No rain, no rainbow. ≪涙≦笑顔≫ 8
結局あれから美純はまた黙り込んでしまい、そんな彼女を放り出すわけにもいかないから、背中を押してカウンターの席に座らせた。
すでにディナーの開店時間を回ってしまった『カーサ・エム』のキッチンで、トオルは慌ただしく臨戦態勢を整えていく。しばらくじっと椅子に座ったまま黙り込んでいた美純だが、てきぱきと体を動かすトオルを前に次第にこちらの様子が気になり始めたのか、気が付くと時折顔を上げては中を覗き込んできた。
ただ、その表情は曇ったままだ。視線もどこか頼りなく、どこを見ているのかも定かではない。
そんな彼女の様子はトオルも気になった。
自分から近いカウンター席に座らせたのは、彼女を一人にさせないほうがいいと思ったからだ。美純がみせた表情は10代の少女が浮かべるにはあまりに寂しげで、それがトオルの胸の深いところを小さく刺した気がした。
あんな顔をするのはどんな理由があるのかは知らないが、あんな顔をさせてしまったのは自分の言葉なのだ。
それに、あんな顔をしていたことが過去の自分にはある。
逃げ場を失った心がそれを全部背負い込む覚悟を決めたあとの行き着く先、とでもいえるだろうか。たとえ昨日今日会ったばかりの相手とはいえ、そんな表情を見てしまったらなんとなく放ってはおけない。
ただ、そうはいってもバタバタと準備に忙しいトオルは、すぐに声をかけることもできなかった。
今夜の営業の準備を大至急に済ませ、続けて週末に迫るイベントの仕込みも手早くく進める。当日でも間に合うものは後回しにして、煮込んだり、漬け込んだりするものを優先して作業する。
そんな最中でも彼女の様子はよく観察していた。おそらく職業柄、習慣のようなものなのだが、カウンターの向こうで美純がほんのちょっと動いたり、少しだけ大きく息を吸ったりするだけで、トオルの視線は彼女を向く。反射のようなものだ。
ひとつ、気が付いた。
美純は何度か座り直し、少し落ち着かなくなったのだ。
トオルは彼女に視線を投げ、目顔で店の奥にある扉を示してみせた。それが何のことかわからずにきょとんとしていた彼女がはたとトオルの意図を理解すると、今度は急にムッとしたのと恥ずかしいのが混ざった顔になって肩を小さくする。
けれども結局は我慢できるものでもなく、美純はトオルに向かってむっとした表情を残しつつ席を外した。
その顔を見てトオルは少し安心する。どうやら少しは落ち着いたのだろう。
彼はしばらく自分の手元の作業に集中することにした。
気が付けば時刻は19時近くになっていた。
今だ外の雨は降り止まず、『カーサ・エム』の窓を強く叩く。
日が長くなったおかげで表はまだほんのりと明るい。けれどさっきから一時間以上、店の前を人ひとり歩いていない。
さすがにこんな天気じゃ人も歩かないよな、と内心苦笑する。第一、自分だってそうだ。店の外に出る用事がなくはないのに、とても出る気にはなれない。本当は三軒隣のスーパーに切らしていたマスタードを買いに行かなければと思っていたのだ。だが、今日はもう諦めた。
雨足はこれっぽちも弱まることはなく、むしろどんどんと強くなるばかり。
ディナーのオープンからひと組みの来客もないおかげで、順調に仕込みは片付いていった。あとは火にかけているものの様子を時々みたり、味の染み具合をみながら次の行程に移すものくらい。
トオルは一旦背中の筋を伸ばすと、小さく深呼吸する。
そしていつも一仕事終えたあとの習慣にしている、ワインをひと口飲んだ。調理用に使っているものが酸化しすぎていないかのチェックも兼ねているが、それはほぼ言い訳だ。
そして、ふと気が付いた。
と、いうよりその存在をちょっと忘れていた。
じっと真剣な目でこちらを見ている少女は、目の前でしていたトオルの作業が余程興味深かったのだろう。次は何をするのかと、期待の眼をキラキラとさせてこちらを見ていた。
トオルは思わず吹き出してしまった。
「なんだ、そんなに面白かったのか?」
「えっ?」
急に声をかけられてちょっと驚いていた美純は、数瞬答えに詰まっていた。どうやら彼女は彼女でトオルがいるのを忘れ、眼前で軽やかに進んでいく仕込みの行程のほうに没頭していたようだ。
「ええ、っと……なんか、タタタッて感じが、すごかった……」
「そう。ありがと」
トオルがくしゃっと笑顔を作ると、それを見た美純は急に恥ずかしそうに目を逸らしてモジモジとする。そんな素直な反応が少女らしくて可愛い。
「そのカウンターに座って『美味しい』って言ってくれる人はいるけれど、『すごい』って言ってくれたのは美純が初めてだよ」
「エッ、そ、その……そうなの?」
「ああ。だから、ありがと」
そう言うと今度はちょっと嬉しそうな顔を向けてきた。今日、会ってから一番の表情を見ることが出来て、トオルもなんだか嬉しくなった。悪気はなくともあんな顔をさせてしまったのだ。ちょっと救われた気がした。
だから、もしかしたらお詫びの意味もあって言ってしまったのかもしれない。
「なぁ、美純。お前、腹減ってないか?」