No rain, no rainbow. ≪涙≦笑顔≫ 9
「えっ……」
美純は最初、言葉の意味もわからなかったようできょとんとしていた。けれど、ちょっと考えてから頷いて「うん、空いた……かも」答えたのはずいぶん小さな声で、だ。
「O.K.! では、いらっしゃいませ、お客様っ」
芝居がかった口調でニッコリと微笑んで言うと、使い慣れたペティナイフを取ってポーズを作ってみせる。
美純の顔がぱぁっと明るくなった。
トオルは、まずは冷蔵庫から取り出したトマトを手早くカットし始める。
美純から見えるトオルの姿は胸から上くらいまでらしく、カウンター席に座った状態では彼の手元は見ることができないようだ。だからカウンターを挟んだ向こう側で今何が起こっているのか、彼女はちょっと興味津々の様子だ。そんな胸中がひと目でわかるほど、彼女の表情はくるくると目まぐるしい。
トオルは時折そんな彼女の表情を盗み見てはほくそ笑んでいた。
きっと普段の彼女はこんな感じなのだろう、そう思えると好感が持てた。道ですれ違う同世代の少女達もちゃんと接すればこんなふうなのだろうかと、なんとなしに考えてみる。当然、答えが出るわけはないのだが、それでもなぜかこの少女だけは特別なような気がしていた。
根拠もないのにそう思わせる理由は、しかしトオルにはよくわからなかいのだが。
じっと見つめてくる視線をわざと手のひらで遮ってみて、口の形だけで「秘密」と声かける。
わざとなのか本気なのか、ぷぅっと膨らむ頬がますます可愛らしくて、声なく笑ってしまった。カウンター越しに向かい合う二人の間に、何かあったかいものが流れたような気がして、それがこそばゆくも心地よい。
しばらくして、トオルが顔を上げた。
「はい、お待たせ」
カウンター越しに美純の前に届けたのは、透き通るくらいに薄くスライスした魚の身にミニトマトやフレッシュハーブで彩りを添えて作った、鮮やかな仕上がりの一品。
「これ……」
「ヒラメのカルパッチョ。ライムの風味のソースがアクセントにかかってる」
はぁ、と美純はため息をついた。赤と白と緑の三色で出来たその皿は、上にかけたオリーブオイルのおかげもあって、光の加減で白身の魚がキラキラと七色に輝いていた。
「すごい、キレイ……」
美純は呟くように言うとしばらくじっと皿の上を眺めていたが、そのうちに思い出したようにトオルを見上げた。
「食べて、いいの……で、すっか?」
「遠慮なんかするな。それに、急にどうした? 無理に敬語を使おうとするのやめてくれ。そこで噛まれると笑いを誘うんだよ」
「そ、そんなこと言ったって……」
美純は顔をちょっと不満そうに曲げた。
「笑うと怒るし、……なっ?」
トオルはそう言って美純を冷やかす。
「うるさいッ、な、で、ですッ!!」
「ぷ、はははっ……だから、もう勘弁してくれ」
美純はまた顔を赤くして二言三言不満を言ったが、もうトオルは遠慮しない。乗り出してきた彼女の顔を押し返しつつ、一頻り気の済むまで笑ってやった。
「なぁ、いいから食べろって。それとも生魚、ダメだったか?」
「別に……嫌いじゃ、ない」
美純はまだ不満顔でじっとトオルを睨み付けてくる。ぷくぷくと膨らました頬で抗議されてもちっとも迫力はなくて、むしろ滑稽な姿にトオルは尚も吹き出してしまった。
ぶぅぶぅと言う美純を促し、まずは一口食べさせる。
「あっ」
「うん?」
美純は一際眼を大きく開いて答えた。
「おいしー……で、ですっ」
べしっ、と結構いい音がした。
「い、いったぁっ!」
トオルは美純の頭を軽くはたいたのだ。
「敬語、やめろって。『おいしー』とか『うまい!』とか、自然に言葉にしろよ」
「で、でもぉ」
「俺がそうして欲しいんだよ。じゃないと、次の皿、作ってやらないぞ?」
美純は叩かれたところをさすりながら、恨めしそうな目をしている。
「じゃあ、やり直し。……うまいか?」
「……うん、美味しい」
「ん、そうか」
「うん、すごくおいしいっ」
そう言って彼女は、また次の一口を運んだ。
トオルはしばらく彼女の表情を見ていたが、頃合をみて再び動き始めた。今度は火口にアルミ製のフライパンをかけてニンニクを炒め出す。ニンニクを焦がす時の特徴的な香りが次第に室内に広がる。
「なぁ、美純。お前、キライなもの、何かあるか?」
トオルは顔だけ彼女の方へ向けて言った。
美純は急に声をかけられたから、食べてる途中のもぐもぐとしたちょっと間抜けな顔を上げて考えていた。けれど、思いつかなかったのか複雑な顔をする。彼女の頭の中は表情からトオルにもすぐに伝わった。
「じゃあ、好きなものは何かあるか」
「カニッ、エビッ!」
こっちは反応が早い。
美純はキラキラと期待を込めた目を向けてきた。その顔ときたら新しいおもちゃ買い与えたときの子供と同じだ。それを見たトオルはさっきみたいに「O.K.」と短く答えたのだが、振り返ってからまた声なく笑ってしまうのだった。
手早く刻んだエビとカニを炒めて香りを出し、さらに白ワインの香りを加える。トマトソースを入れてからクリームでのばしていき、仕上げにはチーズとオリーブオイルで味に深みを出す。そうして出来上がった『カニとエビのトマトクリームソースのパスタ』を彼女の目の前に置いたときにみせた彼女の表情。
わぁっと歓喜に広がったその笑顔が――とても可愛いいのだ。
しかし、だ。
不思議、というか違和感というか。
その笑顔は嬉しいはずなのに、どうしたのことかそれとは別に胸には穴か空いたような喪失感もあって、トオルはその妙な感情にちょっと戸惑ってしまったのだ。
「美味しそうッ!」
「えっ……あ、ああ、美味しいよ。なにしろ自信作だからね」
「うんっ、いただきます!」
さらに広がる美純の笑顔を見ても、埋まりそうで埋まらない感覚。
その答えを知っているようでたどり着けなくて、トオルは苛立ちにも似たもどかしさを感じていた。