Love begets love. ≪それでも、男と女はすれ違う≫ 8
セサル達とは翌朝9時に店でと約束を交わし、トオルは『ガト・ネグロ』を後にした。
哲平への電話はもう少しあとで。日本との時差はおおよそ8時間あるから、今、向こうは早朝の4時頃だ。モーニング・コールするにしたってちょっと気が利きすぎだ。
なので、トオルの目下の目的はランチである。スーツケースをがらがら引きながら、三歩前を歩く瑠璃の先導で彼女のおすすめの店に向かう。
二人が入った『カサ・フォンダ』という店はすでに満席で、さらに数組の待ちも出ていた。ウェイティング中のお客がカウンター越しに店主と長々談笑している。日本だったら「しゃべってないで働けよ」と苦情のひとつも出そうなものだが、これがこの国の日常風景だ。そんな雰囲気の中、30分ほど待ってようやく空いた席に通された。
メニューはプリメ―ロ・プラトー(一皿目)とセグンド・プラトー(二皿目)がそれぞれ数種類の中から一つずつ選べる定番のスタイル。トオルはカタルーニャ風サラダと鶏のローストを、瑠璃はジャガイモとほうれん草のオリーブオイルがけとフィデウアというカタルーニャでは定番のパスタパエリアを選んだ。これに飲み物とデザートが付くのが一般的で、トオルが赤ワインを、瑠璃が白ワインをそれぞれ注文する。ところが、ひげの男性給仕に「お前の選んだメニューなら白ワインを飲め!」と勝手に決めつけられて、結局テーブルに運ばれてきたのは白ワインがボトル一本とグラスが二脚。ようするに二本も開けるのが面倒なだけなのだ。こんなこともこの国ではしょっちゅう見かける普通な出来事だったりする。
瑠璃は持っていたナイフをトオルにビッと突き付けてきた。
「ん? なんだよ」
「人がせっかく取ってあげたホテル、後先考えずにチャックアウトしちゃって。あんたって、しっかりしてそうでなーんかそういうところがズッポリ抜けてたりするのよね。昔っから」
ジャガイモをちょっとくずしめにして、ほうれん草に絡めて食べるのがツウな食べ方だ。瑠璃はさすがこちらでの生活が長いだけに食べ慣れている。
「そうか?」
瑠璃のグラスにワインを注ぎ足しながら、トオルは適当に相槌を打って返す。
「あと、どうでもいいとこ気が廻るくせに、肝心なことはちっとも気付かない。唐変木のちょーにぶちん。これも昔っから」
「へー、へー、そうですかい」
たいして酔ってるわけでもないのに小言の多い瑠璃に辟易していると、
「それって、なんで? わざとなの?」
と、振られた。
「はぁ!? そんなこと、俺がわかるわけないだろう」
理由がわかっていれば如何にトオルだってとっくに修正している。わからないから同じ轍を踏むのだ。えばれるようなことではないが。
しゃべりながらも料理は口にする。サラダの味は可もなく不可もなく。日本ではドレッシングをかけるのが当たり前だが、ヨーロッパではオリーブオイルとヴィネガー、塩・コショウで自分で味付けするのが基本だ。なので、驚くほど美味いことも、逆に驚くほど不味いこともない。無難中の無難なメニューだが、野菜の味は日本に比べるとはるかに濃い。
「全然ダメってわけじゃないところが逆にタチ悪いのよね。でもまあ、今回の件もある意味想定内のオチだったし」
「オチとかいうなよ……まぁ、面目ないとは思っていますが」
しぶしぶ謝罪する。それで瑠璃はそれなりに満足したらしく、ふふんと笑った。口ではこきおろし、呆れたようなことを言っているが、多分心配はしてくれていたのだろう。
「でも、よかったんじゃない? マチのことは残念だったけれど、そのおかげであのメンバーとまたやれるわけでしょ」
「ああ」
「きっと、マチも向こうで喜んでるんじゃない?」
それには同意する。マチルダは湿っぽいのが極端に苦手なクチだった。むしろ、そういうときこそ無理しても笑顔でいようとするタイプだった。そんな彼女の性格をわかっているからこそ、セサル達も明るく送りだそうとしてる。
「どうなの?」
「何が?」
急に角度を変えて振られた質問の意味がわからず返すと、瑠璃がちょっと不機嫌な顔をする。
「話の流れで察しなさいよ。みんなと一緒に仕事するのが楽しみかって、話」
「……ああ、そういうことか。そりゃ、楽しみに決まってるだろう」
ん、と瑠璃はまた満足げな顔で頷いた。
が、今度はそれが長く続かなかった。急に表情がしおれる。その妙な落胆ぶりが気になって「なんだよ?」と問いただすが、「うーん」とか「そうね……」とか瑠璃からは曖昧な返ししか出てこない。
「まるで俺が楽しみじゃ、お前が都合でも悪いみたいじゃないか?」
仏頂面を作って言うと、瑠璃は小さく首を横に振った。
「……そういうんじゃなくて、」
トオルはなんとなく会話に引っぱられて止まっていたフォークを、おもむろにキュウリとトマトに突き刺した。
「本当はあのときもまだみんなと一緒にやりたかったんでしょ。……未練、あったのよね。あの子が――真由子が日本に帰るなんて言わなかったら、きっとあんた、まだこっちでやれてた……」
口に運びかけた手からトマトのほうだけがするりとこぼれ落ちる。一瞬躊躇したが、その躊躇を気取られたくなくて、トオルはそのままキュウリだけを齧った。
「……それって、あたしの考えすぎ?」
ゆっくりと一つ瞬きした瞳が、上目づかいにじっとトオルを問う。
咀嚼するあいだ見返す視線を逸らさなかったのは、逸らしたことでそれを答えにされたくなかったからだ。飲みこんで、後追いにさらにワインを流し込んだ。キュウリの青臭さを白ワインがやたらと拾って、口の中に壮絶な後味が広がる。萎えた気持ちを一呼吸してフラットに持ち直す。
「いまさら訊かれても、もう思い出せないよ。大体、10何年も前のことだぜ。それに、確かあのときはビザも切れかけだったんだ。あれが更新出来なきゃ、当然帰国するしかなかった」
「そんなのどうとでも出来たでしょ」
「どうかね? 言葉も大してしゃべれない、EUのシステムだってよく知りもしなかったガキに?」
本音を隠す、作った笑み。
トオルがまともに受け合う気がないのがわかったのだろう、瑠璃もこれ以上重ねて問うのは諦めたようだ。小さくため息をついて、ワイングラスの足に指を掛けくるくると回す。
「あー、やだやだ。10何年前はけがれを知らない素直なイイ子だったのに、なによこのひねくりっぷりは!」
瑠璃は鼻の頭にわざとらしくキュっと皺を作って見せる。
「かわいくない、かわいくない、ぜーんぜん、かわいくなーい! 拗ねたきった大人になっちゃって。あんたなんか、今じゃただのウザおっさんよ」
「光栄だね」
「おまけにバカでM。っていうか少しは空気読みなさいよ。全然、誉めてないし」
べえッ、と舌を出された。
踏み込まれたくない一線には、暗に壁を作る。相手がそれでも乗り込えてこようとすると、逃げる。トオルにはそういうところがあった。そして、それは瑠璃にも同じことが言えるのだ。
だから、お互い変に踏み込まず、適度な距離を保っていられる。瑠璃と妙に馬が合うのはそういうところも理由の一つかもしれない。
空気を悪くしたと思えば道化て混ぜっ返す。次の瞬間にはお互いなかったことのように別の話をしている。さも、示し合わせたみたいに。そうやって作りだす、一定の距離感。彼女と居ると始終振り回されているようでいて、実は結構気楽なことのほうが多い。
美純と違って急に踏み込まれる心配がないから安心できる。
「……あのさ、」
「ん?」
急に瑠璃の声が囁くような小声になる。トオルは耳を傾ける。
「最後にあんたのお店に行った日、ごめんね。あたし、迷惑かけたでしょ」
「ん。ああ、まあな。ちょっとは」
そこは隠さない。誤魔化しても仕方がない。
運ばれてきた二皿目の料理が目の前でうまそうに香っている。
「でも、お客さんもいい人で別に気にしてなかったから。……ただ、次やったらもう、出禁だからな?」
一応は強い口調で。言われなくても彼女がわかっているのは、トオルのほうもわかっている。
「うん。もうしない」
それでも彼女はちゃんと頭を下げた。そうすることで互いの距離感を正しく保てるのだと長い付き合いで知っているから。
ただ、普段ならゴタゴタはその場で解決か、遅くても翌日には決着つけないと気が済まない性分の瑠璃である。これまで何のリアクションもなく、そのくせにずっと引きずっていたというのは、それはそれで彼女らしくない気がした。引っ張り延長はトオルが知っている中では最長記録だろう。なんとなく理由を訊いてみたくもあるが、多分その辺りは彼女にしても一番触れてほしくない部分だろう。いつか持ち出すネタとして、今はあえて触れずにおく。
話題を変えて「この店、結構美味いな」と振ると、「そうでしょ。最近のお気に入り」と自慢げな顔になった。それで二人とも平常営業再開だ。あとは屈託のない話ばかりをしながら、二人してしっかりとデザートまでたいらげた。
そして、会計のときに財布を取り出した瑠璃を制し「ここは奢るよ」と言うと、瑠璃は「はぁ?」と呆れた顔をして「ここは割り勘。あんたが奢るのは超一流のディナーでしょ」といつの間にか遠慮無しだ。しかも「もちろん、ピンクのシャンパン付きでよ」とさりげなくハードルを上げてくるあたりが瑠璃だった。