劣化した悪役令嬢ですが、なにか?
「ぬうっ……ぐぐぐぐ……ふんっ!」
とある辺境の伯爵邸。
正午前の眩しい日が差し込む部屋では、伯爵夫人ドロッセルとその侍女が格闘していた。
額に脂汗を浮かべながら柱に掴まるドロッセルの腰を、侍女がコルセットでギュウギュウと締め上げている。限界まで紐を引いたところで、侍女も汗を垂らしながら訴えた。
「奥様! もう限界です! これが精一杯ですって!」
「……もうちょっとだけ締められない? 息を止めてるから」
「無理ですよ! 倒れてしまったら元も子もないでしょう?」
いっそ倒れてしまいたいくらいだと思うが、夫を心配させたくはない。
ドロッセルは諦め、『限界』で妥協することにした。
◇
その昔、ドロッセルは悪役令嬢だった。
吊り上がった紫色の瞳に、つんと高い鼻。縦巻きの長い髪と唇は、どちらも燃えるような薔薇色で、白すぎる肌とのコントラストが人々に冷たい印象を与えていた。
侯爵家の令嬢としてちやほや育てられたため、我がままで気性が荒い。おまけに人遣いも金遣いも荒い。
元は公爵令息の婚約者だったが、こんなふうでは愛されないのも当然。激しい嫉妬心から、とある女性に危害を加えようとし、呆気なく婚約破棄されてしまったのだ。
運悪く、その女性は公爵令息の想い人というだけでなく一国の聖女であったため、国も看過できなかった。
本来ならば極刑レベルの大罪だが、侯爵令嬢という身分を考慮の上、ドロッセルは寂しい辺境の屋敷へ幽閉されることになったのだ。
辺境に送られる粗末な馬車の中で、ドロッセルはふと前世を思い出した。
自分は令和の日本を生きていた女性で、事故により若くして命を落としてしまったこと。
そして今いるここは、前世で読んでいたロマンス小説の世界で、さらに自分はその小説に登場する悪役令嬢だということに。
『悪役令嬢』
一言で言えば、清らかで愛らしいヒロインの引き立て役である。
読者のヘイトを集め、読者へカタルシスを与えるためだけの醜く憐れな存在だ。
なぜ幼い頃から、思っていることとは違うことを口にしてしまったのか。なぜわざわざ人に嫌われるような振る舞いをしてしまったのか。
目には見えない強制力が働いていたからだと、ドロッセルはやっと理解した。
──理解はしたが、納得はできなかった。
なぜヒロインが幸せになるためだけに、自分の人……キャラ権がこうも踏みにじられなければならないのかと。
元婚約者の公爵令息と結婚し幸せになったヒロインとは反対に、辺境の地で孤独な生涯を終える予定の悪役令嬢ドロッセル。
やってられるか! せめて田舎でスローライフくらい送ってやる! と一人意気込んでいた。
辺境の地に着いたドロッセルを迎えたのは、この地を治める若き男爵グレアムだった。
「長旅でお疲れでしょう。さあ、荷物をこちらへ。お部屋へご案内いたします」
犯罪者である自分を丁重にもてなしてくれる彼に、ドロッセルの傷ついた心は温かくなった。
ドロッセルが幽閉されることになった屋敷は、生まれ育った侯爵家とは比べものにならないほど粗末で狭かったが、想像していたよりもずっと快適で住み心地がよかった。
部屋は清潔で食事も美味しく、唯一出入りが許されている中庭も、庭師がこまめに手入れしていたため常に美しかった。
グレアムがドロッセルにあてがった五歳上の侍女は、どこか前世の姉に似た気立ての良い女性で、ドロッセルはすぐに心を開いた。
『こんなに可愛らしいお嬢様が悪女だなんて! みなさん見る目がないんですね。お金に目がない私の方が、よっぽど悪女ですよ』
と口ぐせのように明るく言っては、心に傷を負ったドロッセルを和ませていた。
国から罪人の管理を任されたグレアムも、侍女と同じく、なぜ愛らしいこの少女が悪女などと呼ばれていたのか理解できなかった。
『相当酷かったので仕方ないですよ』と笑うドロッセルはどこか悲しく、次第にグレアムは彼女に惹かれていった。
そのうちグレアムは、国から支給される罪人の生活費ではなく、自身の金でドロッセルに贈り物をするようになった。
楽器や裁縫箱、絵を描く道具に、銀細工の美しい髪飾り。
やがてそれらが狭い屋敷を埋め尽くした頃、グレアムはドロッセルに愛を伝え、ドロッセルは悩んだ末にそれに応えた。
万一ドロッセルが再度罪を犯した場合は、グレアムが全責任を負うことを条件に、国は二人の結婚を認めた。
ドロッセル二十歳、グレアム二十七歳の暖かな春の日、二人は身内と使用人だけのささやかな式を挙げた。
二人の結婚生活は穏やかで優しかった。
夫婦の仲は睦まじく、十五年が経った現在では、五人の子宝に恵まれていた。
また、グレアムは男爵から伯爵へと陞爵していた。夫婦で品種改良を重ねた作物が、異常気象による国の食糧難を救ったためである。
一方ドロッセルは、結婚当初は『悪女』と眉をひそめられていたものの、そのうち彼女本来の知性や思慮深さが認められ、今では有能な伯爵夫人として社交界でも歓迎されていた。
何もかもが順調で、幸せに暮らしていたある日──
突然届いた一通の手紙に、平穏だったドロッセルの心は大きく揺れ、乱れていた。
◇
コルセットを無理やり締めた身体の上に、本来の体型よりも一回り小さいドレスを被る。
少しは細く見えるかしらと鏡に全身を映してみるが、『悪役令嬢』だった頃とはかけ離れた自分の姿に、ドロッセルの口からはため息が漏れた。
五度の出産を経て、ドロッセルの体型は大きく変わってしまった。夫の片手で掴めてしまいそうだった細い腰は、今では両手でも掴みきれないほどふくよかだ。
さらに豊かな自然と、ストレスのない環境に身を置いていたことで、顔つきも顔の肉付きもすっかり変わってしまった。
吊り上がっていた紫色の瞳には、ぽてっとした瞼がのしかかり、つんと高かった鼻も以前より丸みを帯びている。縦巻きの長い髪と唇は、今でも燃えるような薔薇色を保ってはいるものの、白い二重顎が何ともふんわりとした印象を与えていた。
子どもを五人も産んだ、三十五歳の伯爵夫人。
老いも劣化も自然な姿だと思っているし、夫には変わらず愛されているため、普段は何も気にならなかった。
だが、今日は違う。
ドロッセルを引き立て役にしたヒロインと、ドロッセルを捨てた元婚約者が、夫婦でわざわざこの辺境の屋敷を訪れることになっているからだ。
田畑を視察し、一泊するだけの短い訪問。
しかし、ドロッセルは憂鬱だった。ヒロインと会ったら、また自分は引き立て役の悪女に戻ってしまうのではないか。最愛の夫までヒロインに惹かれてしまったらどうしようと。
運動と食事制限で何とか三キロは体重を落としたものの、見た目はほとんど変わらない。せめて少しでも綺麗に着飾ろうと、こうして汗を流しながら支度を整えているうちに、客が到着してしまった。
──十七年ぶりに会ったヒロインのアマラは、昔と全く変わらなかった。
サラサラの金髪に蜂蜜色の大きな瞳。身体は華奢なのに、ふっくらした桃色の頬にはえくぼが浮かぶ。十七歳の少女だった時と同じ、愛らしく瑞々しい美貌に、ドロッセルは息を呑んだ。
そんなアマラと並ぶ、現在は公爵となったかつての婚約者ジルは、年相応に成長していた。端正な顔立ちはそのままに、切れ長の目尻には小じわが浮かび、頬もやや痩けている。さらには少し出始めた腹が、親しみやすい中年の雰囲気を醸し出していた。
当たり障りのない挨拶を交わしたアマラとは反対に、元婚約者ジルは、ドロッセルの頭から爪先までを無遠慮に見て、ぽつりと言った。
「君は……その、ずい分丸くなったな」
再会して早々の失礼な発言に、ドロッセルは言葉を失う。そんな彼女のふくよかな手を、グレアムはギュッと握り締め言った。
「はい。丸くて優しい自慢の妻です。初めて出会った時からずっと」
にこりと微笑むグレアムだが、筋肉質なその巨体からは、妻を傷付けたら許さないという無言の圧が発せられている。
ジルはたじろぎ、ひきつった顔で微笑み返すことしかできなかった。
ドロッセルが丁寧に整えたお茶の席に、二組の夫婦は向かい合う。
テーブルに飾られた季節の花を見て、蜂蜜色の瞳を輝かせるアマラを、ドロッセルは複雑な気持ちで眺めていた。
(本当に、彼女だけ時が止まっているみたい。ヒロインは歳を取らないって本当なのね)
そう思えば、ドロッセルの不安は更に募る。いつまた強制力が働いて、ドロッセルが引き立て役な悪女に戻されるかわからないからだ。
今のところは、口が勝手に嫌味を言ったり、身体が勝手に失礼な態度を取ることはない。今の暮らしは小説のストーリーとは全く関係ないため、強制力など働かないはず、と信じたいが──
ヒロインがいかに恐ろしい存在であるかを誰よりも知っているドロッセルは、不安で堪らなかった。
アマラは紅茶に角砂糖をたっぷり落とし、こくりと飲むと、愛らしいえくぼを両頬に浮かべドロッセルに話し掛けた。
「今日はお子様はいらっしゃらないのですか?」
「はい。夫の親戚の家に遊びに行っておりまして」
「そうですか。お会いしたかったのに、残念ですわ。きっとお二人に似て、可愛いお子様たちなのでしょうね」
「ええ」と愛想笑いを浮かべることしかできない妻に代わり、グレアムはよそ行きの笑みを浮かべ答えた。
「そう仰っていただけて光栄です。またいつか」
ドロッセルを辺境送りにした張本人らに、大切な子どもたちを会わせるわけにはいかない。悪い影響を及ぼす恐れがあるから──
というのが、グレアムの考えだった。
前世のことは何も話していないのに、こうしていつも自分を気遣い守ってくれる夫に、ドロッセルは心から感謝していた。
アマラはまた一口紅茶を飲むと、ドロッセルをじっと見つめ、桃色の唇を開いた。
「さきほど夫も申しておりましたが、ドロッセル様は本当に雰囲気が変わられましたこと。なんというか……あ、『田舎のお母ちゃん』みたいな?」
『田舎のお母ちゃん』
今の自分にあまりにもしっくりくる言葉に、ドロッセルは思わず頷いてしまう。
頷いてしまった後で、はっと気を引き締め、真意を探ろうとアマラの瞳を見つめた。
キラキラと輝く蜂蜜色は一見無邪気だが、よくよく見れば、その奥には成熟した三十四歳の女性の表情がある。
ヒロインにもちゃんと年月は流れているのねと気付いたドロッセルは、少し緊張がほぐれ、薔薇色の唇をニマッと開いた。
「そうでしょう? 今では五人の子のお母ちゃんですから。ここは空気も食べ物も美味しいし、旦那様が甘やかしてくださるので、お腹もすっかりこんなふうに」
コルセットに押し込んだ腹をポンと叩いてみせるドロッセルに、アマラはくすりと笑った。
「まあ本当。赤ちゃんが入っているみたい」
食べ物と脂肪しか入ってないわ! とドロッセルがつっこむ前に、グレアムがにこやかに応じた。
「そうだといいなあ。僕は妻との子なら、何人でもほしいくらいですから。どの子も、妻によく似ていてとっても可愛いんです」
そう言いながら、隣の妻に愛しげな眼差しを向けるグレアム。ドロッセルは頬を赤らめつつ、まだヒロインの強制力は働いていないようねとホッとしていた。
激甘な紅茶よりも甘い雰囲気が漂う夫婦に、アマラは一瞬面白くなさそうな顔をするも、すぐに愛らしい笑みを作り、攻めの態勢を取る。
「それにしても、伯爵様はずい分お若く見えますわね。確かドロッセル様より七つ上だと伺っていますが。同い年……いえ、まるで姉さん女房のように見えますわ」
『姉さん女房』
確かに! うちの旦那様は若く見えるのよねと、ドロッセルは頷いてしまう。
暗に妻の方が老けていると言われたにもかかわらず、ドロッセルは意気揚々と語り出した。
「ええ、そうなのですよ。うちの旦那様は、童顔なのに背が高くて筋肉質で。自然に囲まれて暮らしているからかしら。いつまでも若々しくて素敵でしょう?」
隣の夫に愛しげな眼差しを向けるドロッセル。グレアムも「君が若くて可愛いから、僕も自然と若くなるんだよ」と、嬉しそうに微笑んだ。
完全に二人の世界に入った夫婦に、アマラは今度こそハッキリと顔をしかめる。
隣に座る夫ジルの、「止めておけ」という視線にも気付かず、とうとうヒロインらしからぬ暴言を吐いてしまった。
「ドロッセルのどこが可愛いのよ! ただの劣化した悪役令嬢じゃない! ……ほら、ドロッセル。今の私を見てどう思う? 紅茶にこんなにお砂糖を入れても太らないし、お肌も艶々で、皺もシミも一つもないでしょう? あなたなんかより、ずっとずっと綺麗でしょう!?」
──静まり返った食堂に、小鳥の鳴き声だけがピチチと響く。
妻を守ろうと戦闘態勢になるグレアムを制し、ドロッセルは穏やかに応えた。
「そうね。あなたはとっても綺麗だわ。昔と変わらず華奢で、お肌もむきたてのゆで卵みたいで、本当に本当に綺麗。……あなたの言う通り、私はただの太ったおばさんで、田舎のお母ちゃんで、姉さん女房みたいよ。気絶しそうなくらいコルセットを締めてもこんなふうなんだから、嫌になっちゃう」
ドロッセルはふくよかな手で、またポンと腹を叩く。グレアムはその手を優しく取ると、アマラに向かい厳しい顔で言った。
「私にとっては妻より可愛い女性などいませんよ。命がけで私の子を産んでくれた身体も、明るい笑顔も、全てが愛おしいんです。……ここへ来たばかりの時の妻は、少し心に触れただけで泣いてしまいそうでしたから」
ふと向けられたグレアムの鋭い視線に、元婚約者のジルは苦い顔をする。
グレアムは、何も言えずに俯くアマラに視線を戻し、さらに続けた。
「それに私は、若いと言われるよりも、自分の顔に皺やシミを見つけた方が嬉しくなるのです。妻と一緒に長い年月を過ごしたんだ、一緒に歳を重ねているんだって。『劣化』ではなく、『進化』ですから」
ね? と同意を求めるように微笑みかけるグレアムに、ドロッセルは涙目でぶんぶん頷く。
(何も心配することはなかったわ。私たちが築いてきた、私たちだけの物語には、美魔女なヒロインも強制力も敵わないのね)
「うっ……うわああああん!!」
またまた二人の世界に入りかけた夫婦を、甲高い泣き声が引き戻す。向かいを見れば、アマラが愛らしい顔をぐしゃぐしゃにして泣き叫んでいた。
一体どうしたのかと固まる三人に、アマラは声を張り上げた。
「わたっ、私も歳を取りたい! ジル様と一緒にっ、歳を取りたいっ! なのにっ、なんでずっと若いままなのっ? なんでっ、子どもができないの? ドロッセルがっ、羨ましいっ! 私もっ、私もヒロインじゃなくて悪役令嬢がよかったっ! うわあああん……」
アマラはテーブルに突っ伏して泣きじゃくる。
おろおろしながらも伸ばされたジルの手を払いのけ、天板が水浸しになるまで肩を震わせていた。
──一時間後。
泣き疲れたアマラはドロッセルの部屋にいた。
腫れた目に氷嚢を載せられ、ソファに大人しく横になっている。
ドロッセルはアマラの前にしゃがむと、氷嚢をどかしてアマラの瞼を覗き込んだ。
「うーん、もう少し冷やした方がいいかもね。可愛いお目めが開かなくなっちゃう」
「……子ども扱いしないでよ。もう三十四なんだから」
「ごめんなさいね。末の子も、ダダをこねてよく泣くものだからつい。……それにしても驚いたわ。まさかあなたも同じ転生者だったなんて。田舎のお母ちゃんに姉さん女房。どうりで懐かしい言葉のわけだわ」
「私も驚いたわ。まさか悪役令嬢も転生者だったなんて。辺境の地で孤独死ルートのはずなのに、結婚して幸せに暮らしていると聞いて、変だなとは思っていたけれど」
互いの話によると、ドロッセルが辺境送りの馬車で前世の記憶を取り戻したタイミングで、アマラも前世を思い出したらしい。
アマラも同じく、令和の日本で暮らしていた、そこそこ年輩の女性だったという。
公爵令息ジルと真実の愛で結ばれ、夫婦になる。小説通りのそんなハッピーエンドを迎えたものの、アマラはずっと違和感を抱いていた。それは、自分をまとう時だけが、永遠に止まってしまったような奇妙な感覚だった。
夫は歳を重ねていくのに、妻の自分は少女の見た目のまま止まっている。どんなに望んでも子は授からず、その理由もわからない。
自分を置き去りに、周りの時だけがどんどん過ぎていく恐怖が、アマラを苦しめていた。
ハッピーエンドから十七年が経った今、アマラは悪役令嬢ドロッセルに会いたい一心で、夫に頼み込み視察に同行した。
小説とは違うストーリーを歩んでいるドロッセルに会えば、自分の時も動き出す気がしたからだ。
「……ごめんなさい。あんな酷いこと、言うつもりじゃなかったの。でも、たくさんの子どもに恵まれて、旦那様と仲良く歳を重ねているあなたが、すごく羨ましくなっちゃって」
赤い目からまた涙をこぼすアマラに、ドロッセルはくすりと笑う。
「もういいわよ。おかげで自信が持てたもの。私たち夫婦は、小説の強制力なんかに壊されることはないって。……ほんとはね、私、あなたが来ると聞いてすごく怖かったの。この幸せが突然壊れてしまうんじゃないかって。でも、怖いのは私だけじゃなかったのね」
うんうんと頷くたびに溢れるアマラの涙を、ドロッセルは優しく拭う。
「ジル様はあなたを大切にしてくださるのでしょう?」
「ええ。だから余計につらいの。公爵家に跡継ぎを遺せないし、ジル様が先に死んでしまっても、私は一生追い付けないんじゃないかって」
いつの間にか、ドロッセルの瞳からも涙が溢れていた。
もしも歳を取らない自分を置いて、グレアム様が先に旅立ってしまったら、どんなに寂しく恐ろしいだろうと。
二人は抱き合い、子どものようにわんわん泣いた。
やがて、少し落ち着くと、アマラはおずおずと口を開いた。
「……ねえ、ドロッセル。私、しばらくここにいてはダメ? もっともっと、あなたといろいろな話をしたいわ。ジル様は明日には帰らなければいけないけれど、私は二週間後の祈りの日まではお仕事がないから」
「ええ、もちろんよ。私ももっとあなたと話がしたいわ。炊き立てのお米で、美味しいおにぎりも作ってあげたいし」
「おにぎり!?」
腫れぼったい顔をパッと輝かせるアマラに、ドロッセルも同じ顔でふふっと笑った。
辺境の伯爵邸に滞在することになったアマラは、豊かな自然の中、ドロッセルたちの温かなもてなしを受けて、穏やかな時を過ごしていた。
親戚の家に預けていた子どもたちが帰ってきても、夫婦が心配していたようなことは何も起こらなかった。前世ではベテラン保育士だったというアマラは、すぐに子どもたちと仲良くなり、楽しそうに遊んだり世話をしてくれたのである。
伯爵邸で過ごすうち、アマラの顔は徐々に変化していった。
少女から大人の女性へ、大人の女性から中年女性の入り口へ。愛らしさはそのままに、成熟した内面が滲み出てきた。
瞼の膨らみも小じわもないが、蜂蜜色の瞳の下には、薄いクマができている。金髪の中からひょっこりと現れた白髪にも、アマラは感動し泣いて喜んだ。
わーいとおにぎりを十個も食べるアマラを見て、ドロッセルは口を尖らせる。
「羨ましい体型ね。三十四のくせに、そんなに食べても太らないなんて」
「あら、あなたの体型だって素敵じゃない。太っているんじゃなくて、グラマーって言うのよ」
「物は言い様ね」
「そうよ。もう若くないんだから、胸を張って図々しく生きなきゃ。劣化じゃなくて進化でしょ?」
「……さすがヒロイン。なんか胸に響いたわ」
進化したかつてのヒロインと悪役令嬢は、目を合わせ逞しく笑う。
大きなおにぎりで乾杯すると、がぶりと頬張り、遠い前世に思いを馳せた。
一週間後、妻を迎えに再び伯爵邸にやって来たジルは、進化したアマラの姿を見て驚いた。
「アマラ……! なんだか、変わったね」
「ええ。ドロッセルたちと楽しく過ごしていたら、やっと時が追い付いたの。……ねえ、どう? 変じゃない? 大人の私」
「すごく素敵だよ。言葉にならないくらい……すごく。僕たち、一緒に歳を重ねていけるんだね」
「ええ、そうよ。一緒に進化していきましょう」
泣きながらひしと抱き合う二人を、グレアムとドロッセル夫婦は温かい目で見守る。
しばらくして、ジルはドロッセルへ向き合うと、深く頭を下げた。
「妻を預かってくださりありがとうございました。あと……昔、あなたをあんなふうに婚約破棄してしまったこと。今では本当に申し訳なく思っています」
「ああ、いいんですよ。強制力のせいですから」
強制力? と首を傾げるジルに、ドロッセルとアマラは悪戯っぽい視線を交わす。
「あと、先日あなたと再会した時も、失礼なことを言ってしまい申し訳ありませんでした」
「先日? ……ああ! それもいいですよ。本当に丸いんですから」
「いえ! そういう意味で丸いと言ったわけではないのです。昔と比べて、表情や雰囲気が柔らかくなったなと思って。……うまく伝えられずに、不快な気持ちにさせてしまってすみません」
するとグレアムは、ドロッセルの肩をぐいと引き寄せ、自慢気に言った。
「こんなに素晴らしい女性を手放すなんて、あなたは実に惜しいことをしましたね。まあ、おかげで私は妻に出逢えましたから。こちらこそ、婚約破棄してくださってありがとうございます」
その言葉に、ジルはやっと、憂いを帯びた顔で笑うことができた。
「アマラ! また遊びに来てね!」
「ええ! あなたもね、ドロッセル。おちびちゃんたちもね!」
去り行く馬車が見えなくなるまで、ドロッセルと子どもたちは手を振る。
しんと澄んだ青空の下、グレアムは妻のふくよかな肩を抱き寄せ、ぽつりと呟いた。
「ああ……怖かった」
「何がです?」
「君がまた、公爵を好きになってしまったらどうしようって。ったく、何で今さらあんなカッコよく謝るんだよ。どうせならずっと嫌な男でいろよ」
ドロッセルは肉厚の瞼をパチリと開き、ほんのり赤い夫の童顔を見つめる。
少女時代のように柔らかな恋心をくすぐられ、薔薇色の唇にはふわっと笑みがこぼれた。
「まさか! あり得ませんよ。私がときめくのは、一生グレアム様だけです。しわくちゃのおばあちゃんになってもね」
こてんともたれかかる薔薇色の頭に、グレアムはチュッと唇を落とした。
二組の夫婦が、愛と向き合ってから三カ月後──
王都の公爵邸からは、嬉しい知らせが届いた。
ドロッセルは嬉し泣きし、大切な親友とその赤ちゃんのための贈り物を、せっせと考えるのだった。
ありがとうございました。




