婚約破棄されかけたので色気ゼロなりに頑張ったら、 無愛想公爵が急に優しくなって動揺が止まりません!
差し出された書状には、わずか一行だけが記されていた。
――婚約を解消したい。
(は!? どういうこと!?)
読むや否や、手が震えた。
「……ど、どうして?」
「どうしてって、わからないか? その自分の格好を見ても」
婚約者――公爵家嫡男レオンハルトは、呆れた顔で作業着姿のエリナを見下ろす。
先ほどまで研究のために温室にいたのだから仕方ない。
動きやすく、日々の実験には最適な服装だ。
「お前には華やかさが足りない。色気もなにもあったもんじゃない」
色気……? 思わず、作業着姿の腕をぎゅっと抱きしめる。
(そっちだって、私に色気なんて求めてこなかったくせに!)
エリナは小さな頃から、公爵家に相応しい礼儀や知識を叩き込まれてきた。
特に、領地経営の基盤となる薬草栽培の知識は重要で、薬草や治療法に至るまで広く学ばされていた。
気がつけばこの研究が楽しくなり、没頭する日々。
作業着は汚れが目立たず、動きやすく、日々の実験には最適なのだ。
それが悪いなんて、到底思えない。
(でも、なんで急に……? 私がこんな格好でいるのは、ずっと前からなのに……!)
急に婚約破棄――!?
「……そんな理由で、十年の婚約を終わりにするつもりなの?」
声が震える。
悲しみより先に、どうして今さらそんなことを言い出すのか
――その理不尽さに腹が立った。
レオンは深く息を吐く。
「お前は真面目すぎるんだよ。 毎日、毎日研究漬けで。
誰もそこまでやれなんて言ってない」
一瞬だけ、彼は目を伏せる。
「むしろお前にだって好都合だろ? 自由になれる――公爵家の枷から」
その声音には、どこか後ろめたさが混じっていた。
「で、でも、こんなの急すぎるわ!」
それでも食い下がるエリナに、レオンは少し迷ったように視線を向ける。
「……まさか、お前。
俺に――情でもあるのか?」
胸の奥を掴まれたように、エリナは言葉を詰まらせた。
その沈黙をどう解釈したのか、レオンの眉がわずかに動く。
エリナはハッと顔を上げた。
「ち、ちがうわよ! そんなのあるわけないでしょ?!
ただ今までの努力が無駄になるのが惜しいだけよ!
研究途中の薬もあるし、途中で止めるなんて……!」
「まぁ、そうだろうな」
レオンは短く答えると、くるりと背を向けた。
「書状には署名しておいてくれ。……以上だ」
部屋の扉が閉まる音が響く。
エリナは決意する。
(私の十年が全部無駄ってこと!? そんな勝手許せない……!)
思わず視線は、レオン家の領土内にある小さな森へ。
ここには希少な薬草が群生し、研究や薬の試作には欠かせない場所だ。
冬の冷え込みや雨にも耐えながら、何度も訪れては植物の変化や効能を記録してきた。
もしこの場所に入れなくなったら、研究の進行は大きく滞る――そのことを、エリナは痛いほどわかっていた。
(色気がないなら……変わってやる!)
作業着姿の自分を見下ろし、拳を握る。
(……でも、私に本当にできるのかしら? いや、やるしかない……!)
◇
翌日。
エリナは気合いを胸に、レオンの部屋を訪れた。
部屋の主は、というと――机に山積みになった書類と格闘中で、視線は一ミリも動かない。
「どう!? 見て、レオン! 私だってやればできるのよ!」
勢いよく言い放ちながら、エリナはポーズを取る。
胸元が大きくあき、肩を出した、普段なら絶対着ない露出度の高いドレス。
(こんな格好、二分が限界……!
軽く見せつけて、反応したら即帰る……!)
しかしレオンは、ちらりと視線を上下に滑らせただけで――
「……そうか」
とだけ言い、何事もなかったようにペンを走らせ始めた。
(反応薄っ!? もっと何かあるでしょ!!)
焦ったエリナは、ドレスの裾を少しつまみ、そっと足を見せる。
「レ、レオン? ちゃんと見てよ?」
「さっき見たぞ」
「さっきと違うでしょ!? ほら、足出してるのよ!」
怒る余裕もないほど恥ずかしく、顔は熱で破裂しそうだった。
(ああもう……! こっちの身にもなってよ!)
さらにヒールは慣れない高さで、重心がふらつく。
「あっ――」
視界がぐらりと傾いた瞬間、椅子がガタンと音を立て、レオンが素早く立ち上がる。
「危ない!」
腰を支えられ、抱きとめられる。
さっきまでの無関心が嘘のような反射速度だった。
「まったく……何をしてるんだお前は」
ぼそりと呆れ声を落とし、ため息をつく。
けれどその手つきは驚くほど優しい。
「……ありがとう」
エリナが小さく呟くと、レオンは彼女の肩を見て、眉を寄せた。
「そんな薄着で歩き回っていたのか。風邪をひくぞ」
文句を言いながらも、彼は自分の上着を脱いでエリナの肩にかける。
その動きが自然すぎて、心臓が跳ねた。
(ちょ、ちょっと待って……顔近い……!
いや、近いどころじゃない! 息あたってる!)
「指も冷たいな。無理をするからだ」
エリナの手を取ると、レオンはそっとその指先を温めるように包む。
(ひぁぁぁぁぁぁ……!! なんで!? どうして今日はそんなに優しいの!?)
まともに目も合わせられない。
(婚約破棄を言い出してから優しくなるなんて……ずるい……!
今までずっと無愛想だったくせに……!)
胸がきゅっと痛んだ。
怒りとも悲しみともつかない、やるせない気持ちが込み上げる。
思わず頭を抱えそうになるが、ふと、今までのレオンとの関係を思い返す。
(……そうか……私に色気がなかったから……
ずっと“女性”として見られてなかったんだわ……)
でも――そんなこと、沈んでる場合じゃない。
(だったら……もっと色気を出せばいいのよね!)
エリナは勢いよくレオンの方へ向き直り、かけられた上着を落とした。
「もっと……ちゃんと見て?」
震える指先でレオンの頬に触れ、色っぽく微笑んでみせる。
(無理無理無理無理……! そろそろちゃんと見てもらえないと、私の方が限界……!)
レオンは無表情のまま、見つめ返し、そっとエリナの手首を取った。
冷たい掌が触れた瞬間、彼女の心臓が跳ね上がる。
(ど、ど、どうしよう……!)
必死に気持ちを落ち着かせようとするが、レオンから目が離せない。
レオンはため息をついて口を開く。
「別に婚約破棄しても、研究は自由に続けていいぞ」
エリナは目を大きく見開き、思わず声が弾む。
「そんなのありなの!?」
「父上もお前の研究を認めている。うちにとっても有益だからな」
研究は続けられる――そのことにエリナは一瞬安堵した。
だが同時に胸の奥に小さなざわめきが走る。
レオンは少しだけ間を置いて、続けた。
「だから、こんなくだらない芝居はやめろ」
静かに見つめられ、エリナは思わず息をのむ。
相変わらずの無表情――でもそこには、わずかに苦みが混じっている気がした。
「だ、だけど……!
そんな口約束、信用できるわけないじゃない!」
胸がざわつき、声が震える。
(これからは研究だけの関係なんて、納得できるはずがない……でも、どう言えばいいの……)
戸惑うエリナを見て、レオンはポツリと続ける。
「俺のことが……そんなに信用できないのか?」
普段の無愛想さとは違う、静かな傷みが混じる声に、エリナは一瞬胸を締め付けられた。
だが、それを見せないようにして、言葉を続ける。
「そうよ!
急に婚約破棄を言い出すような、
無愛想で優しさのかけらもない男、信用できるわけないでしょ!」
「……そうか」
レオンは、ほんのわずか寂しげに目を伏せる。
長い沈黙が二人の間にぽっかり空いた。
「とりあえず、今日はもう帰れ」
エリナは半ば押し出されるように部屋を追い出された。
(そっちが悪いのに……!
なんでそんな悲しそうな顔するのよ……!)
エリナの胸には、理由のわからないモヤモヤだけが残った。
◇
(レオンは……そんなに私と結婚したくないのかしら)
部屋へ戻ると、エリナはベッドの端に座り、胸の奥へじわじわと沈んでいく思いを抱えた。
(やっぱり、あの人にとって私は――ただの研究者。
役に立つ道具にすぎなかったのね……)
虚しさが静かに心を覆っていく。
ふと、昔の記憶がよみがえる。
研究を始めたばかりの頃――エリナはよくレオンの部屋へ押しかけ、見つけた薬草の効能や新しい発見を夢中になって語っていた。
レオンは表情こそ淡々としていたが、嫌な顔ひとつせず、いつも最後まで聞いてくれた。
そして、ふいに口元を緩め、決まってこう言うのだ。
『さすが、俺の婚約者だ』
その一言が胸に沁みた。
“婚約者”と呼ばれるのが誇らしくて、嬉しくて――もっと褒められたくて、もっと話したくて、エリナはますます研究にのめりこんでいった。
レオンに聞いてほしい、認めてほしい。その一心だった。
不器用でも、レオンは時折やさしさを見せてくれた。
「あまり無理をするな。倒れられたら、あそこの家はどんな鬼公爵だと噂されるか」
そう冗談を言いながら、冬の採集で凍えたエリナに毛布を持ってきてくれた日もある。
ぶっきらぼうな仕草の奥に、確かな気遣いがあって――胸が熱くなった。
(十年間……レオンの役に立ちたくて努力してきたのに。
“色気がない”なんて理由で……簡単に切り捨てられてしまうなんて)
エリナは肩を落とす。
(もう、本当に望みはないのかしら……)
(でも……今日だって、色っぽい格好をしたら、少しは“女性”として見てもらえた。
私がもう少しだけ女性らしくなれば――変わっていく可能性だってある……)
目を閉じて、深く息を吸う。
(ここで終わらなければ……結婚さえできれば……
――その後でやり直すチャンスだって、きっと……あるはず)
エリナは静かに、しかし確かに、その決意を胸に刻んだ。
◇
最後に話がしたい――そう言って、エリナはレオンを呼び出した。
レオンはチラリと彼女を見て言う。
「今日の格好はまともだな」
エリナは胸元まできちんと詰まった長袖のドレスを着ていた。
作業着でも、先日の大胆なドレスでもない、昔からよく着ていた落ち着いた服だ。
「あなたにやめろっって言われたもの」
平然とした態度で言い返すエリナ。
「そうか。分かってもらえたならそれでいい」
相変わらずの無表情
――でも、どこかホッとしたような緩みがあって、エリナの胸がちくりと痛む。
(私は色気を出すなってことなのね……結局)
侍女が紅茶を運ぶ。
「別に”最後”ではないだろう?」
「え?」
「婚約を解消しても、研究は続けていい……そう言ったはずだ」
「……そう、ね」
エリナは視線を落とし、紅茶を見つめる。
「研究の方はどうだ」
「順調よ。以前から作っていた薬も、もうすぐ完成しそう」
「そうか。……お前の働きぶりには、毎度感心させられるな……感謝してる」
レオンがふっと微笑んだ――昔、よく見せてくれた、あの柔らかな笑み。
大好きだったその笑顔。
だけど――
(やっぱり……私は“有能な研究者”として必要なだけ……?)
「――そんなふうに言って、油断させておいて
……あとで裏切ることだってあるんじゃないの?」
エリナは顔を上げると、静かにレオンを見つめた。
「妻でもない女の研究なんて、都合よく利用されて終わりよ」
「そんなことはない。本当に……信じてほしい」
レオンが言い終えるか終えないかのうちに――
――ガチャリ
彼の手からカップが落ち、机に転がった。
「……なんだ、急に……めまいが……」
「これに……何か入れたのか……?」
レオンはふらつきながら、必死に目を開けようとする。
「少し細工をしただけ。体に害はない――ただの眠り薬よ」
エリナは震える声で答えた。
「少しの間眠っていてくれればそれでいいの。
一晩ここで一緒にいれば、周りが勝手に騒いでくれる……」
椅子から立ち上がり、ふらつく彼の体を支えながら近づく。
「“令嬢を傷つけておいて婚約だけ解消するなんて”
……そんなひどい真似、あなたはしないでしょう?」
両手はぎゅっと握りしめられ、思わず指先に力が入る。
(こんな手を使うなんて、最低……でも。
でも――これしか、もう方法がない……)
崩れ落ちそうなレオンを支えて椅子に座らせると、エリナは震える手で彼の上着に触れた。
ゆっくりと外していくと、まだ体温の残る布地が指先にまとわりつく。
次いでシャツのボタンに指をかける。
しかし緊張で手がこわばり、何度もつまみ損ねてしまった。
かちり、と外れるたびに、自分の鼓動がうるさくなる。
(……もう後戻りできない)
覚悟を決めて、自分の胸元にも手を伸ばす。
ためらいながらボタンを外すと、衣擦れの音が静かな部屋に小さく響いた。
ひやりとした空気が肌を撫で、思わず肩が震える。
(うまくなんてできてない。でも……“雰囲気”さえ作れれば、それでいい)
「……噂になるには十分よ」
自分に言い聞かせるように、震える声でそうつぶやく。
(レオン……ごめんなさい……)
そして、レオンの肩にそっと手を添え、ゆっくり首に腕を回した。
至近距離で感じる彼の体温に、エリナの心臓は痛いほど跳ねる。
(これで……婚約破棄を止められるなら……)
そう思いながらも――唇を、触れるか触れないかの距離で一瞬ためらい、そっと重ねた。
“噂のためにするキス”だと言い聞かせていた。
けれど実際に触れた瞬間、十年分の想いが勝手に滲み出てしまう。
初めてで、もしかしたら最後になるかもしれない、痛いほど切ないキスだった。
――その瞬間。
「エリナ様、お菓子を――……っ!!」
侍女が盆を落としそうになりながら、慌てて部屋を飛び出していく。
(ちょうど来る頃だと思ってた……これで、きっと……)
ほんの少し、胸の奥に安堵が灯る。
だが。
レオンに目を向けた瞬間、その安堵は一瞬で消えた。
そこには、動揺と困惑……そして、深い哀しみが浮かんでいた。
まるで、エリナの必死の行動に胸を痛めているような、そんな表情。
(……同情……? 哀れみ……?)
レオンの感情は読み取れなかった。けれど、ひとつだけは確かに分かる。
(“女”として惹かれてはいない……)
胸の奥がぎゅっと潰れた。
(……やっぱり……私は、あなたの心を動かす“色気”なんて……持ってないんだわ)
崩れ落ちそうな気持ちを抱えたまま、エリナはただレオンを見つめた。
眠り薬のせいで朧げなはずの彼の瞳が――どこか痛むように揺れている。
沈黙が長く伸びたあと、その揺れた瞳が、かすかに形を変えた。
「俺が悪かった……お前がここまでするなんて……」
朦朧としながら、レオンは苦しそうに息を吐き、喉を震わせながら言葉を絞る。
「研究に心血注いでいたことは、よく分かってたのに……誰よりも努力してたのも……」
「じゃあ……」
エリナは縋るようにレオンを見つめた。
胸の奥に、ようやく掴んだ希望の灯がともる。
「お前が望むようにする……」
その一言に、エリナの心がふっと軽くなりかける。
(これで……婚約解消は――)
しかし、レオンの次の言葉が、その灯を無造作に踏みにじった。
「あそこの領土はお前にやる……研究施設も……全部、お前だけのものにしていい」
「……え?」
空気が一瞬止まった。
ひゅ、と胸の奥で呼吸が細くなる。
(今……私……何を言われた?)
揺れる視界の中で、レオンの言葉だけが無情に落ちていく。
(そんなに……私と結婚するのが嫌なの……?)
抑えていた感情が堰を切り、熱い涙が頬を伝った。
「これでお前は完全に自由だ……
……あとは好きな男とでも一緒になればいい」
「――っ!」
エリナは耳を疑った。
胸の奥が、ぎゅっと掴まれたように痛む。
「は!? そんな人いないわよ!」
怒りとも悲しみともつかない震えが声を歪める。
十年。
ただ一人、レオンだけを想ってきた。
その重さを軽々しく誤解されたことが、何より苦しかった。
「領土なんていらない……もう研究もやめる……!」
涙でぐしゃぐしゃの声のまま、エリナは必死に訴えた。
レオンは言葉を失ったようにエリナを見つめる。
その沈黙は、彼が状況を理解しようと必死に考えている証のようだった。
やがて困惑したように眉を寄せ、ゆっくり口を開く。
「どういうことだ? ……好きな男がいるんじゃないのか?」
「は……?」
「お前、言ってただろう?
“私は好きな相手と、思いを通わせる結婚はできない”って」
◇
――そういえば。
胸の奥の記憶が、ふっと浮かび上がる。
数週間前のこと。
エリナ付きの侍女の一人が、結婚を理由に辞めるという知らせを聞いた。
相手は、ずっと想いを寄せていた幼馴染らしい。
その話を耳にした瞬間、エリナは心の底から羨ましいと感じた。
幼馴染が相手という点では自分も同じなのに――
自分の思い人は、気持ちを返してくれない。
それどころか、”女性”として見てもくれないのだ。
レオンはたびたびエリナの部屋を訪れていたが、そのたびに話すのは研究のことばかり。
自分への興味など、ほんの欠片もない――そう思い込んでいた。
「本当にあなたが羨ましいわ。
私は好きな相手と、思いを通わせる結婚はできないから……」
気づけば、思わず本音が漏れていた。
あの言葉を口にした瞬間、エリナは自分の胸の痛みを再確認した。
私たちは単なる家同士の結びつき。
いくら自分が思っても、それを返してくれることは決してない――そう思い込んでいたのだ。
だが――
その会話を、レオンは聞いていた。
ほんの、あの一言を。
◇
記憶がふっと遠のき、エリナは現実へ戻る。
目の前では――レオンが静かに息をつき、視線を落としていた。
まるで、言葉を選ぶような沈黙。
やがて彼はゆっくり顔を上げ、戸惑う瞳でエリナを見る。
「あの言葉を聞いて……お前は俺と結婚したくないんだと思った」
声は途切れ途切れで、少し震えている。
「他に好きな相手がいるなら、自由にさせてやらなきゃと思った」
言葉に迷いが滲む――決して軽くない決意の裏に、躊躇が見える。
エリナは息をのんで、彼の顔を見返す。
言葉の端々に潜む迷いが、胸に刺さる。
「だから、婚約破棄を考えたんだ……」
その後、沈黙がしばらく続く。
レオンは視線を落とし、ゆっくりと呼吸を整えてから、再び顔を上げた。
「でも……お前が研究を続けていれば、俺の領土にも来るし、報告にも来るだろう。
そうすれば、俺との繋がりも途切れない――
だから、すぐには渡してやれなかった。すまなかった……」
小さな呟きのように漏れたその言葉には、後悔と独占欲が入り混じっていた。
エリナは、胸の奥でざわつく感情を抑えきれず、指先を軽く握りしめる。
迷いを一瞬見せたあと、レオンは静かに視線をエリナに合わせる。
「俺は……ずっと、お前が好きだった」
レオンはじっとエリナを見つめたまま、言葉を探すように続ける。
「真面目で努力家なところも、頑張りすぎて危なっかしくて、ほっとけないところも」
「でも、何より……研究の話を嬉しそうに話すその顔が愛おしくて。
ずっとその顔を見ていたくて、いつも研究の話ばかりしてしまった。
俺にとって、あの時間は特別なんだ」
エリナは信じられず、言葉を失う。
いつも研究の話ばかりで、女として見られていないと思っていたのに――胸の奥が熱くなる。
溢れる想いを抑えきれず、エリナは迷わずレオンの胸に飛び込んだ。
「私が好きなのは、あなただけよ」
レオンの眉がわずかに寄る。言葉を反芻するように、ゆっくりと口を開け――
その瞳には、理解できず戸惑う色が混じっていた。
「で、でも……俺となら結婚はできるだろ?」
「思いが通じ合ってないって意味よ!
何も言ってくれないから、そんな風に思ってるなんて分かるわけないでしょ!?」
エリナはムッとして答える。
「本当に、無愛想で自分勝手な人ね……」
エリナは呟きながらも、レオンの胸に顔を埋める。
「でも、本当は不器用で優しい人……」
そして顔をあげ、今までの想いが自然に言葉になってこぼれ落ちる。
「大好きよ……」
レオンは一瞬言葉を失い、じっとエリナを見つめる。
眉をわずかに寄せ、考え込むその瞳には、やがて静かに、けれど強い想いが溢れ――すべてを受け止める覚悟が表れていた。
優しくエリナの髪を撫で、そっと顔を持ち上げる。
二人の呼吸がわずかに重なり――互いの鼓動が伝わる距離で、レオンは迷いなく唇を重ねた。
一瞬、時が止まった。
胸の奥で、何かがほどけるような温度が広がる。
エリナは息を吸うことすら忘れ、ただ呆然とその感触に震えていた。
(――な、なに、今の……?)
遅れて、現実が押し寄せる。
頬が一気に熱を帯び、鼓動が跳ね上がった。
「ちょっ……!! 急に何するの!!?
というか、もう薬の効果は切れたの?」
「あぁ。もう随分前から普通に動ける。
これだけ話もできてるんだから当然だろう?」
(そうだった! レオンが可哀想で量をものすごく減らしたんだった! )
焦るエリナを見て、レオンは微笑む。
「そんなに驚くことか? さっきはお前からしてきたくせに」
「さっきは必死だったのよ……! そんな言い方しないで!!」
顔を真っ赤にして照れるエリナ。
「と、とにかく、これで婚約破棄はなしってことでいいのよね?」
「あぁ、そうだな」
そう言うとレオンはエリナに近づき、そっと背中に腕を回す。
頬を赤らめながらも、エリナはその腕の中で彼を見つめた。
レオンもまた、愛おしそうに彼女の顔を見つめ返す。
「あぁ、それと……」
レオンは微かに肩をすくめ、バツの悪そうに目をそらす。
思わずエリナは「え、なに?」と身構えた。
「お前が色気ない、と言ったの……あれも嘘だ」
「え……?」
「今のままのお前に、もうとっくに魅了されてる……」
その言葉を聞いた途端、エリナの胸は跳ねるように高鳴り、頬はさらに熱を帯びた。
(えっ、そんな風に……私のこと……!?)
思わず手で口元を押さえ、目をぱちぱちさせながら照れる。
胸の奥までじんわり温かさが広がり、心の中が言葉にならない喜びで満たされる。
二人はしばらく言葉もなく寄り添う。
抱きしめた腕の温度だけで、ずっとすれ違っていた想いを確かめ合う。
それは長いあいだこぼれ落ちていた想いが、
ようやく柔らかな土に触れて、そっと根を張りはじめるような確かなぬくもりだった。
エリナの胸にも、静かに新しい芽が息づきはじめていた。
これからどんな花を咲かせるのか──その未来を思うだけで、頬がまた熱くなるのだった。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。




