Love begets love. ≪それでも、男と女はすれ違う≫ 1
その日『カーサ・エム』には美純だけでなく、彼女の仕事のパートナーである安芸翠もそろって食事にきていた。
いつものようにデザートまで食べ終えた美純がトイレに立ったあと、それを待っていたかのようにカウンターの向こうから翠が話しかけてきた。
「シェフは、……美純ちゃんとこの先どうするつもりなの?」
漠然とした言葉にその意図を測りきれず、トオルは目で問い直す。すると、翠はなんだか急に気不味い顔をした。そして取り繕うような中途半端な笑みを作り、しかしすぐに思い直したふうに真顔になる。
翠はひとつ息をついてから口を開いた。
「彼女、今、すごく順調。勢いがある。頑張ってもいる。でも、学業と歌の仕事、それと恋愛、三つの草鞋を上手に履くにはまだまだ若いわ。どれかを頑張った分、ほかのどれかを取り返そうとすると力が入っちゃってる。全部に一生懸命って言えば聞こえはいいけれど、それはちょっと違う。抜くところが見つからなくて走っちゃってるだけ」
「根がそういうやつだからな。しょうがない」
思わず苦笑い。思い当たる節なら彼女と出会ってからの数ヶ月間だけでも多々ある。
だが、翠はつられて笑わなかった。むしろ、ちょっと怒ったような顔をしていた。
「分かってる、って顔……でも、それはただのわかってるつもり」
片手以上も年下の女に忠告めいたセリフを吐かれるのは、正直、男としては面白くないものだ。それも、わからず口にしてしまうような能天気な輩からでなく、翠のようにわかっていてなお口にしてくる女なら尚更だ。
「仕事の関係者としての希望を言わせてもらうとね、別れてくれたらどんなにいいかとは思う。あくまで仕事の面だけで言わせてもらうと、だけど」
トオルが答えないでいると、翠は今度は微かに笑った。
自嘲しているかのようなかすれた笑みだった。
「でも、彼女自身をよく知る身としては、そうも言えないのよね。美純ちゃんにとってみたらどれもが同じくらいに大事な位置づけなんだもの。欲が少ないっていうのか、純粋っていうのか、きっと仕事で成功するのと好きな男と会うことが彼女の気持ちにとっては同じ高さなのね。多分、これに手心を加えると元のバランスには戻せなくなっちゃうのよ。本当はもう少し打算的になってくれたらなぁ、って思うんだけれどね」
カチャッとトイレのドアが開いて、その音でどちらともなくこの会話は終わりの空気になっていた。
「……シェフも、ちゃんと彼女の将来のことは考えてあげてね」
最後に翠が口にした言葉は、彼女にしてみれば苦言などではなく、むしろこれからのある大事な身を預かった『保護者』としての責任からだったのだろうが、それがトオルにはちょっと深く刺さった。
出てきた美純がトオルと翠の間の微妙な空気を感じ取って一瞬怪訝な顔をするが、トオルがなんでもないと首を振ってみせると素直に受け取って目を柔らかく細めた。ニュートラルな表情が以前に比べ随分大人っぽくなってきたように感じる。初めて出会った頃の自信のなさそうな雰囲気は今はもうない。
目標を見付け、真っ直ぐに前を向いているからだろうか。
それが、時折少し眩しく感じるときがある。
予約の段階で人数は二名ということだったから、てっきり連れは美純だと思い込んでいたのだが、四方夫人が伴ってきたのは50を少し過ぎたくらいの感じの良い紳士だった。
やや白いものの混じった髪を丁寧に撫でつけ、ネイビーカラーのポロシャツと白のパンツ姿。ヒールを履いた夫人と頭の高さは同じくらいなので背はそれほど高くもなく、どちらかといえば細身なほうだ。身体的にこれといった特徴もなく、一見してどこにでもいそうな雰囲気を唯一かつ強烈に打ち消しているのがその目だった。
流されることのない、しっかりと一点を見据えた『自身』という確固たる意志を持った目。初対面にもかかわらず、確信だった。この人が『株式会社四方トレー』の代表取締役、そして美純の父である四方宗太郎だろうと。その宗太郎氏はトオルが予約のテーブルへ案内しようとしたのをやんわりと断り、カウンターの席を希望した。やんわりではあるが、そのくせ拒否は認めようとしない太い振る舞いだった。普段なら希望されても予約の客をカウンターに案内したりはしないのだが、そのときは自分でも珍しくらいに反論する意志は働かなかった。
「いつもうちの家族がお世話になっています」
「いえ……こちらこそ」
席に着いた宗太郎がまず先に口を開いた。相手に口火を切らせるなんてことはいつもだったら絶対になかったから、トオルは自分が飲まれていると自覚して気取られないようにわずかに深呼吸した。
「家内がいつも絶賛するもので、いつかはご馳走になろうと思っていたのですが、なかなか時間が見つからずにいて悔しい思いをさせられてきました。やれ「何処そこの魚のカルパッチョがうまかった」とか「なんとかってパスタが今まで食べたこともない食感でよかった」とか、いつも自慢されるばかりで。しかもうちの美麗ときたら食べたものを「あれ」とか「それ」とか漠然としか覚えてきません。想像するにもイメージすら湧きませんから、これがまるで雲を食っているような感覚で。随分と長いこと生殺しにあった気分です」
隣りで夫人がくすくすと笑った。トオルも自然と笑みが溢れていた。想像していたより気さくな雰囲気の人物だと思った。
「でしたら、今日はお腹がはち切れるまでご堪能ください。腕によりをかけます。食前は、シャンパーニュでよろしかったでしょうか?」
夫人が決まってそうだったから断定的に訊ねてみると、思った通り宗太郎は頷いた。
普段は開けない銘柄。夫人は『ブラン・ド・ノワール』といわれる赤い葡萄から作った白い液体のシャンパーニュが好きで、今日もそれを用意していた。一般的なシャンパーニュよりコクやふくよかさがあり、すっきりというよりはしっとり飲むタイプの酒だ。それを泡立てないよう傾けたグラスにゆっくりとそそいでいく。
「本当は娘も連れてきたかったのですが、最近は友達付き合いでずいぶんと家を空けるようになって、今日も結局断られてしまった。私自身、滅多に家族と一緒に食事をしていないので偉そうなことは言えませんが、それでも向こうのほうから断られるようになると、ああ、この子もとうとうそういう年齢になってしまったんだなと、ちょっと寂しく思うものです」
美純は今の歌の仕事のことは両親にはまだ打ち明けていないと言っていた。娘の急な親離れを不安には思わないのだろうか、となんとなく考えてみる。もしも大事な娘に変な虫でもついていたら……とは当の虫の立場には口が裂けても言えない。
宗太郎の表情は笑っているようにも見えたが、どちらかというと寂しそうだった。トオルはグラスに向けていた目をわずかに上向け笑顔にすると、彼は達観と諦めのあいだのような複雑な皺を目元に浮かべ、せつない微笑を返してきた。その顔はきっと娘には見せたことのない親の顔で、父の未練の顔だ。先入観で冷淡な男を想像していたトオルは、ここでもいい意味で裏切られた気がした。口でなんと言っても行動は真逆の人間はたくさんいる。しかし、そういう人間からはこういう生身の表情は出てこない。
これが美純が育ってきた家庭環境か。
胸がふっと暖かくなった。
確かに他の家と比べれば家族のつながりは太くはなかったのかもしれない。けれど、そこに愛がなかったかといえばそういうわけではなかったはずだ。大きな仕事、その義務と責任に人一人の身にできる精一杯を尽くす人と、すれ違いがちになってもおかしくない多忙な夫を支え続け、妻であり母であった人。そんな両親のあいだに優しさと愛情が存在しなかったはずはないと思う。ただ、子供たちの目には映りづらかったかもしれないが。
「昔は自分では何も決められなかったような子が、今では本当に変わりました。自分の気持ちをちゃんと言葉にして、時には思いをぶつけてくることもある」
宗太郎が遠い目をする。
多分、その父親の顔を見せられて安堵に近いものがあったのだろう。気持ちに出来たわずかな隙間に、次いだ宗太郎の言葉がふっと入り込んでいた。
「お付き合いしていると伺ってます。それもきっと娘が変わった理由のひとつかもしれませんね」
シャンパーニュを注ぐ手が一瞬こわばった。
平静を装うには彼の言葉が心臓に近すぎた。何か言うべきだと頭ではわかっていても、そのどれも言葉にはならずに黙りこくってしまった。いつもよりほんの少し多く注いでしまったグラスを、意を決して差し出す。
「……あ、の……」
言葉が続かない。すいません、とでも言うべきなのか。そうな気も、そうでないような気もして定まらない。
顔を上げ、こわごわ見た宗太郎の顔は不思議なくらい自然体だった。
「あの子はそういうことを親に隠せるような子じゃないですから。むしろ父親と面と向かって恋愛相談できるような素直な子なんです」
それは果たして素直というべきなのか。
誇らしげに言った父親の表情をどう理解したらいいのか、トオルは内心激しく狼狽した。