Love begets love. ≪それでも、男と女はすれ違う≫ 6
成田から約14時間。長い間機上の人だったおかげで肩や背中、体のあちこちがガチガチに強張っている。尻の形もシートの形に変形してしまったんじゃなかろうか。ともかく、トオルはようやく着いたカタルーニャの大地に足を踏み入れた。
本当に久しぶりのスペインだ。地中海のさらりとした風が多湿の日本とは全く雰囲気が違っていて、それが懐かしく、心地よい。
だが、思い出に浸るのは後回しだ。
トオルは携帯を取り出し、さっそく瑠璃へと電話をかけた。四回目の呼び出し音で彼女が出た。
「瑠璃。今、着いた。これからどうすればいい?」
タクシー乗り場は意外にすいていた。列の一番前の車に近づくが、なぜか扉が開く気配はない。覗き込むとシートに深く沈みこんでいた運転手は半分眠っているようだ。手を振ったくらいではこちらに気付かなかったので、窓を叩いて扉を開けさせる。
振り返った運転手はトオルの顔を見て露骨に不快な顔をした。面倒な客を拾ったと思ったのだろう。アジア人顔は初対面では大抵冷たく扱われるものだ。
「タクシーに乗ったぞ。で? どこに向かえばいいんだよ?」
つっけんどんに「行き先は?」と聞かれるがそれには気付かないふりで、電話の向こうにもう一度訊ねる。が、瑠璃からの返事はなかなか返ってこなかった。
何度か躊躇ったのちにようやく彼女の口から出た先は、てっきり病院だと思っていたのに違った。怪訝に思ったが、訊ねる前に「ああ」と答えに辿り着く。日本を発つ直前にかけた電話で、瑠璃はしつこいくらいに何度も覚悟を促すようなことを言っていた。
つまりは、その時点ですでにそういう状態だったのだ。
脱力感。嘆息が自分でも思いのほか深く、驚く。様子に気付いた運転手がバックミラー越しにこちらを覗きこんでくるが、視線を無視して瑠璃から聞いた行き先だけを短く伝えた。そのままシートに深く座り込む。
運転手は「ほう」と感心したように言い、「よく知ってるな。そこはうまいぞ」とニンマリした。言葉が通じようが通じまいがともかく喋りかけてくるのも観光地・バルセロナのタクシードライバーならではの特徴といえるかもしれない。ただ、今はとてもその会話にのる気にはなれなれず、語学に拙いふりでごまかす。
返事のないトオルに興味を失くしたのか、運転手はラジオから流れる曲に合わせて陽気に鼻歌を歌い始めた。
車は彼の性格を表すかのように荒っぽく走り出した。
『レストランテ ガト・ネグロ』
グラシア通りで100年以上続く老舗のレストランテだ。ガイドブックにでかでかと載るような星付きではないが、地元ではそこそこ人気の店だ。カタルーニャのワインと地の魚介料理に定評がある。
そんな思い出の場所に久しぶりに向かうのに、トオルの気持ちは少しも弾まなかった。
いるはずの人は、もうそこには居ないから――
生前の彼女の人となりを映すかのような晴れやかな空の下、マチルダの葬儀は滞りなく執り行われた。
瑠璃が言っていたように年老いたマチルダに昔の面影はなく、記憶では熊のようだった体躯はずいぶんと小さくなってしまっていた。別人のような女性が収まる棺桶を覗き込んでも、なんだかうまく実感が湧かない。なのに、周りは泣いていた。感情表現のはっきりしているスペイン人は、嬉しいことがあれば皆で笑い、悲しいことがあれば皆が泣く。そういう人々だ。見れば、男も女もはばかることなく嗚咽を漏らし涙していた。そんな中、トオルの目からだけは涙が零れなかった。薄情な奴だと自分で思う。これが日本の空のように雨でも降ってくれれば気持ちも湿るのだろうが、カタルーニャの空はいつだって呆れるくらいに青空だ。
結局、トオルが最後にマチルダにかけられた言葉は『アディオス』の一言だけだった。
葬儀が終わった翌日はぼんやりと一日を過ごし、その翌日朝には荷物をまとめた。
短い滞在のつもりだったからたいしたモノは持ってきておらず、それでも日用品や下着の類を使い捨てるとスーツケースは行きに比べてずいぶん軽くなった。石畳の上をゴロゴロと引きながら『ガト・ネグロ』に向かって歩く。瑠璃が気を利かせて同じ通り沿いにホテルを取ってくれたから、ひさしぶりのバルセロナの街でも迷わなかった。
店に顔を出し、昔の仲間と挨拶を交わし、その足で出国するつもりだった。
身支度をすませたのは一種の意志表明でもある。出会いも別れも情熱的な国民性だから、それなりの気構えでいかないとまず間違いなく引き留められる。まして修業時代を一緒に過ごした懐かしい面々、名残惜しい気持ちはトオルのほうにだって十二分にあるのだ。
ただ、だからといって『カーサ・エム』を放っておくわけにもいかない。哲平は店のことは心配するなと言ってくれたが、額面通りその言葉に甘えるわけにもいくまい。
入口でもう一度決意を固くしてから扉を開ける。店は今休業中で、照明のついていない店内は薄暗い。普段なら自家製のポストレ(デザート)がいくつも並ぶショーケースの前を通り抜け、客席を覗き込むと、新旧の『ガト・ネグロ』スタッフが思い思いの格好で席に着き、今後について議論しているところだった。
ちょうど入口の真正面に座っていたのがトオルと一番年の近いビクトールで、彼は目が合うや「やっと来やがった!」と怒鳴った。多分、本人に怒鳴ったつもりはないのだろうが、何しろこの男の声はやたらとでかいので普通にしゃべっているのが怒鳴るのと大差ない。
「いつまで待たせるのかと思ったぜ。この野郎っ」
「悪い。でも、話し合いには参加できないんだ」
「はぁ? なんだって」
「すぐ日本に帰らなくちゃならない」
トオルが言うと、ビクトールは『はぁ?」とあからさまに不機嫌になった。
「ふざけんなよ。あれっきりちっとも戻ってこなくなって、みんなお前のこと心配してたんだぞ。ともかく、これが終わったらバル行くぞ、バル。先輩命令だ、まずは俺に一杯おごれよな」
正直、十数年ぶりのスペイン語だ。長いセンテンスは途中途中どうしても怪しくなるが、大体の意味は理解できた。ただ、その返事を言語化しようとするのにまた一苦労だ。すっかり錆ついた頭から単語が出てこない。近い意味の単語を繋ぎ合わせ、何度も迂回するような廻りくどい喋り方になる。
「今、小さい店で雇われてる。シェフをやってるんだ。スタッフは俺一人で、俺が帰らないと店が、さ。オーナーには大丈夫だって言われてるんだが、それじゃあダメなんだ」
「はぁ? よくわかんねーな」
「悪い。うまく説明できてない」
「帰るのか、帰らなくてもいいのか、どっちなんだよ?」
うまい言い回しで返せないトオルに、ビクトールは肩をすくめる欧米人特有のジェスチャーをみせた。
「まあ、いい。ともかく座れ」
低い声が言った。場の中で最年長のセサルだ。長くマチルダの下で二番手を経験した実力者であり、門下生一の出世頭でもある。確かタラゴナにある彼の店は、ミシュランで一つ星を獲得しているはずだ。
トオルはすぐに反論しようとしたが、それはあっさり目で制されてしまった。一緒に働いていた頃から口や手が出るタイプではなかったが、その威厳と威圧感は圧倒的だった。逆らえたためしがない。おまけに今ではグランシェフの風格も増し、彼にもの申せる人間は多分この場には居ないだろう。仕方なく口をつぐむと空いている席を探す。
「で? 何時の飛行機に乗るんだ?」
そんなグループ内では独裁的な地位にあるセサルだが、トオルも含めた皆からの信頼が厚いのは、なにより仕事を離れれば話のわかるよき兄貴分なキャラクターだからだ。さりげない気遣いの言葉をかけられて、胸につまっていた息の残りがふぅっと出て行く。
「……あ、」
と、急に頭の中が冷たく醒めた。
言われて、大事なことに気付いた。『大事な』というより、これはもう致命的だ。
「ん、どうした?」
「あ、……いや、ちょっと……」
当たり前のことなのにすっかり忘れていた。しばらく飛行機なんて乗る機会がなかったというのもあるが、いろいろあって自分自身自覚のないところで気疲れしていたのだろう。いまさら反省も後悔も遅いが。
そんなトオルの思考はそのまま顔に出ていたのだろう。セサルも苦い顔をした。
「なんだよ。まさか、チケット、取れていないのか?」
図星を指されて肩がギクッとなる。
ただし、取れていないのではない。『取っていない』のだ。今の今まで復路の予約のことをすっかり忘れていた。
「ともかく、空港に行けばなんとか……」
「おいおい、日本行きの便なんて一日に何本あるんだ? やめとけ、行くだけ無駄だよ。今日は諦めてちゃんと予約を取り直してからのほうがいい」
多分、セサルの言うとおりだろう。ただ素直に認めるのはニヤニヤ顔のビクトールの手前悔しかった。下唇を噛んだときだ。
「トオル、居るのー?」
ここ数日全くといっていいほど耳にしなかった日本語がやけに新鮮に聞こえた。入口を振り向くと、ちょうど顔を覗かせた瑠璃と目が合う。
「居た」
「どうした?」
トオルとしては当然のリアクションだったが、先方はお気に召さなかったらしい。瑠璃の眉間に皺が寄った。
「『どうした?』じゃないでしょう! あんた、人が気を利かせて連絡したり、ホテルとったりしてやったってのに、お礼もなしで帰るつもりだったでしょ」
そう言ってトオルに向かっては苛立ちをぶつけつつ、知った顔のセサル達とは器用にキスで挨拶を交わしていく。社交性スキルの高い瑠璃らしい。
「昨日、電話でちゃんと言っただろう」
「電話の一本で済ませたつもり? 呆れた。あり得ない」
日本に居る頃なら絶対しないような大きなリアクションで否定された。一通りの面子と挨拶を済ますと、最後にトオルの目の前まで来て立ち止まり、右手の人さし指をトオルの胸に突き付ける。
「あんたね、これだけ人に手を焼かせといて、タダで済まそうなんてムシのいいこと考えてないわよね? 普通だったらディナーのひとつもご馳走するのが常識。それが当たり前。ユーロ・スタンダードってもんでしょ」
EU標準まで出されて畳み込まれるとぐうの音も出ない。
「瑠璃ちゃん、笑えるぜ。こいつ帰りの飛行機の予約取り忘れてんの」
日本語での会話の内容が通じているはずもないのに、なぜかぴったりなタイミングで絶妙に要らん一言を付け加えてくるビクトールには正直イラッとする。怨念をこめて睨みつけてやるが、このテの類が自分に向けられる悪意にすこぶる鈍いのは最早定式なのかもしれない。本人はどこ吹く風である。
瑠璃の表情が面白いくらいに一転二転して、最後はあんぐりと口を開けた。
「うそ……」
「嘘なもんか。なあ」
と同意を求めてくるビクトール。事実だけに言い返すこともできず、せめて無言の抵抗で返す。瑠璃はかぶりを振って「信じられない」と、今度はスペイン語で呟いた。
「あんた……その上、ホテルもチェックアウトしちゃったんでしょ?」
断定口調。しかし長い付き合いだけにしっかりと行動は読まれている。さすがに瑠璃には隠し通せる気がしないので素直に頷く。
「ほんと、バカね。呆れるバカ」
瑠璃が言葉どおりに呆れ果て、深いため息をつく。
その横でビクトールがニヒニヒと嬉しそうに笑いながら言った。
「ほーんと、バカだよな。笑えるバカ」
「うるせー」
と、そのとき。
パンパンと二回、手を叩く音が室内に響いた。
条件反射でトオルもビクトールも黙りこむ。振り向くと両掌を打ち鳴らしたセサルが真っすぐにこちらを見ていた。重要な指示を出すときは決まってそうするのが彼の昔からの癖で、これが聞こえたらどんなときでも一旦訊きに入る習性が昔の『ガト・ネグロ』のメンバーには付いていた。
「お前ら、そういう話ならあとにしろ」
あとでもなにもこの話題はここでお終い……と内心で勝手に決着をつけ、トオルは頷いた。瑠璃とビクトールも片手を上げて了解の意を示す。
セサルは口の動きだけでOKと呟いてから、まだ立ったままだったトオルと瑠璃にもう一度椅子を勧めてきた。それから自分も椅子に深く座り直し、胸の前で腕を組む。
寒くもないのに張りつめた空気。静まり返った店内で全員が固唾を飲んで一人を注視している気配が肌に伝わってくる。
やがて、その当事者セサルはゆっくりと口を開いた。
「さっきの続きだが……この店を続けるか、閉めるか」
座りかけていた体が一瞬で固まった。
すぐにセサルの表情を確かめたが、彼の顔は冗談を言っているようには見えない。