Love begets love. ≪それでも、男と女はすれ違う≫ 3
「私は別に自分の娘たちが恋愛するのを否定的に思っていませんし、彼女達の意志はちゃんと尊重したいと思っていますよ」
トオルが次ぐ言葉に詰まっていたところへ、追撃は思いもよらない角度から飛んできた。「は!?」と言いかけた口は理性でなんとかつぐんだが、理解は追い付かず頭の中はモヤモヤだ。
宗太郎がフッと笑った。
「また、意外ですか?」
そう問われ、素で答えそうになったのは寸前で踏みとどまる。が、仲間内からはすこぶる評価の低い自分のポーカーフェイスだけでどこまで平静を装えたかは怪しい。
宗太郎は問うだけ問うと、また無言になってしまった。
トオルのほうから切り出さなければ話すつもりはない、というスタンスは変わらないらしい。実に貫禄な居住まいに、これは相当に偶然が重なってもトオルのほうにイニシアチブが移ってくる気配は薄いなと感じる。
同じ高さに立てない腹の探り合いなんてそもそも下にいるほうが圧倒的に不利なのは当然で、腹がくくれた。どのみち持久戦に持ち込んでも、駆け引きに転じても、そうそう勝ち目がある相手とも思えない。
「それは……ちょっと自分としては納得できないというか。なら、なぜ美空さんと片岡君のことに関してはお認めにならなかったんですか?」
「…………」
そこまで知っている、と。
トオルにしたら一番大きな手札を切ったつもりでも、宗太郎のポーカーフェイスは完璧だった。
答えるつもりはないか。それとも答えづらいのか。俯いたままの顔を覗き込むような真似まではできず、結局残りの手札もさらすハメになる。
「美空さんから聞きました。すみません、ご家族のことに踏み込むつもりはなかったんですが、知っているのに知らないフリが通せるほど自分は役者じゃないので」
「……ほう、そうですか」
「きっと彼女は彼女なりに悩み抜いて、結果『結婚』という決断に至ったんだと思うんです」
言われるまでもないだろうが、だからこそ他人に掘り返されればそれがきっかけで考えさせられることもある。
「その意見には私も賛同ですよ。あの子はうちの家族の中で一番聡い子ですからね」
が、あっさり同意されてしまった。むしろ想定外にあっさりすぎて困惑した。
「そう思われるなら、なぜ一度でも二人の話を聞いてあげようとなさらなかったんですか? 話を聞けばもっと別の選択肢もあったかもしれない……出過ぎたことを言っているのはわかっています。でも娘さんに一方的に家の事情を押し付けるのはどうかと思います」
まして、そんな人間から出る『尊重』なんて言葉がトオルには素直に受け止められない。
「家の事情……?」
宗太郎はわずかに顔を上げ、呟いた。
「……四方の家に生まれた長女が不安定な職種の男と結婚は許されないと。夫には、真っ当な仕事についていずれは会社を継ぐような人材こそが望ましい……」
以前聞いた美空の言葉を思い出しつつ口にすると、
「それは、美空がそう言っていたのですか?」
宗太郎の目が一瞬険しくなった。
さすがに赤の他人にそこまで家庭の事情を知られているのは面白くないだろう。が、出した言葉をいまさら引っこめることもできない。
「ええ。二十歳そこそこの女の子が自分の結婚をそんなふうに考えなければいけないのは、自分にはちょっと不自然、というか歪んで感じられました」
少しでも躊躇えば怯みそうな言葉を息継ぎ一つで言い切る。
トオルの言葉を真っ直ぐに聞いていた宗太郎は、やがて「ふー」と静かにひと息付くと瞼を伏せて黙考し出した。隣りに座る美麗夫人がその様子を黙って静かに見つめている。
――どれくらい経っただろうか。そう感じたのは体感的なもので、実際はそれほど時間が経っていたわけではないのかもしれない。
「……娘というのは難しいな」
吐息のように出た呟きは、本当は妻だけに聞かせるつもりで吐いた弱音だろう。トオルはさり気なく手作業を始めて、せめて聞こえないふりをする。カチャカチャと食器を洗う音がいつもより大きく響く。
声が掛かったので顔を上げると、宗太郎はすでに空になっていたグラスをかかげておかわりのサインをした。顔色はちっとも変わってないから酒は強いほうらしい。宗太郎は出された新しい一杯をちびり、ちびり、と舐めるように飲む。いつも饒舌な夫人はさっきから黙ったままだ。トオルはどう切り出したらいいかわからず、間を持たせるのにさらに手作業に徹する。
カランカランと宗太郎が氷を鳴らす高い音がよく響いた。その音になんとなく耳を傾けていたら、不意に話しかけられた。
「学生の頃と社会に出てからと、同じ相手と恋愛できるかい?」
唐突な質問だったが、すぐに答えられた。
「わかりません」
宗太郎が瞼を伏せた。おそらく同意ということだろう。
「『できる』と言い切れてしまうのは若さだよ。恋愛対象なんて出会いのタイミングや環境次第で簡単に変わってしまう。学生結婚なんて、大抵は長く続かないもんだ」
いつの間にか口調が変わっていたのは宗太郎が本音でしゃべり始めたからだろう。ここからは客と店員の距離ではないということか。トオルもあえて思ったことを素直に口にする。
「……娘さんの決意は『軽い』と?」
「本人はそうは思っていないだろうが実際はそうだ。土台も出来上がっていないところに立派な家を建てても不安定には変わりない」
首肯する。
一度しゃべるつもりになると宗太郎は饒舌だった。
「それに『人に好意を抱く』のと『好意を抱き続ける』のはそもそもが別の燃料で動く感情だ」
「ええ、確かに」
「今は考えても熱くなるばかりだろうからお互いひとりになって冷静に考えてみなさい、そういう主旨のことは確かに言った……気がする。いや、今のは言葉を選んだな。あの時はもう少し乱暴な言葉で言ったかもしれない。でも、それだけだ」
宗太郎の言葉はひとつひとつがまさに正論だった。ただ、一部の隙もない正論なんて聞くほうも素直に耳に入らない。宗太郎の言葉は第三者の立場からすればどれも頷けるものだが、当事者の立場ならどうか。美空には自分に一切の理解を示さない父親に映ったのではないだろうか。
「まさかあの子がそんなふうに解釈していたとは。そんなことを言ったつもりは少しもなかったんだが」
以前、今岡倫子が言っていたのを思い出す。落とした皿を掴もうと反射的に動いてしまった給仕に、余計な被害を増やすだけだから切り捨てろと言った話だ。『大丈夫』でも『気をつけろ』でもなく『無駄』と言い切ってしまうこの男の感性は、その時の美空の心をどれくらい打ちのめしただろうか。大体の想像はつく。
言っていることは十分に共感できる。でも、だからこそ反発せずにはいられないこともある。少なくとも、宗太郎氏の言葉がどんなに正しかったとしても二十歳そこそこの男女が真摯に受け止められるような発言だったとは思えない。親子の間にできた溝はこれが原因か。
「今はちゃんとあなたのことを理解していると思いますよ。多分」
その後の美空を知る身だからこそ言えた言葉なのだが、慰めは曖昧に流された。仕事では有能な男も父親としての自分には余程自信がないらしい。気落ちしているのか、手にしたグラスを口に運ぶこともできずに固まっている。
自分の見識の範疇での可能な限りの『尊重』というべきか。それはしかし相手からすれば強要とも取れる。そのことを理解させるにはトオルはまだ宗太郎との接点が少なすぎて役ではない。
ともかく今は話しかけるのもはばかられたので、トオルはこの間にいくつか残っている仕込みに手を付けてしまおうかと動き出した。が、「シェフは?」とそれまでずっと黙っていた夫人が話しかけてきたので、耳を傾けなおす。
「はい、なんでしょう?」
聞き返すと、ゆったりとした仕草でおとがいに人差し指をあて、まるで今夜のおすすめを訊ねるみたいに自然に口を開いた。
「シェフはあの子のどこが気に入ったの? 母としては、そういうのちょぉーっと気になっちゃうのよね。ぜひ聞きたいわー」
なんの脈略もなく突然出てきたそのオーダーに、背中から汗がじんわり吹き出した。