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Love begets love. ≪それでも、男と女はすれ違う≫ 9

 瑠璃に連れられて地下鉄メトロを降りたのはジローナ駅。

 そこから1ブロックとちょっとを歩いた12階建てのマンションの9階が、彼女の住居兼オフィスのマンションだった。

 大理石張りの贅沢な造りの玄関。天井は高く、小さいながらもシャンデリアが吊られている。一人暮らしには少し広すぎるくらいのリビングの他に部屋数はざっと見ても4~5部屋ありそうだ。

 ここは世界でも屈指の観光地、バルセロナ。しかも、いわずと知れた世界遺産サグラダ・ファミリアから徒歩数分の市内でも一等地にあたるような場所だ。はたして幾ら払えばこんな物件が手に入るのか。聞いてみたいような、聞きたくないような、だ。

「ここが書斎。ちょっとくらい覗くのはいいけど、どれも奇跡のバランスで積んであるから入っちゃダメ。あと、こっちがキッチン。冷蔵庫の中身は大したもの入ってないから期待しないでね。唯一、ビールだけはちゃんと常備してる。飲んだらそのぶん補充しておいてくれるなら勝手に飲んで。もしも、あたしが飲みたいときになかったら、そのときは無条件でキレるから。OK? それと、あっちに洗濯機。洗うならついでにあたしのも一緒に洗っといてほしいな。別に下着とか見られても、あたし全然気にならないから安心して」

 瑠璃はいつも以上の早口で家のルールを説明していく。

「それで、あんたの部屋は向こうね。隣りがシャワールーム。奥、トイレ」

「お、バス・トイレは別々なんだ」

「は? 何言ってんの。うちはバックパッカ―向けの安宿かっつーの」

 気分を害したのか睨まれた。トオルとしては破格の高待遇に素直に驚いただけだったのだが。

 まずはかさ張る荷物をどうにかしようとあてがわれた部屋へと足を向けた。ドアノブに手を伸ばしかけ、そこでふと視界の片隅に映った奇妙な造形物を怪訝に思う。

「……あれはなんだ?」

 指さし、訊ねる。床から天井に向けて真っすぐ据え付けられたガラス張りの円筒形。直径は1m弱といったところか。一見、ショーウインドウを思わせるが、それにしては目の届く高さがぐるっと帯状の磨りガラスで目隠しされている。

「ん、それ? ふふふぅー。いやぁ、ちょーっと、クールでしょお」

 瑠璃がやけに満面で返してきた返事はちっとも質問の答えになっておらず、トオルは仕方なく近づいて中を覗きこんでみた。

「おっ、なっ……! はぁ? これ……はぁぁ!?」

 そして、思わず絶句。

 派手な色をしたボトルが目に入った。ブラシやスポンジも。

 このガラス張りの筒の正体はシャワールームだ。そう思って見れば、確かに磨りガラスの部分はちょうど肩から太腿くらいまでを隠すようカバーしている。――してはいるが、だからといってこれでは間違いなく外からシルエットがまる見えだ。しかも、このシャワールームは部屋の間取りのほぼ真ん中に位置していた。あくまで意図的に『見せること』を意識して造られたものだ。ラブホならまだしも、これはさすがにナンセンスである。

「そっちはあたし用だからねー」

「あのなぁ、頼まれたってこんなのに入れるか。全部、見えちまうだろうが」

「バカねえ、見えないわよ。ちゃんとココで隠れるようになってるもの」

 瑠璃が手をぱたぱたさせて笑う。

「いや、お前……これはさすがに……」

 頭おかしいだろ、と口から出かけた言葉をトオルはどうにか飲み込んだ。

 自信満々のドヤ顔。察するに、どうやらこの奇抜なシャワールームは当物件イチのアピールポイントらしい。住居兼オフィスということだから、すでにここには不特定多数の人間が出入りして『アレ』を見て見ぬふりしているわけで、そこを今更トオルがつつくのもどうかというものだ。アンティークの家具を扱うような人間の常識は常人とはちょっと違うのだろう。そういうことにしておく。

 妙な脱力感を感じつつ、トオルはスーツケースを部屋に運び込んだ。そして、さり気なく室内を物色。部屋は六畳くらいのこじんまりとした広さだ。大きな窓にかかったカーテンは白と青を基調とした北欧風のデザイン。セミダブルくらいのゆったりしたベッドに、小さなデスク。家具と呼べるものはそれくらいだが、壁にかかったシックなデザインの時計は風格を感じた。おそらくアンティークものだろう。さっきの奇抜シャワールームとは違って、こちらはいたってノーマルな雰囲気だ。ホッと胸を撫で下ろす。

「ねーえー、それよりさー」

「あー? なんだってー?」

 ずいぶん離れたところから瑠璃の呼ぶ声がして、トオルも同じように遠くに訊き返す。「だからー、……って」と声が返ってくるが、間取りが広いだけあって距離が離れると会話が成立しない。仕方なくあちこちの部屋を覗いて探してみると、瑠璃はリビングでノートパソコンを開いて作業中だった。

「なんだよ?」

 訊くと、瑠璃は視線はパソコンに固定したまま、

「ほら、あんたのおごりディナーにはまだちょっと時間早いし。せっかくあたしもオフだから、これからどっか連れてってあげよかなーと思って。でも、いまさら観光って感じでもないでしょ。というわけで、あんた、他に行きたいところってある?」

 しゃべりながらも指先はカタカタカタと軽快にキーボードを叩く。その指さばきに思わず見いってしまう。

「そうだなぁ……とくにこれといってないけれど……まぁ、しいていえば本屋かな。本場の料理本とかワインの本は見ておきたい」

 タタンッ、と急にリズムが止んで瑠璃が顔を上げた。

「それ、採用。つい最近出来たリブレリアで、中にバルが併設されてるところがあるらしいのよ。あたしも興味はあったんだけど、まだ行ったことなくて。そこ、行ってみよ」

「バル付きか、すごいな最近の本屋は。いいね、行こう」

「……で、そのあとでいいんだけれど、実はあたしの買い物にもちょこーっと付き合ってほしいんだけど」

「別に構わないが。今日は特に予定もないし。で、お前は何を買いに行くんだ?」

「もちろん、服よ、服」

 当然でしょ、と言わんばかりの顔。

「ほら、あたしって買うときはまとめてドカッと買っちゃうタイプじゃない? あれもいい、これもいいって思って買うだけ買っちゃうんだけれど、お会計の後にいっつも後悔するの。一体、この量どうすんのよって。確かに配送させればいいんだけれど、そうすると受け取りのタイミングには必ず家にいないといけないでしょ。それが絶対無理。あたしって束縛されるの全然ダメな人間じゃない? 思い立った瞬間がスケジュールみたいなとこあるし」

「ようするに荷物持ち、と……。お前、俺の行きたいところがどうの言って、結局のとこそっちが本命だよな」

 一瞬、瑠璃がとぼけた顔をした。

 しかし、伊達にトオルも付き合いは長くない。

「……だよな?」

「まぁ……それは、ね」

 トオルがもうひと押しすると、彼女はあっけなく吐いた。変に取り繕わないところは瑠璃らしいといえば瑠璃らしいのだが、悪びれもせず意向を押し通すところもまた彼女らしい。結局、いつも折れるのはトオルのほうだ。

「OK、OK。お供しますよ、どこへなりとも」

「ムイ・ビエン! さすがは男子!」

 パチパチと手を叩いて意味不明の称賛をされてもちっとも嬉しくもない。

 パタンとノートパソコンを閉じると瑠璃はせっせと用意に勤しむ。10数年前と変わっていなければ、こいつのウィンドーショッピングは最短でも二時間コースだ。下手したらディナーの時間まで平気で引きずり回されるかもしれない。ただ今回の件に関して、トオルは瑠璃に助けられっぱなしだ。マチルダのことを連絡してくれたこともそうだし、ホテルの面倒もみてくれた。そのうえ、自分のポカで宿無しになったトオルを自宅にまで泊めてくれるという。好意には、せめてこのくらいは報いないと罰が当たるというものだ。

「ふ~んふふ~ん。そうだ、ディナーはどこにする? おごりだと思うと上がるわぁ。ねー、あんたは何食べたい? 魚? 肉? あー、でもあそこの美味しい地中海フュージョンのお店、今から予約取れるかな?」

 さっきからやけに饒舌でご機嫌な瑠璃は、今度は自室に戻って鼻歌交じりにお色直し中だ。ときどき部屋から顔を出しては「どっちのバッグが服とあうか」とか「靴はどれがいいか」とトオルにお伺いを立ててくる。

 そんなの自分の好きにしろよ、とは思うがさすがに口にはしない。どうせ本人の中で答えは決まっているはずなのに、わざわざ意向のすり合わせみたいなやり取りが煩わしい。瑠璃が言うのを右から左にやり過ごしつつ、トオルは冷蔵庫を開けて早々に『飲んでいい』と公認いただいている缶ビールに手を付けた。プルトップを引き開けながら、リビングのソファーにどっかりと腰を落とす。革張りのいかにも高そうなソファーの座り心地まで予想以上に良くて、地味に腹が立つ。トオルの家のサンキュッパとはえらい格差だ。

 一息ついたからか座った瞬間にふっと思い出した。腕時計を見て時間を確認する。そろそろいい時間だった。

 ポケットから携帯を取り出して、まず掛けたのは哲平にだ。長逗留になるなら、まずは雇い主である彼の許可を取りつける必要がある。店のことは気にするなと言って送りだしてはくれたが、それはあくまで立て前の上でのことだ。マチルダの件に一応の決着が付いた以上、本来ならすぐにでも帰るべきところだろう。セサルの誘いに乗りたいのは純粋にトオルのわがままでしかない。

 ただ、長い付き合いで哲平が承諾するのはわかっていた。彼はこういう頼みを無碍に断るタイプではない。

 そして思った通りに哲平は二つ返事を返してきた。

「すげえな、本場の星付きシェフと仕事かよ。技術も盗めて、ハクもつく。一石二鳥だな。いいじゃん、いいじゃん、絶対やれよ。……あ? こっち? ああ、『カーサ・エム』なら心配ねーよ。代理を立てるっつたろ。そいつが結構ヤレる奴でな、全然問題ない。万事OKだよ」

 思った通りじゃなかったのは、『カーサ・エム』のほうだった。全然問題ないってことはないだろう、と思う。個人店は店主のカラーで売っている店だ。それを誰とも知れない代わりの人間が急に入ってきて万事OKでやれるはずはない。

「そおっすか……でも、本当に大丈夫っすか? すみません、何か無理言って」

「いいって、いいって。最初はちょっと不安だったけれど、やってみれば案外どうにかなるもんだな。短期間で顧客も掴み始めてるみたいだし、店のほうはあいつに任せておけば心配ないから、お前もそっちで有意義にやってくれ。じゃあな」

 トオルを心配させないようにあえてそう言ってくれたのかもしれない。しかし、それにしても哲平の口調は楽観的すぎるような気がした。

「……はい、わかりました。今回はお言葉に甘えます。ありがとうございます」

 哲平の好意に謝意を伝えて電話を切る。ふうっと深く息を吐き、長い瞬きをする。

 意識はしていなかったが、固くなっていたようだ。眉間に指を当てて揉み解す。緊張を解くと全身をだらしなく弛緩させてソファーに委ねる。と、そのとき思いのほかすぐ耳元で声がして、完全に緩みきった体がビクッとなった。

「何? どうしたのよ?」

「あっ……ああ、お前か。いや、別に……」

 お前かも何もここは瑠璃の自宅である。驚いて言葉に詰まったのもあったが、トオルは無意識のうちに言葉を濁していた。それを瑠璃は目ざとく拾う。

「そういう顔してない」

「は?」

「全然、別にって顔じゃない。まんま何か引きずった顔」 

「…………」

 こういうときに妙に勘のいい友人というのは、正直、やりにくい。20代の若い自分なら感じた思いをそのまま言葉にもできただろうが、30代になった今のトオルにはそこまで自分を赤裸々には出せない。自尊心が邪魔をする。覗きこんでくる瑠璃の視線を避けるように、目を逸らす。

「『カーサ・エム』のオーナーに電話してたんだ。しばらくこっちに居ても大丈夫だって言われた。とりあえずは10日間、まるまるやれそうだ。ラッキーだったよ」

「ふーん……」

 当然納得したわけではないだろうが、瑠璃はそれ以上詮索してこなかった。 

「ま、確かに。当面の問題はクリアになったわけだし、それはそれでよかったんじゃないの?」

 ああ、と言って頷いたつもりだったが、トオルの声は擦れて音にならなかった。瑠璃がふん、とため息のように鼻を鳴らす。

 哲平の好意には素直に感謝していた。『カーサ・エム』のことも安心した。ただ、それなのに妙にくさくさした気分だった。理由は分かっていた。自分勝手だとは思うが、簡単に全部が受け入れられすぎて面白くないのだ。『カーサ・エム』は自分が苦労して育てた店だ。その自負があるから、代わりの誰かで回るのが面白くない。認めたくない。

「ちょっとー、用事が済んだんならもう行くわよ!」

 飲みかけの缶ビールを取り上げられてハッとなる。あー、まだ残ってるじゃない、と瑠璃は缶に三分の二くらい残っていた液体を一気に飲み干した。その男前っぷりに少し気が晴れる。

「で、どう?」

「は?」

 突然の問いに適当な反応を返してしまって、いっぺんに瑠璃の顔が怖くなった。コンマ何秒か自分の迂闊に気付くのが遅れた。

「『は?』って? 『は?』ってなによ? これを見て、あんたには何の感想も浮かんでこないの? 綺麗だねとか、似合ってるとか、こんな美人を連れて歩けて幸せだとか、そういう言葉はその口から出てこないのか!」

 ウルトラマリン色のカジュアルなデザインのワンピースに、白いハイヒール、ターコイズのペンダント。その他もろもろに着飾った瑠璃は、端正な容姿も相俟って完璧な大人の女の魅力に溢れていた。

 しかし結局中身は瑠璃だからなぁ、と思ってしまったのがつい顔に出たのか、その瞬間さらに彼女はやさぐれた。もうヤダ、これ着替えると荒れる彼女のご機嫌をとるのに30分以上かかり、そのおかげでトオルは自分の子供じみた悩みのことをすっかり忘れてしまえた。  


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