第一章:混乱、混沌∣第1話:濁流の終着点、あるいは花冠の目覚め
その瞬間、視界のすべては、荒れ狂う土色の絶望に塗りつぶされた。
「――う、そ。冷た……っ」
肺の奥深くまで侵入してきたのは、透明感にあふれた美しく豊かな水などではなく、すべてを等しくすり潰さんとする泥と砂の暴力だった。
あまりに重く、あまりに無慈悲。
視界は茶褐色に濁り、もはや上下の感覚すら失われている。耳元で轟々と鳴り響くのは、理不尽に決壊した川の咆哮だ。それは、命を刈り取る死神の哄笑のようにも聞こえた。
私、リリー・オーガスタ・ベルンシュタインの19年の生涯は、あまりにも唐突な幕切れを迎えようとしていた。
本来ならば、19回目の生誕祭を祝う鐘の音が王都の空に高らかに響き渡る日を、あとわずかで迎えるはずだったのに。それなのに、なぜ私は、地方視察の途上で起きた「突然の川の氾濫」に、無様に木の葉のように弄ばれているのだろうか。
(お兄様……お父様……お母様……誰か……!)
愛する家族の顔が脳裏をよぎる。遠のく意識の中で、私は必死に祈った。けれど、冷酷な渦は容赦なく私を深淵へと引きずり込んでいく。
ベルンシュタインの至宝と謳われた王女リリーの意識は、そこでぷっつりと、糸が切れるように途切れた。
「…………あれ?」
頬を撫でる、柔らかな風の感触。耳に届くのは心地よいせせらぎの音。
蜜のように甘やかな香りが鼻腔をくすぐり、私はゆっくりと、ひどく重い瞼を持ち上げた。
そこには、信じられない光景が広がっていた。
視界の端から端まで、息を呑むほどに見事な花畑。
赤、白、黄、紫色。春の陽光をたっぷりと浴びて輝く花々は、神様が地上に宝石を撒き散らしたかのように、風に揺れてキラキラと瞬いている。
ついさっきまで泥水に飲まれ、死の淵にいたはずなのに、私の服はなぜか乾ききっていて、体も羽が生えたように軽い。
「……ついに、死んじゃったのかな。ここ、天国?」
ぽつりと独り言を漏らしながら、よろよろと立ち上がる。
その時、ふと視界の端に入った自分の格好に、私は雷に打たれたように凍り付いた。
「うわ……なにこれ!?」
見覚えのない、深い緑色のワンピースとこげ茶の革靴。
私が着ていたはずの、国一番の職人が仕立てたシンプルで上質な視察用ドレスの面影はどこにもない。
慌てて自分の体を確認する。はじめに目に映ったのは手だった。剣だこはあるものの全体的に白磁のように滑らかだった指先はどこへやら、節くれだってはいないけれど、執念深いペンだこや、小さな魔術の暴発を物語るような細かな火傷の跡が刻まれた「働く女性」の手になっていた。
「どういうこと……? 私、死んで別の人になったの……?」
状況が飲み込めず、心臓が早鐘を打つ。
混乱して立ち尽くしているところに、遠くから誰かが大声で叫びながら走ってくる。
「エマさーん!こんなところにいたんですね!早く馬車まで戻ってくださーい!」
え?私のこと?振り返って周囲を見ても他に誰もいない。やっぱり私を呼んでいるのだと理解する。ぼうっとしながら、呼ばれた方へと向かった。
揺れる馬車のなかで分かったのは、どうやら私のこの外見はエマという人物のものらしい。この日は仕事でつかう薬草を採りに野原に来ていたようだ。
あまりに突然なこの状況にパニックになりかけた私だったけれど、幸運なことに「体調不良」という名目で、まるまる一週間の休みをもらうことができた。
声をかけられたとき、私は草原を流れる川のほとりで虚脱状態だったらしく、周囲からは「急に体調を大きく崩してしまったのだろう」と、とても気の毒そうに見守られたのだ。
乗せられた馬車の中で質問攻めにあったが、うまく答えられずうつむき気味に苦笑いするしかなかったことも功を奏したらしい。
「質問に答えられないほど具合が悪いのですね」とすまなさそうにさせてしまったのは申し訳なかった。
一週間の休みの間に、私は自分のおかれた状況と向き合い、現実に折り合いをつけることにした。
医務官の診察後、車椅子で運ばれたエマの部屋で鏡に映っていたのは、金髪翠眼の姫リリーではなく、燃えるような赤髪を肩にギリギリかかるくらいの短さに切りそろえ一本の紐で無造作に束ねた、少し生意気にも見える気の強そうな16歳の女性――「エマ」だった。
エマは燃えるような赤色の癖っ毛に、どこか猫のような印象がするブラウンの瞳。
薄く小さな唇に、スッキリとした鼻立ち。
男の子っぽい顔の造りだが、よくみればバランスの整った顔をしていた。
普段からあまり手入れしていなかったのか、肌は少し乾いていた。
不思議だけど私の性格には本来の見た目よりも、エマの姿の方がしっくりくるのよね。
エマの顔立ち、好きだわ。
リリーは国で評判の美人だった。絹のように輝く金色の髪はサラサラと背中を流れ、パチリと大きなアーモンド型の目は新緑のような鮮やかな翠色。
ツンと上向きの鼻に、バランスの取れた儚げなピンクの唇。
小顔で華奢な姫は、微笑み手を数回振るだけで周囲を沸かせることができた。
外交の席ではおとなしく座っているだけで相手が勝手にのぼせ上がり、交渉が上手く運ぶこともあった。
リリーの見た目は花のように可憐で、天使のように美しかったが、その性格には難があった。
リリーを知る城の人間や学友たちは口を揃えて言う。
「ずっと静かに座っていればいいのに。」
リリーは破天荒でお転婆だった。
小さな頃からじっとしていられないタイプでそこら中を駆け回るのが好きだったし、イタズラも欠かさなかった。
馬術や魔法を覚えてからはお転婆ぶりに磨きがかかった。
剣術武術も得意で、同年代の男の子たちとの喧嘩も拳でいくスタイルだった。反対に多くの女の子が得意とするようなこと―例えば裁縫やダンスは苦手だった。
学園の中等部の入学式、リリーを初めて見るという同級生も多かった。その美貌と王女という立場から、その日は羨望の眼差しで遠巻きに眺める人がほとんどだった。
そんなリリーも、一学期が終わる頃には男女問わずみんなと仲良く打ち解けていた。
リリーはプリンセスらしからぬ人だった。授業の合間の小休憩の時間も、品よく座っていることは皆無で時に男子と全力で駆け回り、女子との歓談はアハハハとあっけらかんに口を大きくあけて笑う。幼い頃からリリーを知っている子たちは本当昔から変わらないよねと口を揃えて言う。中等部で初めてリリーに関わる子たちも、それはそうだろうなと激しく納得していた。
武闘派思考で妙な発言もあれば、多才で教養もあり話題が豊富でユーモアがあり面白い。立場や美貌を鼻にかけないカラッとした性格。
表情もコロコロ豊かに変わり見ていて飽きない。
特に好きな馬術、魔術、剣術の授業では水を得た魚のように活き活きとしていた。
反面、苦手な裁縫の授業では魂が抜けて死にそうな顔をしている。
分かりやすく素直で面白い、時たま様子のおかしいリリーのことは皆すぐ大好きになった。
それまで自然とイメージしていた可憐なプリンセスは、あくまでよそいき外交のモードのリリーの偶像だったということには早々に気付いたクラスメイトたちだった。
それでも、学園外の大人たちには一貫して品よく丁寧に振る舞っているので級友たちが親にリリーの面白さを話すと「馬鹿な嘘をいうな」と怒られるのだった。これは理不尽だとクラスメイトたちは言う。
リリー・オーガスタ・ベルンシュタインとはそんな人物だった。
鏡の前に立つリリー。映るのはエマという女性。この困った状況に頬に手を当て、考える。
「私という人格はエマの体に入ってしまったのね。」
ふと視界に入ったカレンダーを確認すると見慣れた年号だった。
「……なるほど。この世界は、前の世界と『全く同じ』。でも、私の居場所がすり替わってるんだ」
元々の体の主、エマは今どうしているのだろう。
ここはベルンシュタイン王国、巨大な城壁内に位置する王都。
エマの部屋は王都内にある魔術学園の一画にあった。ある種特殊なこの環境には、この世界の街の情報が入ってこない。
今の世界が前の世界と同じだということは分かったので、友人や知人を探して話を聞きに行こうか、父や母つまり王や后と直接話そうかと考えたリリー。しかしすぐそれを改める。この見た目の状態で状況を話に行ったとしても信じてもらえる方がおかしい。それに、それはよくない決断だと勘がはたらく。
自分の勘は馬鹿にならないということは、今までの経験上よく理解していた。
そこで、この世界の状況を把握しようと情報収集のために街に出かけた。髪と顔を隠すため、つばの大きい帽子を深く被り、男の子のような服装で簡易的に変装し、外に出た。
昼から呑めるという酒場で聞いたのは衝撃のうわさ話。本物の「リリー姫」は現在、急な病の静養という名目で、地方の別邸に移されているという。
(私がエマとしてここにいるのに、この世界には『私』を名乗る誰かがいる……。これ、絶対に裏でとんでもないことが起きてるじゃない!)
やっぱり、自分の勘は間違っていなかった。
今の不思議な状況を話した相手に、エマの中身がリリーであるということを信じてもらえたとしても、同じタイミングで偽の姫が存在する以上、騒ぎになることは必然であり得策ではない。
さらに1時間ほど酒場に滞在してから部屋にもどり、震える手で情報を整理していく。
酒場での噂話は話半分で聞けってよく言われるけど、私からすれば侮れない、貴重な情報の宝庫。酒場にて、この時代の最新の情報を手に入れたリリーだった。
酒場で得た情報の整理を終え、部屋にあるものを細かく確認していく。
驚いたことに、このエマという女性、ただの使用人ではなかった。
彼女は城壁内にある学園の魔術教師であり、同時に城の設備やインフラを管理する使用人という、超絶ハードワークをこなす才女だったのだ。
割り当てられた個室の机には、宮廷魔導師でも手を焼くような難解な魔導書と、几帳面な文字で日々の業務が綴られた日誌が、山のように積み上がっている。
日誌は2種類あった。学園の指導に関するものと、使用人としてのもの。
見落としがないように隅からすみまで目を通し熟読する。
リリーが目を覚ました野原で探していた薬草は魔術の授業で使うものだったということも分かった。
エマという人物についても分かったことがある。
「去年、この学校のカリキュラムを中等部時点で全て終えて卒業、そのまま教師に採用……。えっ、エマさん、スペック高すぎない?」
あくまで仮説だが、この世界は以前と同じ世界線のはず。
リリーとして一緒に時代を生きていたのならば、なんでこんな特別な存在に気がつけなかったのだろう。
そしてあることに気付きハッとする。エマは教師ってことは、私が授業も行わないといけないってこと?!
それにプラスで使用人としての仕事もこなさなくてはということはとてつもなく忙しいじゃない!
冷や汗が頬を伝う。
幸いなことに、リリー自体も「魔術オタク」を自称するほど魔術には目がなかった。そのおかげもあり、授業を行える程度の魔術の知識は元々備えていた。
更にエマの日誌を読み進め、授業の進行具合を把握する。
日誌は、授業内容の把握だけでなく、口調をはじめ、エマという人物像のイメージを練り上げるのにも役立った。
さらに幸いだったのは今はちょうどテスト明けの期間で、授業の準備や使用人の業務に十分時間がとれるタイミングだった。リリーの知識とエマの体の感覚を同期させれば、取り繕えそうだった。
しかし、何よりも私を夢中にさせたのは、エマが個人的に収集していた専門書の数々だ。
「……えっ、この術式、面白い! 理論構成が独創的すぎてワクワクしちゃう。……ちょっと試してみたいかも」
一度気になったら即行動!というところはリリーの長所でもあり短所だ。
夜更けまで魔導書を読み耽った翌日の放課後、学園近くの人気のない林で、気になる「ちょっとした術」を試してみることにした。
この林はリリーが学生の時から、たまに来ていた「なにかよからぬこと」や「人に見られたくないこと」を試すのに最適な場所だった。
意識を集中し、エマの体内に眠る魔力を練り上げる。その時、自分の魔力がエマの巨大な魔力貯蔵量とカチリと噛み合った。
途端に。
「――っ!? まぶしっ!!」
ドォォォォン!!
ただの「灯火」程度の着火魔法のつもりだったのだ。
なのに、起動時の光量だけで爆発でも起きたかのような閃光が走り、周囲の太い木々が衝撃波で激しく蠢いた。
「な、なになに!? このエマって人、魔力強すぎ……! 私の技術でこの魔力を使ったら、もう兵器じゃない!」
慌てて術を霧散させたが、私の「魔導探求心」に完全に火がついてしまった。
それから「エマ」として復帰して数日間が経った。意外とすんなり授業を進めることができたと自負するリリー。日誌を読みこんだおかげで違和感なく進行できているようだ。
放課後は連日、魔術の実践教室をガッチリと閉め切り、強力な術を試しまくる秘密の特訓に明け暮れた。
そして、ついにその時がやってくる。
エマの本棚にしまわれていたノートの背表紙に、「危険・使用禁止」と厳重に注意書きがあった大規模破壊魔法。その式の美しさに抗えず、私はつい、指先から魔力を流し込んでしまったのだ。
瞬間――。
『ピーーーー!! 警告! 魔力値が学園規定の安全閾値を逸脱しました! 即座に中断してください!』
教室中に、心臓に悪いほどけたたましいアラート音が鳴り響く。
「うそっ、これ学園全体の警備に繋がってるの!? 消えて!魔力、消えてぇ!」
焦って魔力を霧散させようとしたが、時すでに遅し。
「この魔力の匂いは・・!」遠くから空気を揺るがす咆哮がとんでもない速さで近づいてくる。
バタン!!
扉が壊れんばかりの勢いで蹴破られた。
「エマ先生! 一体何を考えているんですかぁぁ!!」
そこに立っていたのは、白髪を逆立て、眉間に深い渓谷のような皺を刻んだ学園のボス、教育長だった。
……あ、この顔。ものすごく、見覚えがある。
学生だった頃、図書室の禁書棚に勝手に忍び込んで魔術をなぞりボヤ騒ぎを起こした際、三時間にわたって正座で説教を食らったときと全く同じだ。
「申し訳ありません、教育長。その、つい好奇心が抑えられず……」
「『つい』で学園の一部が吹っ飛んだらどうするんです! 貴女はもう学生ではない、教師なんですよ! いいですか、明日の朝までに反省文を十枚提出することです!」
ガミガミと、顔を真っ赤にして怒鳴る教育長の姿。
本来なら縮こまる場面なのだろうけれど、私の胸の奥からは、恐怖を通り越して懐かしさとおかしさがこみ上げてきた。
「ぷっ……あはははは!」
「こら、何がおかしいんですか!」
「いえ、すみません。……なんだか、懐かしいなと思って。全然、変わってないんですね」
思わず口走った。
立場が変わって、姿が変わっても、怒られるパターンはリリーの時と全く同じ。
私は、自分が置かれた数奇な運命と、この変わらない日常に、おかしな安心感を抱いてクスクスと笑い続けた。
当然、懐かしいとはどういうことですか?!まだふざけるつもりですか!!と教育長を更に怒らせることになってしまった。
けれど、この時の私はまだ知らなかった。
心から愛するこの国があっという間に狂っていくことを。




