第80話 愛のゆくえ
イオリとベヒモスはしばし睨み合いました。
離れた場所で、ゼーロンがのんびり草を食んでいます。
そのとき風が吹き、イオリの耳もとのピアスが揺れました。
かすかな揺れが波紋のように広がり、イオリの心はその波紋に乗って誘われました。
過去に。
夜の空気に焼き菓子の甘い香りが立ち込めています。
イオリとオスカーは夜祭りでにぎわう通りを歩いていました。
「おまえ自分の誕生日知らないのか?」
呆れたオスカーが首を振ります。
「知らないよ。おれ今年で十四になるのは確かだけど、生まれた日は知らない」
「じゃあ今日が誕生日だ。プレゼント買ってやる」
その日は七月一日でした。
オスカーは屋台で雫型のピアスを二個買いました。
オスカーの左耳にはリング型のピアスがあります。
「リングのピアスは勇気のしるし、雫型のピアスが二つ揃うと友愛のしるしだ。つけてみろ」
通りで占いをやっている呪術師の老婆に頼んで左右の耳に穴を空けてもらい、イオリはさっそくピアスをつけました。
「ごらんなさい」
老婆がかざした手鏡に映る自分を見て、イオリは頬を染めました。
屋台を離れ、川辺で涼みながらオスカーが尋ねました。
「どうだピアスは? 気に入ったか?」
「うん悪くない。ウソ。すごくいい。ありがとうオスカー」
「イオリ」
オスカーが急にまじめな顔になったので、イオリはちょっと緊張しました。
「おれはおまえにいろんなことを教えた。
体は鍛えるものではなくいたわるもの。
血はクソより汚い。
不滅のティグレの探し方。
文字の読み書き。
敵の強弱の見抜き方。
ウソの見抜き方。
名前の売り方。
得意技は最後まで取っておくこと。
女はきれいになればなるほど強くなること。
それから自分を愛する剣士は強いってこと。
これはマジだ。
愛の基本は自己愛だ。自分を愛する人間は他人を愛することもできる。ピアスをつけた自分を見てかわいいと思ったろう? みんな大好きな自分を守ろうとして強くなる。とくに女はそうだ。おまえは女だから自分をかわいいと思う気持ちをこれからも大切にしろ。おれは今愛について教えた。おまえに教えるのはこれで全部だ。イオリ、おれと一緒に帝国で近衛兵にならないか? 二人で太陽王の護衛になって贅沢な生活を送ろう」
「……ごめんオスカー。おれ、やっぱりあきらめきれない」
「そうか」
夜風がオスカーのリングピアスをそっと揺らします。
「どうしてもやるんだな?
カミへの復讐を」
(この女の欲望がわかった)
ベヒモスの顔に会心の笑みが浮かび、次の瞬間、一本だけ残った牙がボー……と青く発光しました。
するとイオリの視界が陽炎のように滲み、揺らぎが消えると、そこにあらわれました。
イオリがもっとも見たいと望んだものが。
彼女の欲望の源泉が。
カミの姿を見た者はいません。
女神の聖典に、地上に顕現したカミの姿は
「あまりにもおそろしく、見た者は全員発狂しました」
と書かれています。
その姿を、イオリは見ました。
(ここは?)
イオリは海にいました。
夜の大海原です。
泳いでいるのではなく、イオリの体は海のわずかな上空に浮かんでいました。
四方を見渡しても陸地はまったく見えません。
満月の光に照らされ、海面のわずかな起伏がはっきり見えます。
するとかなたの海が、急に山のように盛りあがりました。
(なんだ?)
イオリは目を凝らしました。
海水に洗われた巨大ななにかを、月の光が青く照らします。
(あれは)
イオリの口の中がみるみる乾きます。
無敵のドラゴン殺しは確信しました。
(あれは、カミだ)
なにかが爆発するような音がして、イオリは我にかえりました。
空き地に土埃が立ち込めています。
ベヒモスの巨体は、どこにも見当たりません。
(また地底に隠れた)
そう察してイオリが腰の刀に手をやったときです。
「イオリ!」
血を吐きながらオスカーが絶叫しました。
イオリの背後で突如地面が爆発しました!
(復讐するは我にあり)
地中からあらわれた怪物は呪いの文句を唱えながら、イオリのがら空きの背中に牙を突き立てました。
オスカーもクロも牙に貫かれたイオリの姿を幻視しました。
しかしそうはなりませんでした。
今度はイオリが消えたのです。
(どこへ行った!?)
うろたえたベヒモスは太い首を左右にめぐらせ、周囲を見ました。
しかし美味そうな腰つきの女剣士はどこにもいません。
そのとき鳥の影がベヒモスの顔に落ちました。
ベヒモスはいらただしそうに頭上を見ました。
(あ)
ツナギの背中に翼を生やしたイオリが、怪物の真上を飛んでいました。
先日ジェイムズに斬られた左側の翼は回復しています。
竜の生命力は驚異的です。
そのときイオリの瞳が青く光りました。
不知火丸の刃の光で目を洗ったのです。
光で洗った目にはっきり見えました。
ベヒモスの一本だけ残った牙の真ん中にポツンと光る、小さい玉が。
あれこそ怪物に宿った生命の源【不滅のティグレ】です。
(オスカーのいった通りだ)
空高く飛翔したイオリは急降下しながら不知火丸の刃を上にして、顔の間近で構えました。
手を交差させて柄を持ち、逆さにした刃をまっすぐ突き出すイオリを見て、オスカーはかすれ声でつぶやきました。
「おお、霞の構え」
霞の構えはかつてオスカーが得意にした構えです。
同じ構えをする弟子の姿に全盛期の自分の幻影を重ね、瀕死の師は血に濡れた胸が乾くような思いをしました。
そしてオスカーはこんな言葉をつぶやいたのです。
「イオリのやつ、おれに走馬燈見せやがった。生意気だぜ……」
ベヒモスは自分に向かって飛んでくる黒い天使に牙を突き立てました。
(死ね女剣士!)
「居合術【風神の門】」
土煙と血の匂いが立ち込める空間を祓うように、清冽な一条の青い閃光が走ります。
光とともにベヒモスの巨大な牙が宙を舞いました。
イオリの水平斬りです。
牙は大地に突き刺さり、怪物は地響き立てて地面に倒れました。
地面に横向きに倒れたベヒモスは、すぐ白い灰になって散りました。
イオリは刀を鞘へ納めると、クロに抱かれた師匠に駆け寄りました。
「オスカー!」
「愛してるっていえ」
「愛して……」
る、といい終える前に、オスカーは目を開いたまま首をがっくりと垂れました。
「オスカー」
イオリは師匠の顔の傷をそっと撫で、抱きしめました。
なにも知らなかったイオリに剣と、文字の読み書きと、自分を愛することを教え、自身は必殺剣【愛のゆくえ】であらゆる悪を屠ってきた白い天使は、最期に真っ赤な血に染まって昇天したのです。




