落日のベルンシュタイン、狂乱の暴動
王都の空は、いつからこんなにも澱んだ色をしていたのだろうか。
かつて「白亜の真珠」と称えられたベルンシュタイン王国の空は、抜けるような碧色を誇っていたはずだった。
だが今、エマ――本来のリリー姫――の瞳に映るのは、不吉な鈍色の雲と、街の随所から立ち上る焦げ臭い煙、そして人々の絶叫を孕んだ風だった。
私が「エマ」として各種業務をこなして数週間。
この国の地下に張り巡らされた魔力回路を指先でなぞるたび、私は吐き気を催すような悍ましさに襲われていた。精巧に隠されていた邪悪な術式の断片を繋ぎ合わせたとき、私はそれが「一朝一夕で築かれたものではない」ことを悟ったのだ。
それは、国を内側から腐らせ、崩壊させるための巨大な魔法陣。ご丁寧に、複雑に細工されて簡単には気付かないようにされている。
そしてその魔法陣に「負の感情」という名の膨大なエネルギーを供給しているのは、今まさに目の前で繰り広げられている、血を血で洗う対立だった。
長年守られてきた平和で美しい国が不穏な連中に侵食されるのはあっという間だった。
事の始まりは、大陸の向こう側で起きた戦乱から逃れてきた「難民」の受け入れだった。
当初、ベルンシュタイン国民は慈悲をもって彼らを迎え入れた。父である国王も、「困難にある者を救うのは、豊かな国の義務である」と宣言したはずだ。国民も納得していた。だが、その善意は、やがて取り返しのつかない摩擦を生んでいった。
街を歩けば、その変貌ぶりは一目瞭然だった。
かつて花屋や軽食の販売店が並んでいた通りは、今や身寄りのない移民たちがたむろする薄暗い雰囲気の路地と化している。彼らの国とは異なる宗教、異なる言語、そして「帰る国がない」という絶望。
当初は同情を寄せていた国民たちも、相次ぐ窃盗、ひったくり、さらには女性や子供を狙った暴行事件が頻発するに至り、その心は急速に冷え切っていった。
「見てなさいよ、あいつらの顔を。俺たちの税金で配給を受けているくせに、俺たちの店を荒らすんだ。このままじゃ、この国はあいつらに乗っ取られてしまう!」
「幼い娘がつきまとわれて怖かったって泣いていた!もう1人でお使いにも行かせられない。」
「街を綺麗に掃除したって、すぐに汚される!平気でゴミをそこらへんの道路へ捨てていくなんて信じられない」
「うちの嫁は病気になっちまって、治療させたいが医療費が高くて通院を諦めている。それなのに、あいつらはちょっとした症状でも当たり前のように治療している。難しい病気になったとしても気軽に最先端の治療を受けている!移民どもは医療費がかからない制度だからな!」
酒場の隅で交わされるのは、そんな呪詛に近い言葉ばかり。
忙しい日々の合間を縫って酒場での情報収集は欠かさず行っていたが、これは本当に自分の国の話なのかと疑いたくなるような状況だ。
実際、リリー自身街を歩いていても日を追うごとに状況が悪化しているのを実感した。
ここに住んでいる住民が恐怖と危機感を感じるのは当然だと思う。
いずれ、こうして夜に1人で酒場へ向かうことすら危なくなってしまうのだろうか。そうなると情報収集も難しくなってしまう。
既に移民の問題はベルンシュタイン国民の我慢の限度を超えてきている。
とある地区では元の住民と移民の比率が僅かに逆転してしまった。すると、じぶんたちの考えこそが正義と声高に主張するようになった移民達。
そこで、何が起きたか。元いた住民の住居や権利を奪って搾取しようとし、自分たちをさらに優遇するためのルールを決定しようとしたのだ。
当然、元の住民は大反発した。しかしそれも差別だと叫ぶ移民達。結局数では移民の方が多いので、元の住民に不利なルールが決まってしまったという。元いた住民は追いやられていった。
そうなると立場の悪化と治安を恐れた元の住民たちは他の地域へ逃げ出し、その空いた場所へ更に移民が住み着く。
治安はさらに深刻に崩壊していくという悪循環だった。
元の住民たちは「困っているだろうからと優しく受け入れ、できる限りの世話はした。恩を仇で返された。」「まさかこんなことになるとは。」「受け入れなんてしなければよかった、優しくなんてしなければよかった。」と口を揃えて言うが後の祭りだった。
そして、そんな事態をより悪化させていたのは、理解しがたい「国の動き」だった。
どうしても情勢が気になり、城の議事録の複写に目を通した私は、自分の目を疑った。
議会では、なぜか移民を優先的に保護し、彼らへの資金援助を拡大する一方で、元々暮らしていた国民の権利を制限するような法案が、次々と可決されていたのだ。
『移民に対する不快感の表明は、重大な差別罪に相当する』
『難民居住区の拡充のため、一部国民の土地を徴用できるものとする』
――あまりに異常だ。
父様や、大臣たちがこんな暴挙を許すはずがないのに。なんだかおかしい。
疑念が確信に変わったのは、ある重要な法案の採決だった。通常、国王の署名と採決が絶対に必要なはずの「国境警備の縮小案」が、王を通さず、議会の一部メンバーだけで強引に承認されてしまったのだ。
身内だからと過大評価する気は全くないが、国王である父親がこんなことをするはずがない。
父親譲りの性格が色濃く出ているリリーにはよく分かった。
「大変なことが起きている……誰かが、中枢を操っている」
私は震える手で資料を握りしめた。
どうしたものかとリリーにしては慎重に思案しているうちに国民の不満はついに沸点に達した。議会前では、何千人ものベルンシュタイン国民が集まり、シュプレヒコールを上げていた。
「俺たちの暮らしを守れ!」「法案を撤回しろ!」
だが、それに対する移民たちの反発も凄まじかった。
彼らは「差別をやめろ!」「我らには住む権利がある!」と叫び、衝突は激しさを増していく。その中心にいたのは、ある奇妙な教義を掲げる一団だった。
「異教徒は異端なり。この地を浄化し、我らの楽園を築くことこそ、神への献身である!」
彼らにとって、ベルンシュタインの文化も信仰も、すべては「正されるべき悪」でしかなかった。平和的な共存という仮面の下で、彼らは「侵略」という牙を研いでいたのだ。
彼らは声がでかい。自分たちを正義と信じて疑わないのか。はたまた、自分たちの主張は正しいとベルンシュタインの国民に知らしめるためのものなのか。
そして、運命の日がやってきた。
夕闇が迫る頃、第一門付近から凄まじい爆発音が響いた。
「聖戦だ!悪しき異端どもを駆逐せよ!」
野太い叫びを合図に、街の至る所で移民たちによる組織的な暴動が勃発した。
家や店は焼き払われ、略奪が横行する。逃げ惑う人々。ベルンシュタインの自警団や騎士団も応戦したが、彼らの動きには迷いがあった。議会が定めた「移民への武力行使禁止」という枷が、彼らの腕を縛っていたからだ。
「これ以上は、見ていられない……!」
私は服の裾を翻し、混乱の渦中へと飛び出した。
エマとしての立場を忘れ、私は両手を広げて魔力を練り上げる。
「――『天の盾』、展開!」
逃げ惑う母親と子供の背後に、巨大な半透明の防壁を構築する。移民たちの投げた火炎瓶がバリアに弾かれ、空中で霧散した。
(くっ、暴動が起きている箇所が多すぎる……!)
エマの体には膨大な魔力が眠っているが、今の私にはこの国を覆う「憎しみの連鎖」そのものを止める力はない。
あちこちで上がる悲鳴。燃える家々。
この襲撃は計画性を感じる。ということは、扇動している人が絶対に存在する。首謀者の移民を探さないと。それとやっぱり、国中に巡らされた魔法陣が無関係とは思えない。
私は必死に、首謀者の探知と、この事態を裏で操っている「邪悪な魔法陣」の解析を進めていた。
(あと少し……あと少しで、この暴動を扇動している根源が特定できる。そうすれば、元を絶てるのに!)
だが、現実は容赦ない。
次々と押し寄せる暴徒たち。彼らの瞳は異常なまでに充血し、瞳孔が開いている。よく見れば魔術的な「扇動」の影響下にある。
(ダメね、ここでいくら敵を押し返そうとも、根本的に原因を取り除かなければ意味がない。それに、集中したほうが解析スピードは格段に速い。今は、一度退いて……!)
私は強固な多重バリアを周囲に張り巡らせ、暴徒を物理的に押し返すと、裏路地へと身を隠した。
近くの空き家――避難して誰もいなくなった民家の一室に飛び込み、内側から鍵をかけ、床に崩れ落ちる。
まずは、この暴動の首謀者を特定しないと!
「……『探索』、開始」
私は集中した。
この暴動の波。人々の怒りを増幅させ、理性を取り払っている暴力的な魔力の「糸」は、一体どこへ繋がっているのか。
私の魔術が、目に見えない魔力の奔流を遡っていく。
――王都を抜け、豊かな森の側へ。
そこにあるのは、偽のリリーが「静養」しているはずの、離れの館。
「え……? どうして、あそこに?」
探知の光が、館の奥深く、最も豪華な寝所にいる「偽のリリー姫」に突き当たった。
「そんな……まさか……」
私は震える指で、さらに詳細な探知魔法を上書きした。
館で優雅に過ごしているはずの、私の姿をした女。その魂の「波動」を、深層まで読み解いていく。
「あなたは……誰なの?」
解析が進むにつれ、モニター代わりの魔法陣が、その正体を映し出す。
そこにいたのは、十九歳の可憐な少女などではなかった。
中身は、ベルンシュタインの宿敵である隣の国の人間。
しかも、隣国最強の魔道士と謳われ、数多の戦場を血で染めてきた非道なる魔術師――。魔術好きのリリーは当然、他国のハイレベルな魔術師たちの存在は把握していた。
「変身魔法……。それも、細胞レベルで自分を書き換える高等禁術……」
愕然とした。
彼は、私になりすますことで城の中枢に食い込み、洗脳魔法で議会を無力化し、移民問題を煽ることで国を内側から自壊させていたのだ。
移民たちの暴動は、単なる宗教対立でも不満の爆発でもなかった。この魔術師が、ベルンシュタインを滅ぼすための「駒」として、彼らを利用し、使い捨てにしようとしているのだ。
「……待って。この術式……」
私はハッとして、城壁内の地下で見つけた魔法陣の断片と、偽のリリーから放たれている魔力を比較した。
「……同じ。全部、この男が仕組んだことだったのね」
国を蝕む洗脳。
国民と移民を憎み合わせる扇動。
そして、いざとなれば国全体を戦禍に放り込む目的で移民を大量に送り込むための転移陣。
すべてがつながった。
すべてはこの魔術師の計略。
「許さない……。私の愛した国を、みんなの穏やかな生活を、こんな泥靴で踏みにじるなんて……!」
窓の外では、まだ街が燃えている。
けれど、リリーの翠色の瞳には、絶望ではなく、苛烈なまでの決意の炎が宿っていた。
エマの持つ強大な魔力。
王女リリーとしての誇りと知識。
今、その二つが完全に融合し、逆襲の時が告げられようとしていた。
「絶対に許さないから覚悟しなさい、隣国の魔術師。――貴方のすべてを灰にしてあげるわ」
最強と名高い魔術師を倒すにはこちらもきちんと魔法陣を展開しないと。
私は民家を飛び出し、夜の闇へと駆け出した。
まずは、この暴動の熱を鎮めるために。そして、あの館に座る化けの皮を、はがすために。




