婚約破棄されかけたので色気ゼロなりに頑張ったら、 無愛想公爵が急に優しくなって動揺が止まりません!
エリナは、差し出された書状に、目を落とす。
たった一行。
――婚約を解消したい。
(は!? どういうこと!?)
読み終えた瞬間、指先が震えた。
「……ど、どうして?」
「どうしてって、わからないか? その自分の格好を見ても」
見上げれば、婚約者――レオンハルトが、呆れたようにこちらを見下ろしている。
思わず、自分の姿を見下ろした。
土のついた作業着。袖口には乾いた泥の跡。
さっきまで温室にいたのだから当然だ。
この服は動きやすくて、研究には一番向いている。
「お前には華やかさが足りない。色気もなにもあったもんじゃない」
「色気……?」
これまでずっと、こうだったのに。今さら何なんだ。
(そっちだって、私に色気なんて求めてこなかったくせに!)
小さな頃から、叩き込まれてきたのは礼儀と知識。
特に、領地経営の基盤となる薬草の知識は重要だと、何度も言われてきた。
だから、研究に打ち込んできた。
気づけば、それが一番楽しくなっていたのに。
作業着だって、ちゃんと理由がある。
動きやすくて、汚れも気にしなくていい。
研究には、この格好が一番なのに。
(それの、どこがいけないっていうの……?)
「……そんな理由で、十年の婚約を終わりにするつもりなの?」
うまく声が出ない。
かすかに震えていた。
レオンは深く息を吐いた。
「お前は真面目すぎるんだよ。毎日、毎日研究漬けで。
誰もそこまでやれなんて言ってない」
一瞬だけ、彼は目を伏せる。
「むしろお前にだって好都合だろ? 自由になれる――公爵家の枷から」
(……自由?)
その言葉が、胸に引っかかった。
「で、でも、こんなの急すぎるわ!」
思わず食い下がると、レオンはわずかに視線を揺らした。
「……まさか、お前。俺に――情でもあるのか?」
心臓を掴まれたみたいに、息が詰まる。
答えられない。
その沈黙に、レオンの眉がわずかに動いた。
はっとして、エリナは顔を上げる。
「ち、ちがうわよ! そんなわけないでしょ!?
ただ、その……今までの努力が無駄になるのが惜しいだけで……!
研究途中の薬もあるし、その、途中で止めるなんて……!」
「まぁ、そうだろうな」
短く言い切ると、レオンは背を向けた。
「書状には署名しておいてくれ。……以上だ」
扉が閉まる音が、やけに大きく響く。
(私の十年が全部無駄ってこと!? そんな勝手許せない……!)
こみ上げた苛立ちのまま、顔を上げる。
窓の外に、森が見えた。
レオンの家の領土内にある場所だ。
あそこで、何度も薬草を採った。
寒い日も、雨の日も。
(……あそこに行けなくなったら)
研究は、止まる。
胸が締めつけられる。
(そんなの、絶対に嫌……)
ぐっと拳を握る。
(色気がないなら……変わってやる!)
ふと、作業着の袖が目に入る。
(……いや、でも……これは……)
(難易度、高くない……?)
一瞬、固まる。
(いやいやいや。何弱気になってんのよ私)
ぶんぶんと首を振った。
(やるしかないでしょ……!)
◇
翌日。
エリナはレオンの部屋の扉を勢いよく開けた。
「どう!? 見て、レオン! 私だってやればできるのよ!」
胸元も肩も大きく開いたドレス。
肌が出すぎていて、落ち着かない。
こんな格好、普段の自分なら絶対にしないのに――
(恥ずかしくて死にそう……!
軽く見せつけて、反応したら即帰るんだから!)
だが――
当の本人は、机に山積みの書類と格闘したまま、こちらを見る気配もない。
「ちょっと! 見てって言ってるのにー!!」
再び声を張り上げると、ようやくレオンが顔を上げる。
ちらりと視線を上下に滑らせ――
「……そうか」
とだけ言い、何事もなかったようにペンを走らせ始めた。
(反応薄っ!? もっと何かあるでしょ!!)
(で、でも……どうしよう……このままじゃ帰れない……)
(もー、どうにでもなれっ……!)
エリナは意を決して、ドレスの裾をつまんだ。
そっと足を見せる。
「レ、レオン? ちゃんと見てよ?」
「さっき見たぞ」
「さっきと違うでしょ!? ほら、足出してるのよ!」
怒る余裕もなく、頭の中が真っ白になる。
顔だけが、どうしようもなく熱い。
(ああもう……! 無理ー!! こっちの身にもなってよ!)
なのに、レオンの視線はまた書類に戻ってしまってる。
(え?? これじゃ、足りないの? もっと出した方がいいのかしら……)
さらに足を上げようとして――
慣れないヒールがぐらつく。
「あっ――」
視界が傾いた瞬間、椅子がガタンと音を立て、レオンが素早く立ち上がる。
「危ない!」
腰を支えられ、抱きとめられる。
見ていなかったはずなのに――反応だけは、やけに速かった。
「まったく……何をしてるんだお前は」
呆れたように息をつく。
なのに、抱きとめる腕はやけに優しい
「……ありがとう」
エリナが小さく呟くと、レオンは彼女の肩を見て、眉を寄せた。
「そんな薄着で歩き回っていたのか。風邪をひくぞ」
文句を言いながらも、レオンは自分の上着を脱ぐと、背後からエリナの肩にそっとかけた。
そのまま、逃がさないようにでもするかのように、腰を支えた手が離れない。
(ちょ、ちょっと待って……近い……!)
背中越しに体温が伝わってくる。
振り返ればすぐそこに顔があって、吐息がかすかに頬に触れた。
(いや、近いどころじゃない……息、当たってる……!)
そしてレオンは、すっとエリナの手を取ると、そのまま自分の手で包み込む。
「……やっぱり冷たいな。無理をするからだ」
背後から抱えられたまま、指先まで包まれて――
じんわりと、彼の体温が移ってくる。
(ひぁぁぁぁぁぁ……!! なんで今日はこんなに優しいの!?)
(今までこんなこと、全くなかったのに……)
背中に触れる温もりに、思わず力が抜ける。
そのまま、体を預けてしまいそうになる。
胸がどくどくと鳴る。
近すぎる距離も、触れられている指先も、全部が甘くて――
(……なんで、こんな急に……)
――はっと、我に返った。
(あ、そっか……今日は、ちゃんと女性らしくしてたから……)
(ちゃんとそうしていれば……こんなふうにしてくれるってこと……?)
(じゃあ今までの私のことは……どう思ってたのかしら……?)
胸の奥が、きゅっと痛む。
後悔と、言いようのない虚しさが入り混じる。
(……そんなこと考えてても、仕方ないわ)
ぎゅっと唇を結ぶ。
(だったら、これからもっと色気を出せばいいのよね!)
エリナは勢いよくレオンの方へ向き直り、かけられた上着を落とした。
「もっと……ちゃんと見て?」
震える指先でレオンの頬に触れ、それらしく微笑んでみせる。
(無理無理無理無理……!
そろそろちゃんと見てもらえないと、私の方が限界……!)
レオンは無表情のまま、じっと見つめ返してくる。
その視線が、わずかに揺れた気がした。
そして――頬に触れていたエリナの手首を、そっと取った。
(……え?)
温かな手が触れた瞬間、心臓が跳ね上がる。
さらに逃がさないようにでもするかのように、その指が軽く締まる。
けれどそれは押さえつけるというより、こちらの反応を確かめるような触れ方だった。
(こ、こんなの……振りほどけるわけないじゃない……)
拒むこともできないまま、手首を掴まれる。
そのまま動けずにいると、ぐっと距離が近づいた。
息がかかりそうなほどになる。
視線が重なった瞬間、逃げ道まで塞がれた気がした。
(ど、どうしよう……)
(もう……無理……)
耐えきれず、エリナはそっと視線を逸らす。
その瞬間、レオンの指先から力がふっと抜けた。
(……え?)
そろそろと視線を戻す。
レオンは小さく息を吐き、わずかに距離を取る。
その表情は、すぐにいつもの無表情へと戻っていた。
「……別に婚約破棄しても、研究は自由に続けていいぞ」
「そんなのありなの!?」
「父上もお前の研究を認めている。うちにとっても有益だからな」
レオンは少しだけ間を置いて、続けた。
「だから、こんなくだらない芝居はやめろ」
静かに見つめられ、エリナは思わず息をのむ。
相変わらずの無表情――でも、どこか引っかかる。
ほんのわずか、何かが違う気がした。
「だ、だけど……!
そんな口約束、信用できるわけないじゃない!」
胸がざわつき、声が震える。
(研究だけの関係なんて……そんなの、嫌なのに……)
(でも、何て言えばいいの……?)
しばらくの沈黙のあと、レオンは静かに口を開いた。
「俺のことが……そんなに信用できないのか?」
普段と変わらないはずの声なのに、なぜか胸がざわついた。
だが、それを見せないようにして、言葉を続ける。
「そうよ!
急に婚約破棄を言い出すような、
無愛想で優しさのかけらもない男、信用できるわけないでしょ!」
レオンの顔を真っ直ぐに見つめて言い切った。
レオンは、ほんの一瞬だけ視線を揺らした。
そのまま、わずかに目を伏せる。
「……そうか……」
長い沈黙が、二人の間に落ちた。
「……とりあえず、今日はもう帰れ」
エリナは半ば押し出されるように部屋を追い出された。
(そっちが悪いのに……!
なんで、そんな顔するのよ……!)
もやもやした気持ちだけが、胸の奥に引っかかったままだった。
◇
(レオンは……そんなに私と結婚したくないのかしら)
部屋に戻るなり、エリナは力が抜けたようにベッドの端へ腰を下ろした。
胸の奥に、じわじわと重たいものが沈んでいく。
(結局、レオンにとって私は、ただの研究者なのね……)
ふっと息が漏れる。
さっきの言葉が、勝手に別の意味を持ちはじめていた。
(“うちにとって有益”……)
(ただの……役に立つ存在、そんなものだったのかも……)
胸の奥が、静かに冷えていく。
――でも。
ふと、頭の奥に、別の記憶が浮かぶ。
研究を始めたばかりの頃。
よくレオンの部屋に押しかけては、見つけた薬草の効能や新しい発見を、夢中で話していた。
レオンは相変わらず無表情だったけれど、嫌な顔ひとつせず、いつも最後まで聞いてくれた。
言葉は少ない。けれど――
口元をわずかに緩めると、必ず、あの一言だけをくれるのだ。
『さすが、俺の婚約者だ』
いつもの言葉なのに、毎回顔がにやけそうになる。
(……婚約者、って……)
胸の奥が、ふわりと温かくなる。
ただその一言が嬉しくて、気づけば研究にのめりこんでいった。
それだけじゃない。
不器用でも、レオンは時折やさしさを見せてくれた。
冬のある日。外で薬草を採集していると――
「あまり無理をするな。
倒れられたら、あそこの家はどんな鬼公爵だと噂されるか」
そう冗談を言いながら、レオンは毛布を持ってきてくれた。
凍えたエリナの体を包むそのぬくもりに、胸がじんわりとほどけていく。
ぶっきらぼうな仕草の奥に、確かな気遣いがあって――胸が熱くなった。
(やっぱり、今までのこと全部、無かったことになんてできない……)
エリナは肩を落とす。
(あんなふうに褒めてくれたり、ちゃんと見てくれてたこともあったのに……)
(それでも……もう、望みはないのかしら……)
でも――
(今日だって、あんな格好をしたら……ちゃんと見てくれた)
(私がもう少しだけ“女性らしく”なれば……まだ、変われるかもしれない)
目を閉じて、息を整える。
(まだ……間に合うはず)
――結婚さえできれば。
エリナは静かに目を開ける。
一瞬、ためらいが胸をよぎる。
けれど――その考えを、振り払わなかった。
◇
最後に話がしたい――そう言って、エリナはレオンを呼び出した。
部屋に入ったレオンは、エリナの姿を一瞬だけ見て、少しだけ間を置いた。
「今日の格好はまともだな」
今日は胸元まできちんと詰まった長袖のドレスを着ていた。
作業着でも、先日の大胆なドレスでもない、昔からよく着ていた落ち着いた服だ。
「あなたにやめろっって言われたもの」
「そうか。分かってもらえたならそれでいい」
相変わらずの無表情。
けれど、さっきまでほんの少しだけ強張っていた空気が、ふっと抜けたように見えた。
(……あ)
(そういうこと……)
(ああいうのは、しなくていいって思ってるのね……)
胸の奥が、じくりと痛んだ。
(もう、「そういう対象」ですらないってこと……?)
侍女が紅茶を運んでくる。
レオンは用意されたカップをしばらく眺めていた。
それから静かに手に取り、一口飲む。
「別に“最後”ではないだろう?」
「え?」
「婚約を解消しても、研究は続けていい……そう言ったはずだ」
「……そう、ね」
エリナは視線を落とし、紅茶を見つめる。
「研究の方はどうだ」
「順調よ。以前から作っていた薬も、もうすぐ完成しそう」
「そうか……お前の働きぶりには、毎度感心させられるな……感謝してる」
レオンがふっと微笑んだ――今まで、よく見せてくれた、あの柔らかな笑み。
いつもなら、そのあとに続くはずの言葉がある。
『さすが、俺の婚約者だ』
あの一言が、好きだった。
――でも今日は、もう続かない。
(もうレオンの中では、完全に終わってるのね……)
(私はただの“有能な研究者”……それだけ)
胸の奥がざわつく。
さっきまでは、縋ればまだ間に合うかもしれない――そんな期待もどこかにあった。
けれど、今のレオンの反応を見て、その考えは静かに消えた。
(……もう、遅い)
なら、迷っている場合じゃない。
エリナはゆっくりと息を吸い、決めた。
「――そんなふうに言って、油断させておいて……あとで裏切ることだってあるんじゃないの?」
静かにレオンを見つめたまま続けた。
「妻でもない女の研究なんて、都合よく利用されて終わりよ」
「そんなことはない。本当に……信じてほしい」
言い終わるより早く――
――ガチャリ
レオンの手からカップが滑り落ち、机を転がった。
「……なんだ、急に……めまいが……。
まさか……何か入れたのか……?」
レオンはふらつきながら、必死に目を開けようとする。
「少し細工をしただけ。体に害はない――ただの眠り薬よ」
エリナは震える声で答えた。
「少しの間眠っていてくれればそれでいいの。
一晩ここで一緒にいれば、周りが勝手に騒いでくれる……」
椅子から立ち上がり、ふらつく彼の体を支えながら近づく。
「令嬢を傷つけておいて婚約だけ解消したら……
社交界では、きっとすぐ噂になるわ」
喉の奥が詰まる。
「……そんなこと、あなたはしないでしょう?」
言いながら、自分の手を強く握りしめた。
(こんな手を使うなんて、最低……。
でも――これしか、もう方法がないの……)
崩れ落ちそうなレオンを支えて椅子に座らせると、エリナは震える手で彼の上着に触れた。
まだ熱の残る布が、指先にまとわりつく。
次にシャツのボタンへ指を伸ばす。
けれど緊張でうまく力が入らず、何度も外し損ねた。
かちり、と外れるたびに、自分の鼓動がうるさくなる。
(……もう、引き返せない)
自分の胸元にも手をやり、ボタンを外す。
途端に、ひやりとした空気が肌をなでて、思わず肩が跳ねた。
(それっぽく見えれば、それでいいの……)
「……噂になるには、十分よ」
こぼれる声は、自分でも驚くほど震えていた。
(レオン……ごめんなさい……)
そっと肩に手を添えて、首へ腕を回す。
近すぎる距離に、心臓が痛いくらい跳ねた。
唇を、触れるか触れないかの距離で一瞬ためらう。
(これで、思い止まってくれるなら……)
迷う気持ちを押し切り、そのまま唇に触れた。
“噂のためにするキス”だと言い聞かせていた。
だけど、唇が触れた瞬間、全部が崩れた。
理屈なんて、どこかへ消えてしまう。
十年分のレオンへの想いが全部溢れ出してくるようだった。
(……お願い。行かないで……)
――その瞬間。
「エリナ様、お菓子をお持ちしました――……っ!!」
侍女が部屋に入りかけ、動きを止める。
次の瞬間、顔を真っ赤にして踵を返し、逃げるように去っていった。
侍女が盆を落としそうになりながら、慌てて部屋を飛び出していく。
(ちょうど来る頃だと思ってた……ちゃんと見たわね……)
エリナは、ほんのわずか息を吐く。
(これで、噂になる……これで……婚約は簡単には壊せないはず)
ほんの少し、胸の奥に安堵が灯る。
だが。
レオンに目を向けた瞬間、その安堵は一瞬で消えた。
そこには、動揺と困惑……そして、深い哀しみが浮かんでいた。
まるで、エリナの必死の行動に胸を痛めているような、そんな表情。
(……同情……? 哀れみ……?)
レオンの感情は読み取れなかった。けれど、ひとつだけは確かに分かる。
(“女”として惹かれてはいない……)
胸の奥がぎゅっと潰れた。
(……やっぱり……私は、あなたの心を動かす“色気”なんて……持ってないんだわ)
崩れ落ちそうな気持ちを抱えたまま、エリナはただレオンを見つめた。
眠り薬のせいで朧げなはずの彼の瞳が――どこか痛むように揺れている。
沈黙が長く伸びたあと、その揺れた瞳が、かすかに形を変えた。
「俺が悪かった……お前がここまでするなんて……」
掠れた声が、途切れ途切れに落ちてくる。
眠りかけているはずなのに、その言葉だけは妙に真っ直ぐだった。
「研究に心血注いでいたことは、よく分かってたのに……
誰よりも努力してたのも……」
「じゃあ……」
エリナは縋るようにレオンを見つめた。
胸の奥に、ようやく掴んだ希望の灯がともる。
「お前が望むようにする……」
その一言に、エリナの心がふっと軽くなりかける。
(これで……婚約解消は――)
だが、レオンの次の言葉が、その灯を無造作に踏みにじった。
「あそこの領土はお前にやる……研究施設も……全部、お前だけのものにしていい」
「……え?」
空気が一瞬止まった。
ひゅ、と胸の奥で呼吸が細くなる。
(今……私……何を言われた?)
揺れる視界の中で、レオンの言葉だけが無情に落ちていく。
(そんなに……私と結婚するのが嫌なの……?)
抑えていた感情が堰を切り、熱い涙が頬を伝った。
「これでお前は完全に自由だ……
……あとは好きな男とでも一緒になればいい」
「――っ!」
エリナは耳を疑った。
胸の奥が、ぎゅっと掴まれたように痛む。
「は!? そんな人いないわよ!」
怒りとも悲しみともつかない震えが声を歪める。
十年。
ただ一人、レオンだけを想ってきた。
その重さを軽々しく誤解されたことが、何より苦しかった。
「領土なんていらない……もう研究もやめる……!」
涙でぐしゃぐしゃの声のまま、エリナは必死に訴えた。
レオンは言葉を失ったまま、エリナを見つめていた。
そのまま、時間だけが妙に長く伸びていく。
やがて困惑したように眉を寄せ、ゆっくり口を開く。
「どういうことだ? ……好きな男がいるんじゃないのか?」
「は……?」
「お前、言ってただろう?
“私は好きな相手と、思いを通わせる結婚はできない”って」
――そういえば。
胸の奥に、ふと嫌な記憶が浮かんだ。数週間前のことだ。
「結婚?」
「はい。今までお世話になりました」
エリナ付きの侍女が、結婚のために辞めると聞いた。
「ずっと好きだった幼馴染が相手で、この子ったらもう舞い上がっちゃって……」
別の侍女の軽い笑い声。
「ちょっ……お嬢様の前で……!」
慌てる声がして、その場の空気が和む。
「つまらない話を聞かせてしまい、申し訳ありません……」
「大丈夫よ……おめでとう」
なんとかそう返したけれど、声が少しだけ固かった。
(……幼馴染……私と同じだ……)
でも、すぐに胸の奥が冷える。
(でも、私とは……違う)
レオンはいつも研究の話しかしない。
自分に向ける言葉は、必要最低限だけ。
(どうして……この子にはちゃんと想いが返ってくるのに……私には……)
そんなことを考えてしまった。
気づけば、言葉がこぼれていた。
「本当に……羨ましい……。
私は……好きな人と想いを通わせる結婚なんて、できないから……」
言った瞬間、しまったと思った。
胸の奥に、じわりと熱が広がる。
(……私は、そんなことを思ってたの……?)
私たちはただの政略婚約。
最初から割り切っていたはずなのに。
どこかで、違うものを望んでいた自分がいた。
――そして、その会話を。
レオンは、聞いていた。
(……)
その言葉が、じわりと胸の奥で沈んでいく。
気がつけば、エリナは現実へ引き戻されていた。
目の前では、レオンが静かに息をつき、視線を落としている。
やがて彼はゆっくり顔を上げ、戸惑う瞳でエリナを見る。
「あの言葉を聞いて……お前は俺と結婚したくないんだと思った」
声は途切れ途切れで、少し震えている。
「他に好きな相手がいるなら……自由にさせてやるべきだと思った」
迷いが混じった声だった。
強く言い切っているはずなのに、どこか揺れている。
「……それなら、俺は」
一度、言葉が途切れる。
「婚約は、解消すべきだと思った」
その言葉が落ちたあと、しばらく沈黙が続いた。
レオンは視線を落としたまま、小さく息を吐く。
やがて、言葉を選ぶように続ける。
「でも……お前が研究を続けていれば、俺の領地にも来るし、報告にも来るだろう」
そこで一度、言葉が途切れた。
「そうすれば……完全に離れてしまうわけじゃない。
だから……すぐには手放せなかった。
……悪かった」
小さくこぼれた声には、後悔と、どうしようもない未練が滲んでいた。
「そ、そんな……」
エリナは胸の奥を押さえるように、ぎゅっと指を握る。
(そんなつもりで……)
言葉が出てこない。
何を返せばいいのか分からず、エリナはただ息を呑んだ。
沈黙が落ちる。
そのわずかな間を、逃さないように――
レオンは、迷いを振り切るように口を開いた。
「俺は……ずっと、お前が好きだった」
(……へ?)
一瞬、言葉の意味がうまく入ってこなかった。
「ちょ、ちょっと待って!?」
混乱しすぎて頭が追いつかない。
「全然そんな感じなかったじゃない!
いつも研究の話ばかりだったし……!」
「いや、それは……
お前が楽しそうに話してたから……。
その顔が見たくて……つい……」
「な、何それ……?」
エリナはぽかんとしたまま、しばらく言葉を失った。
ずっと「ただの研究相手」としか見ていないと思っていたのに――
(……好き、って……今……)
理解が、ゆっくりと追いついてくる。
胸の奥で、何かがほどけた。
「……レオン……本当に……私のこと……?」
思わずこぼれた声は、自分でも驚くほど頼りなかった。
レオンの表情は変わらない。
けれど、ゆっくりと頷いた。
(……本当、なんだ……)
次の瞬間、堪えていたものが一気に溢れた。
気づけば、エリナはレオンの胸に飛び込んでいた。
「私が好きなのは、あなただけよ」
レオンは一瞬、言葉を失ったように見えた。
何か言おうとして、口を開きかけて――閉じる。
「……どういうことだ?」
低く落ちた声は、わずかに掠れていた。
「で、でも……俺となら結婚はできるだろ?」
「そういうことじゃないの!
思いが通じてるって意味で言ってるのよ!」
「何も言ってくれないから、そんな風に思ってるなんて分かるわけないでしょ!?」
エリナはむっとしながらも、どこか力が抜けた声で続けた。
レオンは、ほんの一瞬だけ言葉を失った。
「……伝わっていなかったのか」
ぽつりと落ちた声は、どこか信じられないようで――
少しだけ、傷ついた響きがあった。
そんなレオンを見て思わず頬が緩む。
「本当に……無愛想で、自分勝手な人ね」
そう言いながらも、レオンの胸に頬を預ける。
「でも……不器用で、優しい人」
小さく息を吐いて、ぽつりと落とす。
「大好きよ……」
レオンは何も言わず、ただエリナを見つめていた。
その瞳に、少しずつ熱が灯っていく。
やがて、そっと手が伸びてくる。
指先が髪に触れて、やさしく撫でられた。
そのまま、軽く顎をすくわれる。
気づいたときには、もう距離がなかった。
次の瞬間、唇が重なる。
(え……?)
触れたところから、レオンのぬくもりが伝わってくる。
息の仕方も分からないまま、ただその感触に飲み込まれていく。
やがて唇が離れても、そのぬくもりだけが残っていた。
(――な、なに、今の……?)
遅れて現実が押し寄せる。
頬が一気に熱くなって、心臓が跳ねた。
「ちょっ……急に何を……って、あれ!?
……薬、もう効いてないの!?」
「あぁ。もう随分前から普通に動ける」
(そ、そうだったー!
レオンが可哀想で……量、かなり減らしたんだ……!)
焦るエリナをよそに、レオンは変わらない調子で言った。
「……そんなに驚くことか?
さっきは、お前からしてきただろう」
「さっきは必死だったのよ……! そんな言い方しないで!!」
顔がどんどん熱くなるのが自分でもわかる。
「と、とにかく……婚約は、このままでいいのよね?」
「あぁ、そうだな」
そう言うと、レオンが一歩近づいてきた。
気づいたときには、そっと背中に腕が回されている。
引き寄せられて、思わず息をのむ。
顔が熱いまま、そっと見上げると――
すぐ近くで、レオンの視線とぶつかった。
「あぁ、それと……」
「お前が色気ないと言ったのは……あれは嘘だ」
「え……?」
「婚約を解消するための方便だ。だから忘れてくれ」
レオンは少し言いにくそうに視線を外した。
「無理に変わる必要はない。そのままのお前でいいから」
一瞬だけ言葉を探してから、付け足す。
「いつもの……夢中になってるときの顔が、一番好きだ」
「えっ……そんな……」
言葉が出てこない。
思わず俯く。
胸の奥がじんわり熱くなって、顔まで一気に熱くなる。
ふいに、顎に指がかかる。
そっと持ち上げられて――視線がぶつかった。
近くで見るレオンは、やわらかく微笑んでいて。
その表情に、胸がきゅっとなる。
嬉しいのに、恥ずかしくて。
それでも目を逸らせなくて――エリナも小さく笑った。
二人はしばらく、言葉もなく寄り添っていた。
触れているだけで、すれ違っていた想いが静かにほどけていく。
胸の奥に広がる温もりに、エリナはそっと息をついた。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。




