Love begets love. ≪それでも、男と女はすれ違う≫ 7
「閉めるって……なんで、そんなことを……」
ここにはたくさんの思い出がある。
右も左もわからずに毎日必死だった修業時代の――。自分を二人目の母親だと思えと言ってくれたマチルダとの生活の――。そして真由子との記憶が――。
だから簡単に閉めるなんて、そんなこと受け入れられない。
「やれる奴がいない」
が、セサルの答えは簡潔だった。
「なんで!? これだけキャリアのある人間がいるっていうのに? ……っ、」
そう言葉にしてしまえるのは自分が事態の当事者として向き合っていないからだと、口にしてから気付いた。ここにいるのは皆腕の立つコックである以前に、ほとんどが自分の店を構える経営者だ。規模の違いはあれど従業員を抱え、少なからずその生活の責任の一旦を担っている。ただ自分を育ててくれた店を守りたいという思いだけで一も二もなく動き出せるほど身軽な立場とは限らないのだ。
「外からシェフを入れるのには俺も含めて反対な者がほとんどだ。何十年とマチの味でやってきた店を彼女の血筋とはまったく別の料理で存続させても、それは『ガト・ネグロ』であって『ガト・ネグロ』でない」
「なら、今の二番手は?」
「エンリケは確かにセンスのいいコックだが、まだ二十六。料理の腕に関しては俺も認めているが、こういう歴史のある店で頭を張るのは早い。本人もまだ誰かの下で腕を磨きたいと言っているから、近々ルシオの店に移ることになる」
とかく、店の代替わりというのは難しいものだ。とくに前任者の色が濃ければ、あとを継ぐほうには料理の腕以外のプラスアルファの魅力が求められる。『人間力』とでもいうか『個性』とでもいうか、それがシェフになる人間の人格だったり、容姿だったり、キャリアだったり。味とは無関係の要素までが店の新たな骨格を造り、肉付けする。
こういうものの評価に正当、不正当はない。受け入れられるときはあっけなく受け入れられるし、ダメならただ離れていくだけ。客の目はとてもシビアだ。
「どうしてもってことなら私はやれるけど?」
かったるそうなしゃべりはややハスキーな声。女性のものだ。そして、このコック集団の中で女性といえばトオルの知るかぎりでは一人だけ。トオルの目がその人を探す。
「うちは姉妹三人でやってるから、別に一人抜けても問題はないし。でも、みんなは多分、私にはやってほしくないでしょう?」
二つ隣りのテーブルに片肘をつくダニエラを見付けた。
三十代後半になって以前よりもさらに艶っぽくなった気がする。変わったのは眼鏡を掛けたことだけか。十代後半から体型の変わり出す子が多いなかで、この歳までほとんど変わらずスタイルを維持しているスペイン人女性は稀だ。しかも味見が仕事のコックとなるとさらに希少だろう。しかし本人は料理のこと以外、少しも興味がない性格で多分ダイエットなんて言葉とは無縁の生活をしているはずだ。
「…………」
セサルは無言だった。彼だけでなく他の者も口を開こうとしない。その理由は多分、ダニエラも含むこの場の全員がわかっている。
彼女の料理は常に革新的なのだ。新しい食材、最新の技法を積極的に取り入れようとする彼女のスタイルは、定番や伝統的なメニューが中心の『ガト・ネグロ』とは相容れないところが多い。かといって、自分の流儀を曲げるタイプでもない。そのせいで『ガト・ネグロ』時代の彼女はよくマチルダとぶつかっていた。
「いいのよ。別に皮肉で言ってるんじゃなくて。ただ、本当に困ったらそういう選択肢もあるってこと。私だって、別に自分から手を上げてこの店をやりたいわけじゃない。でも、だからって閉まってもどうとも思わないってほど無関心でもいられないから。ここで働いていた3年半はいい思い出だし」
「わかってる」
セサルは今度は頷いた。
「ありがとう。ただ、その返事は今じゃなくていいか? 頭の片隅には留めておくから。今後のことはとりあえずは10日間やりながらみんなで考えてみようと思うんだ」
「ええ、もちろん。だけどマチのメニューで作るのなんて久しぶり。みんなはちゃんと覚えてるの?」
ダニエラが誰に問うでもなく言うと場からは微かに笑いが沸いた。それぞれが少しずつに自信のなさを隠した、控えめな笑い。
「隠してないで今のうちに白状したほうがいいわよ。ビクトールなんて、本当は全然覚えてないんじゃない?」
「ちょっ……ダニさん、そりゃねぇんじゃねか」
急に話を振られてビクトールが動揺する。椅子をガタガタいわせながら反論するが、
「いいけど、いざ厨房立ってグダグダだったら、私はキレるからね?」
顔は笑顔だ。
ただし彼女と同じ厨房に立ったことのある人間は誰でも知っている。ダニエラは仕事となると一切妥協がない女だ。それは自分にも、他人にもである。つられて笑えたのはセサルくらいだった。
「ねぇ、ダニ。10日間って、なに? なんかやるの?」
部外者のくせに瑠璃が遠慮なく首を突っ込んだ。しかしトオルも気になっていた部分なのでさりげなく耳を傾ける。
「ああ、それそれ。今後が不透明なんで、今の『ガト・ネグロ』のスタッフには10日ほど休みを取らせることになったんだ。急にこんなことになって、いろいろと考える時間も必要だろう? で、そのあいだは俺達が有志でここをやる。マチの追悼っていう意味もあるけれど、もしかしたらこれがこの店の最後になるかもしれない。だから今まで『ガト・ネグロ』を気に入ってくれてたお客さん達へのお礼も兼ねて、ちょっとしたフェスタをやろうかって話だ」
答えたのはダニエラではなくセサルだった。と、その顔が何かを思い出し、トオルを振り向いた。
「そうだよ、トオル! お前にも言おうと思ってたんだ! 久しぶりにあの当時の仲間で『ガト・ネグロ』だぞ。お前も一緒にどうだ?」
「えっ?」
「昔みたいに賑やかにやろうぜ。10日まるまるとは言わない。でも、2・3日くらいは都合つくだろう? つけろよぉ」
「いや、ちょ……待ってよ、俺は……」
あ、まずい、と思ったときにはすでにセサルの太い腕がトオルの首に巻きついたあとだ。立場的に断り辛いうえに、その距離感がますます断り辛くさせる。
「多分無理、っていうかそんなのちゃんとオーナー訊いてみないと答えられないから。もしかしたらすぐに帰ってこいって言われるかもしれないし」
身をよじって懐から抜け出そうとするが、ガタイのいいセサルの腕がしっかりと絡まっていては振りほどけない。おまけに吐いた言い訳もグダグダで説得力のないことこのうえない。
「こんな同窓会みたいな機会、もう二度とないだろうからなぁ。ダメもとで説得してしてみたっていいと思うぞ。それでもNOなんて言うオーナーなら、わざわざそんな奴の下で使われることもないと思うけれどな。俺も一つ星取った腕、見せつけたいしなぁ」
思わず「うっ」と唸る。本人は軽い冗談のつもりだろうが、最後のは特に魅力的な誘いだ。本場の星付きシェフの技術を生で見られる機会なんてそうはない。心が傾きかける。
「で、でも……もうホテルもチェックアウトしたあとだし。だから、そういうわけには……」
6対4か、もしかすると5.5対4.5くらいの比率でぎりぎり理性が誘惑を抑え込んだ感じか。やはり雇われている以上、『カーサ・エム』のことを優先するのはトオルの義務だ。だから今度はちゃんと現実的な理由をのせて抵抗する。
が、足元をすくわれるというのはまさにこういうことだ。
「バカね、あんた。そういうときこそ人を頼るもんでしょう? いいわよ、泊るところくらいあたしが提供してあげる」
「はぁっ!?」
瑠璃が渋々な顔をした。
「オフィス兼自宅だから部屋は余裕あるし。スタッフも時々泊るからバスルームも二つあるし」
「いやっ、そんなのお前に迷惑が、」
言いかけたトオルの胸倉を瑠璃がぐいっと掴んだ。
「だって、しょうがないじゃない。あんたが後先考えずにチェックアウトしてきちゃうからいけないんでしょう? それとも店に泊る? 今の時期でも夜は冷えるわよ? シャワーもベットもなしで構わないならそうしなさいよ。人が昔のよしみで親切にしてやってるのに、そういうの平気で無下にするんだ。あんたってホント、そういうところダメよね。人間味ないっていうか。セサルの誘いも断るの? マチの追悼だって言ってるのに? 普通、そういうときは……」
「ああ、もうわかったよっ!!」
ここまで気にしていることを一つ残らず並べられたら、さすがに反論もできなくなった。それに自分の中にも後ろ髪を引かれる気持ちがあるのは確かだ。
哲平は訊くまでもなく承諾してくれるだろう。
瑠璃に押し切られたかたちだが、その実トオルも納得していた。多分、――いや間違いなく本心ではこうしたかったのだ。