第79話 わが師オスカー・レノン
シュガーとベヒモスの格闘は続いています。
シュガーは巨大な顎で噛みつこうとするのですが、ベヒモスの動きが予想以上に俊敏で、なかなか捕まえられません。
逆に二本のツノで貫かんとベヒモスが突進してきます。
「よけろ!」
クロが叫ぶより速く、シュガーは巨体に似合わぬ身軽さでひょい、と攻撃をかわしました。すると
「あれ?」
「ベヒモスが」
「消えた?」
シュガーだけでなく、クロ、ブルック、イオリの三人ともに首を振って空き地を見渡しました。
しかし怪物の姿はどこにもありません。
イオリは首をかしげました。
「おかしいな。カルマ特有の妖気まで消えた……」
「シュガー!」
イオリの疑問をさえぎるようにクロが絶叫します。
シュガーの背後で地面が爆発し、地底からベヒモスが出現しました!
恐竜の悲鳴が森の大木を揺らします。
ベヒモスの二本のツノで横腹を貫かれ、シュガーは地面に倒れました。
「ホラー!」
呪文を唱えると恐竜は元のトカゲにもどりました。
クロはシュガーに駆け寄りました。
ベヒモスが血のついたツノをかかげ、勝ち誇ったように咆哮をあげます。
「クロあぶない! ……ブルック?」
イオリはキョロキョロ周囲を見渡しました。
なんということでしょう、今度はブルックが消えたのです。
「おいブルック! どこだ!」
イオリはとっさに涙ぐむほど慌てました。
「ブルック! ふざけてないで出てこいよ、ブルック!」
「ここ、ここですケロ」
その声は頭の上から降ってきました。
見あげるとブナの大木の枝に気を失ったブルックと、彼を囲む数人の半裸の少年、そしておへそが見える短いタンクトップに草色のパンツを履いた大柄な美女がいます。
赤い髪に黒い瞳の美女はイオリが剣士の大会の二回戦で戦った相手です。
あのときは男装でしたが、今は豊麗な女性美が剥き出しです。
ただ両耳の青いピアスだけは大会のときと変わりません。
意識がないブルックを見てイオリは青ざめました。
「ブルック大丈夫か!? アンナ・レンブラント!」
大会関係者がアンナを「女盗賊」と呼んだのを思い出し、イオリは喉から血が出るほどの大声で怒鳴りました。
「ブルックを解放しろ! 解放したら金をやる!」
「ごめんなさいケロ。そうはいかないのですケロ」
アンナの言葉には北方の大国タイタン共和国の訛りがあります。
「お金はメルヴィン殿下から直接いただくことになっているのですケロ。それにお金はブルック殿下と交換するから解放はできないのですケロ。殿下は薬で眠ってるだけだから心配いらないですケロ。では失礼しますケロ」
「あ、待て! ……」
「イオリ!」
クロの絶叫を地響きがかき消します。
ベヒモスが二本のツノを突き出し、イオリ目がけて突進してきました!
完全に虚を突かれ、イオリは刀も抜けず棒立ちになりました。
(やられた)
そう観念したとき、イオリの頭上を黒と白の流線が飛び越えました。
海で獲物を追う鮫のような銀色の光が閃き、ベヒモスが悲鳴をあげます。
「……!」
左目を斬られたベヒモスは、おじけついたように後退しました。
黒い馬に乗った白い剣士が馬上から声をかけます。
「イオリ大丈夫か?」
「オスカー!」
「そこを動くな」
オスカーは山岳馬ゼーロンを操り、ベヒモスのまわりを疾駆しました。
左目を斬られたベヒモスは激怒して馬に突進しました。
「は!」
オスカーは巧みな手綱さばきでベヒモスの突進をかわしました。
しかしカルマの攻撃は執拗です。
高速の突きが何度もゼーロンを襲います。
ちなみにゼーロンのような山岳馬の平均時速が五十キロ、ベヒモスの時速が六十キロです。
速さではベヒモスが上です。
しかもベヒモスの体重は一トンを越えます。
もしベヒモスの牙が人体に触れたら、かすっただけで臓腑がこぼれるのは確実です。
しかしオスカーは馬を巧みに操り、ベヒモスの一直線の攻撃を次から次へと右に左にかわしました。
(お?)
ベヒモスの凶悪な面構えがキラキラ光るのにイオリは気づきました。
血と汗に濡れているのです。
(ベヒモスが疲れてる)
イオリがそう思ったとき、オスカーがベヒモスの正面に回り込みました。
「は!」
発破をかけるとオスカーは猛然と怪物に突っ込みました。
ベヒモスも歓喜の表情を浮かべ突進します。
重量級の生物が真正面から高速で激突するのです。
両者の立てる地響きで大地は地震のように揺れました。
「オスカー!」
無茶だ! とイオリが叫ぼうとしたとき、空き地に影が落ちました。
オスカーはゼーロンの鞍からジャンプし、一回転して突進してくるベヒモスを飛び越えました。
「……!」
ベヒモスの絶叫が山林に轟き、投げられた槍のように、地面に牙が突き刺さりました。
オスカーは空中で回転しながら、ベヒモスの右の牙を斬ったのです!
ベヒモスの突進をぎりぎりですり抜けたゼーロンの鞍に、オスカーは腰から着地しました。
口から涎のようにダラダラ血を流し、ベヒモスは地面に膝をつきました。
イオリは拳を握りしめました。
(オスカー得意の疾風剣【愛のゆくえ】だ)
オスカーは再び怪物の正面に立ちました。
「おれの愛弟子をいじめるやつはゆるさねえ」
それはオスカーの死刑宣告です。
「は!」
オスカーはゼーロンに発破をかけました。
黒い馬が猛然と駆け出します。
ベヒモスは地面に膝をついたまま、うつろな表情で正面から迫る敵を見ています。
(勝った)
うしろで見ているイオリがそう確信したときです。
ベヒモスの残った左の牙が、ボーッと青く光りました。
ベヒモスは三百年以上年生きている生物です。
騎士や剣士を何十、いや何百人葬ったか、自分でも覚えていません。
ベヒモスというかカルマの特徴は野生の本能と知性を併せ持つ点です。
カルマは人語を理解するのです。
「おれの愛弟子をいじめるやつはゆるさねえ」
オスカーの死刑宣告が、ベヒモスにヒントを与えました。
(このおそろしい人間は、あの女剣士を愛している)
それを利用しようと思いついた怪物の顔に、ゾッとするような笑みが浮かびました。
ベヒモスの牙が光った次の瞬間。
それは一瞬のできごとでした。
ほんの一瞬、突進するゼーロンのスピードが緩みました。
ベヒモスはその隙を見逃しません。
すっくと立ちあがると、怪物は短い距離を走りました。
その脇をゼーロンがすり抜けます。
ゼーロンの鞍にオスカーの姿はありません。
オスカーはベヒモスの牙に胸もとを貫かれ、空中に浮いていました。
「オスカー!」
ベヒモスは猛然と首を振りました。
牙に貫かれた獲物の傷口や口から、血が飛び散ります。
オスカーの体から血が飛び散るたび、イオリは自分のかけがえのない思い出が粉々に砕け散るような気がしました。
やがてオスカーの手から愛剣ピストリークスが落ちました。
さらに大胆にベヒモスが首を振ると、オスカーは糸が切れた人形のように地面に叩きつけられました。
「オスカー!」
いち早くイオリが駆け寄り、クロもオスカーに手をかざし、治癒魔法を施しました。
「ありがとうお嬢ちゃん痛みが消えた。服が汚れちまった」
オスカーの白いスーツは血でまっ赤に染まっていました。
イオリは師の顔をそっと撫でました。
「オスカー……」
「いいかよく聞け。ベヒモスは強欲の悪魔だ。相手が見たいと望む【欲望】を相手に見せる。今おれもそいつを見せつけられて足もとをすくわれた。しかしそれはベヒモスの幻術だ。惑わされるな。やつの不滅のティグレは残った牙にある。牙を斬ればティグレも消え、やつも死ぬ。これは命令だ。イオリ、
かっこいいとこ見せろ」
「わかった。オスカー・レノン直伝の剣術をあいつに見せてやる」
イオリは腰の不知火丸に手を置き、立ちあがりました。
その全身からゆらゆらとオーラが立ち昇ります。
オスカーに斬られた目と口から血を流し、ベヒモスはまた不敵に笑いました。




