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No rain, no rainbow. ≪涙≦笑顔≫ 10

 だからだろうか。

「……なぁ、美純」

 デザートに出したガナッシュとジェラートを堪能している美純に、トオルはそっと話しかけた。

「ん、何?」

 言おうか、言うまいか、ちょっと悩んだ。

 出した料理をぺろっと食べきり、最後のドルチェも彼女の口に合ったのはその表情を見ても十分わかっていたから、このまま彼女を見送ればきっと今夜は十分に満足したと思ってくれるはずだった。

 普通だったら、それでいいのだろう。ましてや、彼女とは昨日会ったばかりの、いってしまえば赤の他人なわけだ。

 別にあえて掘り返す事も、首を突っ込む必要もない。

 けれど、どうしてかそうできない。さっきから胸にある空虚な感じが、じわじわ膨らんでじっとしていられない。

 だから、つい踏み出してしまったのだろうか。

「なぁ、進路希望調査書なんてさ、たぶん適当に書いたっていいと思うんだ」

「えっ……?」

 トオルの口から出てきたその単語が美純を忽ち現実に引き戻した。彼女の表情がすぐにくもってしまう。

「いや、その……少なくとも思いつめて書くものじゃないだろう?」

「う、うん」

 美純の手が止まってしまった。

「あのさ、気を、悪くしたならごめんな。お前がどうしてあれを提出しないのか、俺はその理由を知っていて言ってる訳じゃないから、さ。でも……今ここで俺に見せたってことは、少なくとも俺の意見を聞くつもりがあったってことだと、勝手に解釈させてもらうよ。だから嫌なら怒ってくれていい。やめろっ、て怒鳴ってほしい」

 そう言ったが、美純からの返事はなかった。トオルは彼女の無言を肯定と受け止め、ひとつ大きく息を吸い込んで続けた。

「あれはさ、絶対にお前を助けるものじゃないといけないよな。なのに今、そんなにもお前を追い詰めているのはちょっとおかしいと思うんだ。……お前があれを出した時の顔、まるで最後通告を突き付けられたみたいな顔だった」

 美純は黙ったままだ。見ているのか見ていないのか、皿の上のジェラートに目を落としたまま、じっとしている。

 トオルはそんな彼女の様子をみて苦い気持ちになった。

 それでも、今更引き返すのはもっと彼女に苦しみを残すだけのような気がして、トオルはさらに一歩踏み出す。

「お前をそこまで追い詰めてるのがあんな紙一枚の問題だとは思っていない。けれど原因がなんであれ、……もっと気楽に考えていいんじゃないかと思うんだ」

 言い切ってしまうと気持ちは楽になったが、代わりに胃の底に冷たい金属を落とされたような重苦しさが残る。

「まぁ、お前にしたら、ひとごとだからそんなに簡単に言えるんだって思うだろうけど、な……」

 結局、最後は言い訳じみた言葉が出てしまう。

 後悔していないかといえば、嘘。

 なにしろ会ってたったの二日、だ。

 正直、踏み込みすぎなのはわかっていた。けれども、トオルにはどうしても放っておくことがなかった。

 それをただの自己満足だ、といわれれば全くもって弁解のしようもない。

 だが、伝えなければいけない気がしたのだ。

 それが何かといわれれば、答えは自分の中にだって見つかってはいないのに。普段、そんな無責任な行動は避ける性格の自分が、どうしてそこまでしてこの少女を気にかけるのだろうか。

「美純……」

 少女の名前を呼んだ。しかし、彼女から返事はない。

 トオルは暗い気持ちになった。

 後悔が色も形もある実体になって彼の前に差し出されればこんな気分だろうか。

 年寄りの冷水、なんて言葉まで頭に浮かんで自嘲してしまう。この胸の濃い苦味は、きっとどんな酒でも流し込むことはできない。

 そう、思えたから。

 トオルは美純に向けていた視線を逸らそうとした。

「……私は、ね」

 囁くような小さな声だった。

「私は、このままじゃいられないから。自分の居場所は自分でつくらないといけないの」

 美純は俯いたままで言った。

「居場所、って……」

 聞き返すのだが、彼女は首をそっと左右に振るとそれっきり答えようとはしなかった。

 所詮、10代の少女と30代の男の間には共通の言語など存在しない。

 それは、理解しようとしてもとっくの昔に自分が失ってしまった、太古のコミュニケーション。

 そういうことなのだろうか。

 だから美純の心に歩み寄る事ができないのか――

 きっかけは彼女を励ますつもりだったはずが、いつの間にか彼女を問題そのものに踏み込もうとしているのに、トオルは気付いていなかったのだ。冷静になって考えればただのお節介でしかない行動の理由にも気付かない。

 それはまるで砂漠を森に変えようと必死に水を撒くように、ただ自分の胸に空いた穴を埋めようと、喪失感を満たそうとしているだけの行動。

 ふと、胸に浮かぶのはどうしたことかあの頃の記憶。

 誰だって例外なく通るのだ。

 トオルだって、そうだった。

 渇いた土に水を撒くのは、なにも彼女のためだけではない。

「あのさ……昔、そういう書類を馬鹿みたいに全力で書くヤツがいて、さ」

 トオルの口から出たのは、もうずっと昔のある記憶だ。

 深い湖の奥底に沈めたような錆び付いた記憶は、決して自分からは引き上げようとは思わない、どちらかというとドロっとしたもの。

 だけどそれは、今の彼女と唯一言葉をかわすことのできる共通の言語かもしれない。

 だから敢えて口にするのだ。それが舌の上を通るたびに苦味の記憶を呼び起こす過去だとしても。

「そいつの夢はサッカー選手になることだった。『卒業アルバム』とか、『タイムカプセルの中の手紙』とか、そんなのにはいつも同じことを書いてた。小さい頃から人よりちょっとデカくて、小学校の低学年の頃からポジションはゴールキーパーをやっていた。体もデカくて、勘がよかったから、すぐに町内じゃ一番の名キーパーみたいに言われてさ。気が付けば県内一の名キーパーだって、大人達の注目も集めるようになっていてた。県の代表チームにだって呼ばれて、海外の同世代のチームと試合をするようになって……その頃はすごかったんだぞ。今の東南アジアの国家代表に入ってる選手なんかと対戦してたし、そいつらのシュートをバンバン止めてたんだ」

 話しているうちになんとなしに口調に熱がこもしまったのに気付き、トオルはわざと鼻をぐずっとさせた。

「…………」

 美純がそれを聞いているのか、聞いていないのかはわからない。じっと身動ぎもせずカウンターに目を落としたままだ。

 だが、トオルは構わず話し続けた。

「中学までは順風満帆。チームは結局地区大会どまりだったけれど、本人は世代別の代表候補にも入ったりと、まぁ、人に誇れるくらいの実績はあった。高校は当然、県内のサッカー名門校だ。そして将来は絶対プロのサッカー選手になるって、……そう決めていたんだよな。だから、そいつは本気で進路希望調査書にだって書いたのさ。でも、担任の教師も別に何も言わなかった。周りの友達も「お前なら、絶対なれる」って、いつも言ってくれてた」

 トオルは入れたてのコーヒーをカップに注ぐ。

 美純の分と、自分の分と。

 美純のカップにはミルクをたっぷりと入れて。

 自分はブラックだ。

 それはもう変わらない思い出の味がビターなのと、これから始まる未来がたっぷりの白くて優しい希望に満ちているみたいに。

 トオルは言葉を続ける。

「けれどそいつは高校に入って壁にぶつかった。努力しても、努力しても、試合に使ってもらえなかった。自分とは別の人間がいつもレギュラーに選ばれた。キーパーってポジションは絶対に一人しか試合に出れないから、そいつは3年間、ずっと二番手のまま過ごすことになった」

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