

「ああっ、ひどい! そんなふうに邪険にしなくたっていいじゃないっ」

「終わりだって言ってるだろ。もう高校生の出歩く時間じゃない。さっさと帰れよ」 

 抵抗してきたって、適当にあしらうだけだ。

「で、でもっ……私、まだ食べ終わってないもんっ」

「はぁ?! 何をだよ」

 すると彼女は手元の皿を指さし、口をツンと尖らせて不満そうに言う。

「だ、だって、話を聞いてる間にジェラートが全部溶けちゃって、みんな混ざっちゃったから……」

「それが、なんだっていうんだ?」

 トオルが面倒臭そうに言うと、美純の方は伏し目がちに答えた。

「これの新しいのがほしいかなー、って言ったら……怒る?」

 トオルはポカンと空いた口がしばらく閉まらなかったが、そのうち腹のそこから大量の笑いが吹き出してきて抑えられなかった。

「ぶははははははッ、美純、お前、最高ッ!」

「なっ?!」

 豪快に笑い飛ばされたことがよっぽど不満だったらしく、内から吹き出す感情に身震いした美純は、ほっぺたをぷぅっと膨らましてまるで赤い色の風船みたいに見えた。それを見たら、ますますトオルの笑いは止まらなくなってしまう。

「もうっ、わ、笑うなぁッ!!」

 彼女が両手でカウンターを叩く。その剣幕に皿もカップも驚いたみたいに飛び上がったのだ。



「あっ、雨、止んだ」

「ホントだ。よかったじゃないか、これで濡れずにすむ」

「うん。そうだね」

 美純は『カーサ・エム』の扉を出ると、180°ターンしてトオルの方を向く。足元の小さな水たまりが、彼女の動きにあわせて水しぶきを散らした。

 振り返った美純は姿勢を正して丁寧に頭を下げると、よそ行きの笑顔で言った。

「今日はごちそうさまでした。話も聞いてくれて、そっちもありがとうございました。とっても感謝しています」

 育ちの良さ、なのか。礼儀正しく振舞う姿は様になっている。

 慇懃にされることは決して悪い気はしない。けれど、トオルは敢えて美純の頭を一回、小突いた。

「い、痛っ、ちょっと、なんで叩くの」

 覚えのないことで叱られた子供のようにムスっとした顔の美純は、叩かれてた場所を手でさすりながら、ぶぅーと不満の音を鳴らしてトオルの顔を睨み付けてくる。

 思わず唇の端がほころんでしまう。

「そういうの、止めろって。別に礼を言われたくってしたわけじゃない」

「で、でも……なんかいっぱい迷惑かけちゃったから」

「いいって。俺にとっては友達の相談にのってやったくらいの軽い気持ちなんだからさ」

「友……だち?」

 自分ではニンマリと笑ってみせたつもりだったのだが、思ったより大きな笑顔が作れなかったのは、友達に向ける感情というよりも年の離れた妹を思うような慈愛の念に近かったからかもしれない。

 美純はちょっと首を捻って訝しそうにしたが、すぐに何かを見つけたみたいに納得した目をすると、口元を柔らかく変えた。

 今度のは顔の端々から力を抜いた、いい笑顔だ。胸の内をそのまま置き換えた、自然な表情に感じられた。

「じゃあ……ありがと。ゴメンね、泣いたりして」

 トオルは気にするなとばかりに首を軽く振ってみせる。

「ああっ、でも、なんかスッキリした。多分、今夜ここに来て、私、正解。明日からまた笑顔でがんばろー、って気になれた」

「そうか。よかったな」

 美純は、うんっと言って首を頷かせた。

 そして、今夜一番の笑顔だ。

 くるっとした大きな目を上機嫌な猫よろしく細めて、形よく揃った白い歯をピンク色の果実のような唇の間からみせる少女のその顔は美しい。

 トオルは思わず目を細める。

 まるで雨上がりの空にキラキラと輝く虹を見上げる時のような感覚。

 眩しいくらいの幻想的な美しさ、とまではいわないが、息を呑んでしまったのは無意識の反応だ。

 思わずため息と一緒に溢した言葉は、いつもだったら喉の手前で飲み込んだいたはずのもの。

「美純って、笑うとすごく可愛いいのな……」

 トオルは言ってしまってから、ハッとして表情を取り繕った。

 それは、17歳の少女に向けて大の大人の男が言うには気恥しい言葉を、あんまりにも簡単に口にしてしまったことへの照れ隠し。

 一瞬、美純は言葉を失っていた。

 けれど、すぐにプイっと顔を背けてしまう。

「バカ……急に、何、言ってんのよ」

「いや、べ、別に。なんとなく、そう思っただけだよ」

 うまく言葉が継げない不格好な沈黙が二人の間に落ちる。

 もじもじとしている美純を、トオルも真っ直ぐ見ることが出来ずにいた。何かを切り出そうとしても、水の上に口を出してぱくぱくする魚のように、出てくるのは空っぽの吐息ばかりだ。

 しばらく二人はそうしていたが、やがて美純の方が顔を上げた。

 まだちょっと気恥しそうな表情を残したまま。

 トオルの顔を覗いた瞳は、ほんのちょっとだけ彼の目から逸らしていた。

「じっ、じゃあ、行くね」

「あ、ああ。元気で。がんばれよ」

「うんっ、ありがと」

 手を振って、ちょっと小走りに逃げていく美純の背中を、トオルはしばらく見送っていた。

 彼女は一つ先の交差点を渡って、駅の方へ向かって姿を消していく。

 辺りはもうすっかり夜の色を濃くしていた。

 さっきまでの雨はどこへやら、雲の切れ間からはずっとそこに居たみたいにすました星空が顔を出していた。

 トオルは、入口周りの看板類を店内に引き込む。今夜の営業はこれで終わりで、ディナータイムのお客は、美純ただ一人。

 そして売上はゼロ。

 でも、まあ、こんな日だってある。

 店外の照明類を消して、CLOSEの看板を出して、皿やカトラリーの後片付けを一通り済ませたときに、ふと思ったことがあった。

 なんだかきっと、また会う気がすると。

 帰り支度を始め、履き古したジーンズに足を通し、コックコートをサマーセーターに着替える。

 そして――何かが目に止まったのだ。すぐにさっきの予感が確信に変わった。

 笑いが溢れてしまった。

「あいつ……」

 銀色の柄。白の縁どりが付いた真っ赤なデザインの傘。

 傘立てには彼女の傘が残されていた。

「くくくっ」

 あのわがままなゲストはきっともう一度やってくる。それがなんだか待ち遠しく思えてしまったのだった。


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