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熱いココアと、帰れる場所

作者: 星渡リン

 最強寒波、という言葉はニュースの中だけの大げさな表現だと思っていた。

 けれどビルの裏口から外へ出た瞬間、それはただの単語じゃなく、頬を刺す現実になった。


 風が、鋭い。

 冷たいというより、細い針が顔じゅうに当たっているみたいだった。マフラーの隙間から入り込んでくる空気が、喉の奥を乾かす。息を吸うたびに胸が少し痛い。白い息が、思考の先に先に逃げていく。


 今日一日の疲れは、いつもより重かった。

 仕事の量が多い日だったわけじゃない。怒鳴られたわけでもない。それでも、ずっと心が擦れていた。会議での沈黙、言い直した言葉、返ってこなかった相槌。誰も責めていないのに、気づくと自分が自分を責めている。


 きちんとやらなきゃ。

 ちゃんとしなきゃ。

 将来のために。

 評価のために。

 生活のために。


 その「ために」が、凍った歩道みたいに滑る。

 踏み外したら終わりだと思っているほど、足元が頼りなくなる。


 駅までの道は短いはずだった。

 いつもは十分快い距離なのに、今日は倍くらいある気がする。信号の赤が長く、風の音が大きく、私の足音だけがやたらと響く。


 ポケットに手を入れる。指先がすでに感覚を失いかけている。

 スマホの画面を確認したいのに、手袋を外す勇気がない。外した瞬間、冷たさが皮膚の奥まで入ってきて、今の私を折りそうだった。


 駅のホームに立つと、寒さはさらに濃くなる。

 屋根があるのに風は抜ける。背中から、首から、コートの隙間という隙間に冷気が入り込む。私は肩をすぼめて、息を吐いた。白い息が、ホームの照明に浮かび上がって、すぐに消える。


 たぶん、私もこんなふうに消えたら楽だろうな。

 そう思うのが怖くて、私は視線を落とした。


 電車が来る。ブレーキの音が金属みたいに鳴る。

 ドアが開いて、暖かい空気が流れてくる。私はその暖かさに吸い込まれるように乗り込んだ。座れるほど空いてはいなかったけれど、立っていられるだけでありがたい。


 車内の暖房は、すぐには心まで温めてくれない。

 身体だけが温まりかけて、心がまだ外に置き去りのまま。だから私は、暖かいのに寒い。


 窓に映った自分の顔が、知らない人みたいに見えた。

 目の下に薄い影があって、口角が下がっていて、何かを我慢している顔。

 私は、その顔に「お疲れ」と言ってやる代わりに、目をそらした。


 最寄り駅に着いて、改札を出る。

 風がまた刺す。

 駅前のイルミネーションが、やけにきれいで、やけに冷たい。きれいなものほど、手で触れられない距離にある。


 家までの道を歩きながら、私はふと足を止めた。

 コンビニの明かりが、雪のない夜を明るく照らしていた。


 このまま、まっすぐ帰るのがしんどい。

 帰れば暖房がある。布団がある。

 それなのに、帰るという行為が重い。


 誰かが待っているわけじゃない。

 ただ、ひとりの部屋があるだけ。

 それが、今日の私には少し広すぎる。


 コンビニの扉が開いたときの、鈴みたいな音。

 その音が、私の中の緊張を少しほどいた。


 中は明るくて、暖かい。

 レジの奥から電子レンジの音が聞こえる。商品棚の間を誰かが歩く音。

 生活の音がしていた。家の音じゃないのに、なぜか安心する。


 私は飲み物コーナーへ向かった。

 温かい飲み物を買って帰ろう。そう思っただけで、少しだけ前向きになれる気がした。


 棚に並んだ缶コーヒー、ミルクティー、抹茶ラテ、スープ。

 どれでもいいはずなのに、選べない。


 迷う理由が分からない。

 だけど私は、棚を前に立ち尽くしてしまった。


 どれでもいい。

 どれもいらない。

 そんな気持ちが、同じ場所で揺れている。


 ふと、端の方に「ココア」という文字が見えた。

 子どもの頃の飲み物。受験前夜に母が作ってくれた飲み物。風邪をひいたときに喉に流し込んだ飲み物。

 いつ以来だろう。自分で買ったことがあるだろうか。


 私はその缶を手に取った。

 手袋越しでも分かる、冷たい金属の感触。


 温かいのが飲みたいのに、冷たい缶を握っている。

 そのちぐはぐさが、今の自分に似ている気がした。


 私は温かい飲み物の棚へ移動し、同じ「ココア」を探した。

 あった。温蔵棚の中で、微かに湯気が立つほどの熱を持った一本。


 それを取り出した瞬間、掌がほっとした。

 温かい。ちゃんと温かい。


 レジに向かう。

 店員さんは若い女性で、髪をきれいにまとめていた。

 バーコードを読み取るピッという音が、短く響く。


「温かいので、お気をつけくださいね」


 店員さんが言った。

 ただの定型文だ。誰にでも言う言葉だ。


 それなのに、胸の奥に落ちた。


 気をつけて。

 その言葉の中には、今日の私が忘れていたものが入っている気がした。

 “自分のことを守っていい”という許可。


「……ありがとうございます」


 私は小さく返した。

 店員さんはにこりと笑って、「いってらっしゃいませ」と言った。

 いってらっしゃい、ではなく、いってらっしゃいませ。

 それでも、聞こえ方は似ていた。


 外へ出る。

 風がまた頬を刺す。

 でも私は、さっきより少しだけ平気だった。


 熱い缶を両手で包む。

 掌にじんと熱が広がる。

 手のひらから入ってきた温度が、血を動かすみたいに、心の方へも流れていく。


 私は歩きながら、缶の蓋を開けた。プシュッと小さな音。

 その音は、何かが始まる合図みたいだった。


 一口飲む。

 甘い。

 甘さが喉を通って、胸の奥に落ちる。

 熱い。

 熱さが、今の私の凍った部分に触れて、ゆっくり溶かしていく。


 涙が出そうになった。

 泣くような出来事はなかった。

 でも、出そうになる。


 私は歩道の端で立ち止まり、息を吐いた。

 白い息が丸く出る。

 さっきの白い息より少しだけ、柔らかい形だった。


 ――帰ろう。


 そう思えた。

 頑張るためじゃない。未来のためじゃない。

 今日を終えるために。


 自分を救うために。


 家が近づく。

 マンションの外階段の金属は冷たく、手すりに触れると指先がきゅっと縮む。

 鍵を取り出すために手袋を外し、指先でポケットの中を探る。冷たさが刺さって、ほんの少し心が揺れる。


 鍵が見つからない。

 ポケットの布だけが指に触れる。

 焦りが来る。

 こんな時に限って――と、思いかけて、私は深呼吸をした。


 焦らない。

 いまは急がない。

 私は今日、誰にも追われていない。


 もう一度ポケットに指を入れる。

 鍵の硬い形が触れた。

 それだけでほっとする。


 廊下の灯りは、センサーで点いた。

 パッ、と小さな光が広がる。

 その瞬間、私は少しだけ救われた気がした。


 自分を照らしてくれるものが、ここにある。

 誰かじゃない。機械でもいい。

 暗いままじゃない、それだけでいい。


 部屋の前に立つ。

 鍵穴がうまく見えない。指先が冷たい。

 でも私は、ココアの缶を握っている。熱い。

 熱いものがあると、心も手も少し強くなれる。


 鍵を差し込み、回す。

 カチャリ、と小さな音。


 ドアを押し開けると、室内の空気が迎えてくれた。

 冷えている。外ほどではないけれど、ひとりの部屋はひとりの温度しか持っていない。

 それでも私は、玄関の明かりを点けた。


 パチ。

 電灯がつく。

 白い光が、部屋を満たす。


 その光が、言葉みたいに見えた。

 おかえり。

 うまくできなくてもいい。

 今日を終えていい。


 私は靴を脱いで、コートを脱いだ。

 コートの重さが肩から落ちる。

 マフラーを外す。首がすうっと軽くなる。

 手袋を外し、指を開く。

 ひとつひとつ、守りを外していく。戦いの鎧を脱ぐみたいに。


 誰にも見せないまま、私は今日を頑張っていた。

 頑張っていたことに、気づかないふりをして。


 リビングの奥へ進み、暖房のスイッチを入れる。

 ピッ、という音。

 その音が、静かな開始の音に聞こえた。

 戦いが始まる音じゃない。休むことが始まる音。


 私はテーブルに缶を置いた。

 コトン、と軽い音。

 音が小さいから、部屋が大きく感じる。


 でも、その大きさが少しだけ優しく見えた。

 何もない空間は、今の私を責める場所じゃなくて、休ませてくれる場所でもある。


 私はキッチンへ行き、マグカップを出した。

 蛇口をひねり、水を入れる。

 電子レンジで温める。

 チン、と短い音。


 ああ、そうだった。

 家は、音でできている。

 ひとりでも。

 誰かがいなくても。


 私はココアの缶を開け直し、マグカップに注いだ。

 甘い香りが立つ。

 湯気が上がって、視界が少し曇る。

 曇ると、不思議と目の奥も緩む。


 私はソファに座った。

 マグカップを両手で包む。

 指先に熱が戻る。

 掌が温まると、胸も少しだけ温まる。


 今日の失敗を思い出そうとした。

 会議で詰まった言葉。

 返ってこなかった相槌。

 曖昧な笑い。

 怖かった未来。


 思い出すたびに、胸の奥が冷える。

 けれど今は、すぐに凍りつかない。

 ココアの温度が、そこにいる。


 私は一口飲んだ。

 甘い。

 甘さは、逃げじゃない。

 甘さは、今日を抱きしめる方法だ。


 私は自分に言った。

 今日は、終えていい。

 すぐに立ち直らなくてもいい。

 明日の準備ができなくてもいい。

 今日は、ここまで。


 ふと、窓の外を見る。

 向かいのマンションの部屋に、ぽつぽつと灯りが点いている。

 同じように誰かが帰ってきて、靴を脱いで、コートを脱いでいるのかもしれない。

 ひとりかもしれない。誰かと一緒かもしれない。

 それぞれの灯りが、同じ寒さの中で同じように揺れている。


 私はその光を見ながら、もう一口飲んだ。

 胸の奥で、小さな何かがほどける。


 私は帰れる場所を持っている。

 正確には、帰れる“部屋”だ。


 でも今日、少しだけ分かった。

 帰れる場所は、場所だけじゃない。

 灯りの色。

 ココアの温度。

 「気をつけてくださいね」という一言。

 それらが重なって、“帰れる”という状態を作る。


 それなら、私は明日も帰れる。

 明日、うまくいかない日が来ても。

 明日、冷たい風が来ても。


 私は自分で灯りを点けられる。

 自分でココアを温められる。

 自分の手のひらを温められる。


 それはすごく小さなことだ。

 小さいけれど、確かなことだ。


 スマホが震えた。

 通知。ニュース。

 「最強寒波、明日も続く見込み」

 そんな文字が目に入る。


 私は画面を閉じた。

 明日の寒さは、明日の私が受け止める。

 今の私は、今の温度を守る。


 マグカップの底が見えた。

 飲み干してしまった。

 でも口の中にはまだ、甘さが残っている。


 私は立ち上がり、カーテンを少しだけ開けた。

 夜の空気は黒くて、冷たくて、遠い。

 でも部屋の灯りが窓に映り、内側の明るさを返してくれる。


 私はその灯りを見て、口元を少しだけ上げた。

 笑うほどじゃない。

 でも、崩れてはいない。


 明日はまた、外に出る。

 また、頬に冷たい風が刺さる。

 また、心が擦れる日もある。


 それでも、私は帰ってこられる。


 鍵の音。

 灯りの音。

 マグカップが置かれる音。


 そういう小さな音が、私の帰れる場所を作ってくれる。


 最後にもう一度だけ、私は自分に言った。

 今日を終えていい。


 そして、眠る前に玄関の方を振り返る。

 そこにはまだ、明かりが点いていた。

 誰もいないのに、誰かが迎えてくれているみたいに。


 熱いココアの温度は、もう喉の奥には残っていない。

 でも、帰れる場所の形は残った。


 寒い夜ほど、帰る理由は甘くていい。

 私はそう思いながら、部屋の灯りを少しだけ落とした。

 暗くしすぎない程度に。


 明日も、帰ってこられるように。

ここまで読んでくださり、ありがとうございました。

寒い夜は、外の寒さだけでなく、心の冷え方まで鮮明にしてしまいます。頑張っている人ほど、何も起きていないような顔で歩きながら、内側では静かに消耗している。そういう日ってありますよね。


“帰れる場所”は、誰かが待っている場所だけじゃなくて、自分が自分を責めるのをやめられる場所でもある。

今日を終えていい、と言える場所でもある。


もしこの物語を読んだあなたが、寒い夜の途中にいるなら。

温かい飲み物をひとつ。灯りをひとつ。

それだけで、十分に生き延びられます。

寒い夜ほど、帰る理由は甘くていい。

その甘さを、どうか自分に許してあげてください。

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