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『勇者のいる世界①』




 ひやりと冷たい風が肌を撫でる。

 どうやら新しい世界へと降り立ったようだ。


 私は軽く深呼吸をし、刺激臭がしないことに感嘆しつつ、ゆっくりと目を開いた。


 同時に、飛び込んできた景色が視界を白一色へと染め上げる。


「これはこれは」


 雪が一面に降り積もる森の中に私はぽつりと立っていた。


 それ以上でも、以下でもない。

 四方八方、どこに目を向けても雪と禿げ散らかした木々しか得られる情報がない。


 生き物の影も見当たらず、目印となる指標もない。


「あはは」


 どう考えても、遭難確定である。


 もはや笑わずにはいられなかった。

 今から私は、方向感覚を狂わせる変わり映えのしない雪景の中を、あてもなく歩く事になる。


 その苦労を想像するだけでも骨が折れるというもの。

 溜息と共に口から漏れる白い息が宙に溶け込んでゆく。


「寒いな」


 呟いて、私は作業服のファスナーを首元まで閉める。


 幸い、この白を基調とした作業服は特殊な生地が使用されていて、熱気に触れると冷気を放ち、冷気に触れると熱気を放つという不思議な植物が原料らしい。


 その特性が活かされているため、防寒防熱には優れている。過去の異世界で入手したアイテムである。


 でも結局のところ、顔や手といった露出している部分の寒さはどうにもならない。


 限界が来る前に、拠点を展開できそうなスペースを探そう。


 早々に行動へと移すことに決めた私は頭のゴーグルを目に装着し、雪の感触を確かめながら一歩二歩と前進する。


 行先は……適当だ。

 自分の第六感に対する信頼など欠片もないが、この状況では気の向くままに歩くしかない。


 新しい世界の生態でも観察しながら、運動不足の解消も兼ねて、散策を楽しむとしよう。


 数々の苦難を乗り越えてきた私にとっては、丁度いいスパイスである。




 ――それからどれくらいの距離を歩いただろうか。


 ズボシャッ。


 鈍い音を奏でる五度目の転倒をきっかけに、私の精神は限界を迎えた。


「なぁー!!!」


 どうなっているんだ、この森は。

 いくら歩いても目新しい生態は一つもない。

 ひたすらに木と木と木と雪。


 疲労も蓄積し、足がもつれて転んでばかりだ。

 私は何回、雪の上に全身を(かたど)ればいいのだ。


 せめて面白いものでも見つかれば、疲れも忘れて楽しめると思ったが、見立てが甘かった。


 膝を立てて起き上がろうとするも、立つ気力が沸かず、そのまま反転して仰向けに倒れた。


 それから乱れた呼吸を整えつつ、ゆっくりと目を閉じる。


 ダメだ、少しだけ休憩しよう。


 身体が火照っているからか、顔にかかる雪の結晶がひんやりと心地いい。


 いっそ、このまま寝てしまいたくなる。


 目を閉じたことで、研ぎ澄まされた聴覚が様々な音を拾う。


 自分の息遣い、心音、風の音、枝から落ちる雪、人が駆ける足音、獣の唸り声。


 静かな森だと思っていたが、こうしていると存外に色んな音が……ん?


 あまりの疲労で脳内処理に遅延が発生し、三拍置いてから私は飛び起きる。


「変化だ!!」


 状況が変わる喜びが私の表情を晴れやかにする。

 ずっと同じ景色に飽き飽きしていた。損得は二の次。

 不変ほどつまらないものはないのだ。


 私はすぐに音がした方へと足早に駆ける。そんなに離れた距離ではなかったように思う。


「恐らく、この辺に」


 ――居た。


 大きな木に背中を預け、身を潜めながら様子を窺う。


 まだ少し距離があって、よく見えないな。


 私はゴーグルの側面に付属するダイヤルを回し、調整しながら視界をズームさせる。


 あれは……子供か? 


 子供の首に、尻尾が二つある狼のような獣が喰らいついている。


 抵抗する様子はなく、されるがままだ。

 あれはもう、手遅れかもしれない。


 私は腰に巻いてあるポーチから一本の発煙筒を取り出した。


 危険からの緊急脱出用として私が開発したものだ。

 ものの数分だが、広範囲に煙幕を張る機能がある。


 ただ、今は逃げるためにこれを手にしたわけではない。

 これは武器にもなるのだ。


 手に握る発煙筒をじっと見つめ、私は苦い顔を浮かべる。


 武器にする予定ではなかったが、結果として武器にもなってしまった欠陥品。


 この発煙筒は……絶望的なまでに臭いのである。

 それは鼻が曲がるどころの話ではない。(ねじ)れてうねって弾けるレベルの悪臭だ。


 取り分けて、鼻が利く相手への効果は絶大と言える。

 あの造形の獣で鼻が利かないタイプはいないだろう。


 獣は子供へと噛みつくのに夢中でこちらに気付く様子はない。


 私は慎重に投擲が届く距離まで木々を経由しながら、目標へと近づいてゆく。


 ここなら届くだろうか。


 十分に近づいたところで、発煙筒の起動スイッチに手をかける。


 その時に一瞬の躊躇いが生まれるが、意を決して起動、獣がいる方へと投げつけた。


 そして……私は走る。

 放物線を描く発煙筒の行く末には目もくれず、風上へと全力で。


 煙幕の発動には若干のラグがある。その間に可能な限り遠くへ離れるのだ。


 きっと、この時の私は人生で一番全力だったかもしれない。


 いくらか走ったところで振り返ると、深い緑色の煙が森一帯を覆っていた。


 煙が完全になくなるまでは少々の時間が掛かりそうである。


 木を背もたれに、座って待つとしよう。


 それからしばらく、かじかんだ指先の感覚が鈍る頃に、ようやく煙が晴れてくる。


 晴れたと言っても悪臭の余韻があるため、近づきたくはないのだが、致し方あるまい。

 

 重い腰を上げ、鼻と口を手で囲いながら先の方向へと歩みを進める。


 幾分かして、遠目に子供の亡骸が確認できた。獣も近くに倒れている。


 どうやら無力化に成功したらしい。


 更に手の届く距離まで近づいた私は、まず倒れている獣の様子を窺った。

 起き上がられても困るからね。


 ……うん、でも触診するまでもない。獣は絶命しているようだった。


 もう顔が死んでいる。恐らくはショック死だろう。気持ちは分かるよ。


 安らかに眠ってくれ。


 獣に手を合わせた私は、続けて子供の亡骸を供養しようと振り返る。


 ゴーグルを頭の定位置に戻し、じっくりと観察。


 まだ十歳前後に見える。少々華奢だが、金髪の可愛らしい少年である。

 どうして一人、こんな森の中に居たのかは気になるが、死人に語る口はない。


 あれだけ無防備に首元を噛み付かれていては流石に……流石に……おや?


 違和感を覚えた私は少年の首元に手をあてる。

 首に一切の傷がない……どころか、脈はあるし、息もある。


 ――生きている。


 確かに首元を噛まれていたはずだが。

 生存を確認した私は少年の頬をペチペチと叩いた。


「う……」

 

 夢見が悪そうな表情で唸るだけで、起きる気配は感じられない。


 考えてみると、彼が生きていたという事は、発煙筒の餌食になったという事だ。


 気絶の原因がアレであるならば、当分は目を覚まさないかもしれない。


 すまなかった。


 心の中で謝罪の言葉を唱える。


 うん……よし。


「じゃあ行こうか!」


 言葉尻に合わせて手をパンっと叩いた私は、力なく倒れている少年を背負い上げた。


 悪いとは思っている。でもそれはそれ、これはこれ。


 起きるまで待っている暇はない。

 せっかくこの子が残してくれた痕跡(こんせき)を利用しない手はないのだ。


 森の奥まで続く少年と獣の足跡を目でなぞる。

 これを辿れば、何か面白いものがあるかもしれない。


 もはや、心を占拠する感情は好奇心だった。

 さっきまでの疲労感が嘘のように軽くなる。


 私に新しい変化を見せてくれ!!

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