“Boyed” meets Girl ≪オジサンと少女≫ 1
もうすぐ時刻は、深夜12:00を回る。
街はいつも通り静かだった。ネオンやサインは見当たらない。
明かりといえば街灯と信号機の赤・黄・青だけで、毎晩通るこの国道はこの時間、ほとんど人通りがないから、彼はいつものように気持ちよく自転車を漕いでいた。
風を切って滑るように、速く。速く。
水無月の夜風は、日中と比べてやや涼しい。湿気を帯びた風はすれ違うと彼のシャツや髪をしっとりと撫でるように通り過ぎる。それがこそばゆいようで、何だかちょっと気持ちいい。
彼の名前は廣瀬トオル。
この『都会じゃない街』で暮らす、ごく普通の男だ。歳は今年で34歳になった。現在バツイチ、彼女ナシ。
仕事はこの街で雇われのイタリアン・シェフをやっている。
まぁ、シェフといっても、従業員は彼しかいない小さな店なのだが、それでも人口における高年齢層の多いこの街で、いわゆる『洋食』で生き残っていくのは大変なことなのだ。需要の少ない媒体であることは間違いない。そんな中で“6年目”の彼の店『カーサ・エム』は、地域では1・2を争う人気店である、とひそかに自負していた。
毎朝7時には家を出て、買い出しと仕込み。終わるのは早いときで10時頃。
常連さんが来たり、仕込みが多かったりすると、日をまたいでしまうこともある。
労働時間は、長い。
そのせいで飲食就業者は、気が付くと休みの日も含め『家~職場・職場~家・時々コンビニ』という生活ゾーンが固定化されがちだが、まんまともって彼は固定化されていた一員であった。これはまるで呪いだ。決して出不精というわけではないのに、休みの日は外に出ていても『生活ゾーン内』でしっかりと済ませてしまえる性が恨めしい。
それはカフェも、スーパーも、本屋も、美容院も、全部がゾーン内にあるのもいけない理由の一つなのだろうけれど、もう一つ言えるのならば、そのことを指摘してくれる身近な人間がいないのもまた問題なのかもしれない。
今夜は、親しい友人が奥様の誕生日を祝う会を催したいとの事だったので、場所の提供に一肌脱いだ。
おかげでまぁ、こんな時間だ。
和気あいあいに弾んだ会話。うまい料理に、楽しいお酒。なかなか見つからない落とし所は、気が付くと日付が変わる勢いだった。片づけが終わって、売り上げの計算、明日の発注、残りの仕込み……。やることは結構あって、一人でやっていると慣れてはいてもそれなりの時間になる。それも仕方ないことだとわかってはいるけれど、こうしてだれも歩いていない夜道を帰宅することになると、家に着けばちょっと物悲しい気分になったりもする。
約100mおきに足元を照らす街灯の明かりが作る直径数mの小さな光りの輪は、まるでスポットライトのよう。
上から注ぐ光で出来たちっちゃな世界が、歩道沿いにポツンポツンと、規則的に続く。誰もいない歩道に浮き出したステージみたいな丸い場所は、なんだか空気のない冷たい世界みたいに見える。
その光景もまた、今のトオルにはちょっと物悲しく映ってしまう。深夜とは、そういう時間だ。
沈んだ気持ちになりそうな自分を奮い立たせるように、トオルはさらにスピードを上げて自転車を走らせた。視界も彼と同じくスピードを上げてぐんぐん進む。足元を照らす街灯の明かりが、明・暗、名・暗、とシグナルのように点滅し、肌に触る風もざわざわからシュッシュッと音を変えてゆく。
こんな時間に誰もいるはずがないから、不謹慎にもトオルは普段だったら出さないような速度で自転車を走らせた。風の音がさらに鋭く変わる。
ふと、視界に影のようなモノが映った気がしたが、明かりの少ない夜道でははっきりしない。街路樹の葉でも揺れたのかと思い目を凝らしてみるが、そもそも大したものはないと確信しているから、視線を送るにしたってついおざなりになってしまう。
目を凝らしても変わらない。やっぱり、何もない。
きっと気のせいなんだろうと思い直し、軽く息を吐いてペダルを強く踏み込む。トオルが視線を真っ直ぐに戻して走り出した瞬間、だ。
突如、その場所でずっと息を殺していたかのように、すぐ横に植わった街路樹の陰から何かがわさっと飛び出してきたのだ。
トオルは息を呑んだ。
目に入ったのは、白っぽいブレザーに、緑と黄色のタータンチェックのスカート。
明るい色の服なのに、その存在に気付いたのはもう自転車の前輪に飛び込んで来たあとだ。
ブレーキをかけても、絶対に間に合わない。
トオルはともかく避けるのに必死で、無理矢理ハンドルを切ってしまった。その瞬間、バランスを崩した自転車は『キィィィッ』と聞いたこともないくらいの甲高い音を響かせて、コントロールを失った。
あっという間にトオルの視界がぐるっと回る。
「キ、キャァーーッ!」
トオルの耳に悲鳴が飛び込んできた。けれど、それが聞こえた直後にはトオルの体は右肩から激しく地面に打ちつけられ、「うっ」と空気が肺を飛び出していく。
勢いそのままスライドする自転車に引っ張られ、体がアスファルトの上を滑り、右半身が地面を強く擦る。
摩擦であちこちの皮が削れた感じがした。歯を食いしばって耐えるが、焼けるような感覚に目がくらみそうになる。
それでも、肘を突っ張った。熱か痛みか、区別のつかないような感覚が脊髄に走り、奥歯の辺りがじんとして思わず顔をしかめた。
全身の接地している部分に精一杯力を込めて踏ん張ると、惰性でずりずりと滑り続ける体はようやくなんとか止まった。
自転車のほうはまだ滑り足りなかったのか、もう少し歩道の先まで行ってガシャンと音がした。どうやら何かにぶつかって止まったようだ。
「……あっ、つうっー。いってててて」
あっという間の出来事に無意識に止まっていた息を咳するように吹き返し、新しい空気を吸い込んだ。停止していた思考が、時間をかけて一つずつ現状を理解しようと活動を始めた。
そのおかげで、まっ先に痛みに顔を歪めた。
右半分が焼けたように熱い。
地面にぐったりとしていた体をなんとか起こそうとしたが、さすがにちょっとぐるぐるとめまいがした。ともかくうつ伏せに体を入れ替え、肘をつき、めまいが落ち着くのを待つ。
気分は遊園地のアトラクションの何十倍も最悪な感じだった。
それでもなんとか体を起し、膝をついた。辺りを見回すと自転車は数m先のガードレールに激突して止まっていた。
それから自分の様子を確認しようと全身そっくり見回してみると、こっちはかなり痛々しくて目を覆いたくなる。
ジーンズは膝の部分は切れてボロボロだったし、その下の膝からは結構派手に血がにじみ出ている。右肘のところも大きく擦れて血が出ていた。他にもあちこち赤黒くなっている。まぁ、着ていたのが半袖の服でなくて、まだよかった。
「はぁ。なんだ、あちこち傷だらけだ」
ため息交じりにひとりごちる。
今夜のシャワーは相当痛いんだろうなと、嫌な想像をしてしまう。それでも不幸中の幸いか、骨折のような大事には至らなかったようだ。あの勢いで転倒した割にこのくらいの怪我で済んだというのは、ツイているほうと言うべきなのだろうか。
トオルは嘆息すると頭を掻いた。
考えてみれば、いい大人なんだからもう少し社会のルールに沿った運転を心掛けるべきなのだ。神様は時として罪より大きな罰を与えるのかもしれない。そういえば、この数年、お参りなんて行った記憶もないから、ご先祖様もさぞお怒りだろう。
だからって、ここまでしなくてもいいだろうに。
心の中で適当に幾つかの神様にお詫びをすることにして、それからトオルはゆっくりと立ち上がった。痛む足を引きずりながら横倒しの自転車がある場所まで歩いていくと、上半身に力を入れてぐっと起こす。膝は痛くて力が入らなかったので、痛む側を庇うのに自転車を支えに使った。
そして振り返ると、ふと何か目に入った。
大事なことに気が付いた。
存在を、すっかり忘れていたのだ。
トオルは慌てて目を凝らして見た。10mくらい向こうの暗がりに白い影がぼんやり浮き出て見える。
トオルは膝の痛みも忘れて足を動かし影のそばへと近づいていくと、影から数歩ほど手前でその存在のが認識できた。
そこには長い髪の少女がぺたりと尻餅をついている。
口は悲鳴を上げた時のまま閉じるのを忘れたようで、半開きのまま固まっていた。顔色は月明かりでももわかるくらいに蒼白で、近づいて来るトオルの顔を追いかけるように目だけがゆっくりと動いていた。
トオルがスタンドをかけて自転車を止め、ゆっくりとした足取りで彼女の方へ近づいていくと、世界の終わり近付いて来たわけでもないのにますます顔を固くする。
トオルはまた溜息をついた。今度は小さく声も出た。
少女の真横に辿り着くと、痛む体を投げ出すように座った。
膝から流れた血が固まってしまったらしい。曲げようとすると皮膚が引っ張られて痛みがひどい。
それでもなんとか笑顔を作って、出来る限り警戒させないよう努めて明るく振る舞い、トオルは少女の顔を覗き込んで言った。
「ごめんね。大丈夫だった?」
トオルが声をかけると、少女はまるで後ろから声をかけられた猫のように派手にビクッとした。あんまり飛び跳ねるものだからトオルの方も思わず身動いでしまった。
「あー、いや……あの、さ。怪我、とかない?」
「は、ひゃっひ……」
返事らしかった。
「大丈夫、だよね?」
「は、ひゃぁぁい……」
これも返事らしい。トオルはずいっと身を近付け、少女の顔を覗き込むようにして様子を伺う。
「怪我は……大きなのはなさそうだけど。痛いとことか、ない?」
「ひゃっ、はひゃっ、ひっ」
少女は早送りの水飲み鳥みたいにカクカクと首を振る。
そのコミカルな動きと引きつり切った表情。
「プッ、くっっ……」
さながら一昔前のコメディー映画を思わせる少女の表情と行動に、ついつられてトオルは笑ってしまった。
「く、くくくっ、なんだ、そのリアクション。ははは、……い、いてっ、いてててっ」
彼はくの字に腹を抱えて笑い出したせいで、曲げた体のあちこちから痛みに襲われてしまった。
笑いはすぐには収まらなくて、トオルは面白いのと痛いのでひーひー言いながら顔を歪め、体を揺らした。
「…………」
最初のうちはまるで不可解な現象に出会ってしまったかのような顔をしていた少女も、いい加減自分が笑われているのに気づいたらしい。
その目は次第に色を取り戻し、顔色も青白いのから赤いのへ、サァーと音を立てるように変わっていく。
そして彼女の大きな瞳がキッと鋭く釣り上がった。唇の端がつり上がった。
「ちょっとぉ、何よっ?!」
「はははっ、……へっ、何? 悪い、よく聞こえなかった」
彼女が喰ってかかってくるも、トオルは今だ痛みと笑いの悶絶の最中だった。
だがそんな態度もまた、彼女の機嫌を逆撫でたようだ。少女はますます目に怒りの炎を映し、顔を真っ赤にしてとうとう吼えたのだ。
「だ、だから……その馬鹿笑いをやめなさいって言ってるのよーーっ!!」
その可愛らしい唇の間から出てきたとは思えないくらいの大声に、トオルは一瞬ポカンとしてしまった。
しかし、すぐにまた新たな笑いが押し寄せてきた。
血相を変えて怒鳴る少女の顔というのも滅多にお目にかかれるものではない。しかもそんな行動をするとは思えないような可愛らしい娘の口からとなれば、尚更だ。
そのギャップがまた滑稽で、トオルは思わず顔を背けてしまった。
「いや……悪い、くくくっ」
「だから笑わないでって、言ってるでしょ! ちょっともうっ、いいから黙れって言ってんのよっ、このオッサン!!」
少女は余程笑われることが気に触ったらしく、血相変えてトオルに怒鳴り散らした。
よく見ると、見た目は清楚な雰囲気さえ感じさせる容姿だ。
長い黒髪に最近の子にしては控えめなメイク。スカートこそ今どきの子達と同様にちょっと短かめだけれど、おそらく学校指定の制服を指定のまま着こなしているのだろう。道でただすれ違ったら『お淑やか』と形容できそうなその少女の口からは、とうとう「オッサン」とまで出てきた。
トオルはしばらくキョトンとして見ていたが、少女の鼻の穴が排気口みたいに荒い息を吐き出したのを目撃してからは、もう我慢できなかった。今度は全開で笑ってしまった。
「あっはは、凄いね。『オッサン』だって……マジかよ! ははははっ!!」
そのトオルの言葉でハッとなった少女は、急に自分の口を抑えて小さくなってしまった。
あんまり激しく怒って我を忘れたから、思っていることもないことも全部口にしてしまった、といったところか。さっきまでとは違った色でみるみる赤くなっていく顔がやけに可愛らしかった。そんな表情を盗まれたのに気付いたのか、今度はまるで借りてきた猫のように、急に居心地悪そうに俯いてしまう。
その様子がますます可愛らしい。
トオルはさすがにやりすぎたと反省した。みればどうやら女子高生のようだし、それなのに自分ときたら初対面の相手に大笑いだ。大人げないを絵に描いたような振る舞いに、ちょっと鼻をぐしぐしとした。
「ごめん、ごめん。いや、悪いのは俺のほうだった」
「…………」
「ぼーっとして自転車を走らせてたし。危うく、君を撥ねるところだった。それに笑ったのも。ごめん、俺が悪かったよ。ほんと、ゴメン」
トオルは自分の無礼を詫びると素直に頭を下げた。
しかし少女からの返答はない。諦めてトオルが顔を上げると、目の前の表情はやっぱりまだ怒ったままだ。
だがトオルもこのままというわけにはいかない。『カッ』と目を見開いてみせると、その仕草に気を取られた少女に向かって思い切り目顔で『ゴメンッ!!』の電波を送ってみた。それが果たしてトオルの意図した通りに伝わったかはわからない。
けれどとうとう少女も観念して、「ぷっ……」と唇を緩めたのだ。
トオルは無言のままでバンザイの仕草をしてみせた。作戦の成功を満足した笑顔だ。
対して少女の方は、折角ひいた鉄壁の守りを崩されてことにちょっと不満そうな表情だ。彼女はペタリとついていたお尻を持ち上げて立ち上がると、スカートの裾を手でパタパタはたいた。
「ほんと、ゴメンね」
「……別に。気にしてません、大丈夫です」
言葉とは裏腹にたっぷりと気にしたままのほっぺたな少女。そんな様子もまた可愛らしかった。トオルは今度は自分の胸の内だけで微笑んだ。こうしてみるとなかなか綺麗な子だ。均整のとれた顔立ちをしていたし、立たせてみると割に背が高くスラっとした体つきをしていた。長い髪も艷やかで、大人になったらきっといい女になるだろう。
「そう、でも、最後にもう一回。ごめんね」
トオルもゆっくりと立ち上がる。
「いててっ……」
力を入れた右の膝がミシミシ言った。固まった血がパリパリ音をたてて剥がれた。多少、筋肉を痛めたのか動きが鈍重な気もする。トオルは何度が右足だけ屈伸して自分の体の様子を確認してみた。まぁ、そうはいっても家に帰って寝ればちょっとはよくもなるだろうと、楽観的な思考でもって腿の辺りを揉んでみた。とりあえず、たどり着けさえすればいいのだ。トオルにしたらその程度のことだった。
だが、少女は違った。
彼のその仕草を見た少女の目が、何かに気付いてまた顔色を真っ青にしてしまった。
「あっ、あ、あぁ」
少女は言葉を失った。何事だろうと思ったトオルは彼女の顔を覗き込む。もしかして、今になって痛むところが出てきたなら心配だ。
そういえば彼女の体の状態や怪我については何も訊ねていなかったから、ちょっと慌てて少女の顔を覗き込んだ。
急に、目が合った。
その目は明らかに動揺を浮かべて、震えていた。
さらに近づいたトオルの目元に、彼女が何かを見付けたのがその瞳の動きや表情でトオルにもわかった。
少女の目はさらに見開かれて、今度は体をわなわなと震わせた。
トオルを見いた目がキラキラと輝く始め、光の粒は急速に膨らんで雫になり、すぐにボロボロと目元からこぼれ出した。少女の突然の涙に、当然トオルは驚いた。
「私、そんな……ご、ごめん、なさい。ごめ、……さい、」
少女は突然手のひらで顔を覆ってしまうと、何度も何度もそう言い続けた。
「ちょっ、えっ、ええっ?! いや、別にキミは悪くないって。ぜんぜん謝らなくてもいいんだよ!」
「ちが……ご、ご、……ごめ、ごめんなっ」
何度も、何度も、何度も。
彼女は顔をおさえたまま、必死になって何度もトオルに謝っていた。途中から嗚咽のせいで言葉にならなくなったが、それでも頭を下げてなんとか謝罪しようとしている。
何を言っても、何をしても。
少女はずっと首を振ったままだ。
トオルはどうすることも出来なかった。慰めようにもなんといって声をかけたらいいかはわからなかったし、話しかけてもちっとも彼の声は届いていないようだった。
彼女はひたすらに頭を下げるばかりだ。
どうしたもんかな、とトオルは頭をかいてしまった。
第一、女子高生と話すのなんて、自分が高校生の頃以来だ。一体、なんて言って声をかけたらいいのかもわからない。