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Love begets love. ≪それでも、男と女はすれ違う≫ 5

                  ◆


 視線を向けた先には、四角く切り取られた青のグラデーションが果てなく続いている。それをさっきからずっとぼんやり眺めていた。

 窓際のシートからはどうか知れないが、ここから見えるのは呆れるほど空だけで、本当に目的地へと進んでいるか疑いたくなってしまう。フライト自体はいたって穏やかなので実際には順調なはずなのだが、変わり映えのしない映像の連続は思考を無駄に走らせ、おかげで考えなくてもいいことまで考えてしまう。いっそ、酒の力に頼って無理矢理眠ってしまおうとも試みたが、二本目のワインを空けてもたいした酔いにはならず、失敗した。こういう心境のときは得てしてそんなものだ。

 成田空港からパリへは、約12時間。そこから飛行機を乗り換えてさらに2時間弱でバルセロナ・エル・プラット国際空港へ。彼の地に行くのは10数年ぶりのことだった。ただ、希望に満ちて降り立った前回のときと比べて、今回はちょっと複雑な気分での渡西である。気持ちは少しでも早く到着したいと焦る反面、辿りつけばそこで待っているのは受け入れたくない『現実』。

 それにバルセロナは真由子との思い出も残る場所なのだ。湿った感慨に整理を付けるにはこの長いフライトも必要な時間なのかもしれないと、そう考えなおす。トオルは大きく息をつくと、シートに深くもたれた。

 目を閉じ、なんとなしに当時のことを思い出してみる。浮かんでくるのは真由子と過ごした記憶と日々仕事に明け暮れていた記憶。そのどちらの記憶にも映る面影をさらに思い起こす。

 トオルにとって忘れられない存在。いつも見ていた大きな背中。仕事のあいだはそれこそ厳しかったが、今になればあれも愛情だったのだと理解できる。仕事を離れればあくまでおおらかで、包容力というか母性の塊のような、誰からも慕われるみんなにとっての母親のような人。もともと皺だらけなくせに、表情までくしゃくしゃにして笑う顔が愛嬌たっぷりで、とっても温かかったのを思い出す。

 マチルダ・ナダル・テリェス――親しみをこめて『マンマ・マチ』と呼ばれていた彼女の本名を知っているのは、彼女自身がHijo(息子)と呼んで目をかけていたごくごく一部の弟子たちだけだ。

 

  


「……マチが危篤だって。家族を呼んだほうがいいって医者は言ってる」



 突然掛って来た正体不明の電話の主は、美純と口論になってそれっきりの瑠璃だった。

 話す機会があれば先日のことはきっちり抗議するつもりでいたのだが、切り出された内容があまりにも衝撃的で言葉を失った。

「あたしは『お店は閉められないだろうから、トオルはきっと来れないと思う』って言ったんだけど、あんたにはちゃんと伝えといたほうがいいって、セサルが。……近い連中はみんなもう集まってるし、エメリコとかルシオなんかも明日にはどうにかして来るみたい」

「かなり悪いのか?」

 聞き返すが、答えはしばらく返ってこない。それが答えになった。

「……あたしも知らなかったんだけれど、マチ、以前にも一度倒れてるって。そのとき、厨房の床に頭を強く打ったらしくて、それからだいぶ弱っちゃったみたい。今は体もすごく小さくなって、見た目、本当におばあちゃんだよ。何とも言えないけれど、……多分ダメかもしれない……」

 最後の一言は『多分』――だが、彼女の声音でそれがほぼ確定的なものなのだと知れる。おそらくは時間の問題なのだろう。それでなくてもマチルダは80歳を超える高齢だ。本来、いつそういうことになってもおかしくはない。

 ただ、彼女という人間を知る身としては、それでもと思ってしまう。180センチ近い長身、100キロ以上の熊のような体格。普通にしゃべる声がうるさくて、笑い声はゲラゲラとさらにうるさく、怒鳴るともう拡声器ごしの声みたいな大音量。仕事のあいだは大の男を尻で軽々押しのけてしまうような男勝りのパワー溢れるおばあちゃん、それがマチルダという人物だったのだ。

 なのに、と無意識のうちに深く嘆息がこぼれる。どんなにタフな人間であっても、いつかは老い、やがて死ぬ。その自然の摂理にはどうしたって敵わない。

「……じゃあ、あたしはちゃんと連絡したから……」

 電話の向こうで急に話を畳もうとした瑠璃を、トオルは反射的に呼びとめた。

「待て、瑠璃。お前は今、どこにいるんだ」

 答えはまた返ってこない。

「お前もまだそっちにいるんだろう。いつまでバルセロナに居られるんだ?」

「……わかんない。仕事の連絡が入れば動くかもしれない」

 つまりは今のところの予定はない、ということだ。なら、

「OK、俺もなんとかそっちに行けるように手を尽くしてみる」

 電話の向こうの瑠璃は「えっ?」と驚いた。

「店はオーナーに頼んでなんとかしてみる。予約は入っているけれど、事情を説明すればお客さんだってわかってくれるだろ。飛行機のチケットも今の時期なら多分取れるだろうし、」

「ちょ、ちょっと……」

「だから、ホテルとかはそっちでお前がなんとかしておいてくれ。そこまで段取り組んでる暇はないだろうし、別に観光に行くわけじゃないんだから、何なら誰かの家に泊めてもらえればそれで十分だ」

「えっ、でも、まだ、」

 めずらしく歯切れの悪い返しだったが、バイタリティーには事欠かない彼女のことだ。当然なんとかしてくれるに違いない。そうと決まれば、まずは哲平に連絡だ。それからしばらく休業の手はずを取って、お客にお詫びの電話をして……ぐずぐずしている暇はない。

「そっちのみんなによろしく伝えといてくれ。出発日が決まったらまた連絡する。じゃあな」

 そう言って電話を切る。瑠璃がまだ何か言おうとしていたが、それは向こうに着いてからゆっくり聞けばいいことだった。



 結局、『カーサ・エム』は閉めずに行けることになった。

 哲平のほうがたまたまコックの知り合いがいるとのことで、トオルのいない間はその人物に店を任せることになったからだ。予約を受けていたゲストには念のためその旨を伝えると、事情が事情だけに好意的な反応をいただけた。

 一応、哲平には一週間くらいの期間休ませてほしいと伝えたが、正直なところどれだけの期間向こうに滞在することになるかは未定だった。だが、哲平はそのあたりの事情も織り込んでくれて、

「給料こそ出せないが、それでよければこっちのことは心配しなくていい。ちゃんとやってきてやれ」

 と、送り出してくれた。

 おかげで瑠璃から電話を受けて二日後には全部の準備が整い、日本を発っていた。

 唯一、美純とは直接話せなかったのが心残りだったが、メールで事情はきちんと伝えていたしたし、そういうことに理解のない女ではないから安心できる。

 日本を離れる直前、空港から最後にメールを打ったが、最近とみに多忙な彼女からは返信がないままトオルは機上の人となった。頭の中はマチルダのことばかり考えていたせいで、長いフライトのあいだ気を紛らわせるようなツールをひとつも持ってこなかったことにあとで気付いて後悔した。

 

 

 

 

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