第68話 アガルタのイオリ
「うわあああぁ……」
観客の歓声が、潮騒のように響きます。
イオリは西側スタンド席の下に設けられた、ガランとだだっ広いスペースに一人でポツン、と立っていました。
準決勝第一試合が終わるのをここで待っているのです。
第一試合が終わったら係員が呼びにくる手はずになっています。
対戦相手のアレクセイ・ネクラーソフは東のスペースにいるはずです。
薄暗い空間でイオリは目を閉じました。
「なんだか眠くなってきた……ん?」
イオリは目をあけました。
こちらにヒタヒタ近づく足音が聞こえたのです。
目を凝らすと薄暮にぼんやり赤い色が浮かんで見えました。
「フリオ?」
メッセンジャーボーイの赤い帽子をかぶったフリオが、手を振りながらこちらに駆け寄ってきます。
「イオリさん!」
「よお、こんなところにどうした……」
とイオリが笑顔で声をかけたときです。
「だめです!」
間近に迫ったフリオが、突然奇妙なことをいい出しました。
「ぼくはぼくじゃありません!」
「なんだって?」
「体を乗っ取られました! 今のぼくは殺し屋……チィッ」
フリオの声が若者から中年に変わった瞬間、イオリは悟りました。
(こいつコンスタンチン!)
フリオいやコンスタンチンは上着の懐から抜いた短剣を振り回しました。
薄暮に走る白刃の速さと鋭さに押され、イオリは刀を抜くこともできず後退します。
「殺し屋コンスタンチンが正体不明なのはこういうわけか!」
「その通り。転移魔法【暗黒神話】。殺した相手の肉体に憑依する魔法だ。わたしはカミと契約してこの能力を得た」
「きさま【契約者】なのか!?」
「いかにも。たくさん殺すことがわたしに与えられた使命。殺し屋にうってつけだ」
「なぜおれをねらう!」
「アレクセイ殿下をお守りするためだ。殿下にはカラミル帝国復興の礎になっていただく。だからきみに死んでもらう」
「ほかにも危険な剣士はいるぞ?」
「きみ以外の剣士に殿下は絶対負けない」
コンスタンチンの鋭い一閃がイオリの頬をかすめます。
「クソ! あのコンスタンチンが王党派とはな。革命があったのが五十年前。あんた一体年はいくつだ?」
「自分でも忘れたよ。さてイオリくん、きみにわたしが斬れるかな?」
(斬れない)
間一髪でダガーをよけながらイオリは唇を噛みました。
見た目はもちろん薄暮に漂うかすかな香水の匂いも、以前のフリオとまったく同じです。
(おれにフリオは斬れない!)
(フフ、やはり甘いな)
間段なくダガーを振り回しながらコンスタンチンはほくそ笑みました。
(イオリくん、きみはやさしい。わたしはきみの涙を何度も見た。そして確信した。きみに勝つにはきみのやさしさにつけこむしかないと。そこでわざわざきみと仲のいい友人に憑依したんだよ。それに)
「うわ!」
イオリは悲鳴をあげました。
突然視界が真っ暗になったのです!
「クワーッ」
イオリの眼前で羽根を広げた鷲が、勝ち誇ったように叫びます。
予想外の展開にショックを受けたイオリは、腰の刀を抜くこともできません。
(いい殺し屋は料理に二度手間をかけるものなんだよ、おやすみイオリ)
コンスタンチンはイオリの左側に回ると、心臓目がけてダガーを振りおろしました。
(もらった!)
「イオリさん!」
そのときコンスタンチンに乗っ取られた体が発したのは、まぎれもないフリオの声でした。
鷲の羽根で視界をふさがれたイオリにとって、その声は光明です。
羽根に視界をふさがれたまま、イオリは声がした方向に抜刀しました。
「居合術【風神の門】!」
薄暮にダガーの白閃と不知火丸の青い光芒が交差します。
「そんな、バカな……」
肉が断ち斬られる鈍い音とうめき声、そして鷲の悲鳴が聞こえます。
鷲が飛び去り、イオリは視界を取り戻しました。
地面にフリオがあお向けに倒れています。
もし目が見えていたら、イオリはフリオを斬ることはできなかったでしょう。
コンスタンチンはよけいな真似をしました。
慣れ親しんだセオリーを変えられないベテランらしいコンスタンチンの弱点が、彼を自滅へと導いたのです。
イオリは倒れたフリオをそっと抱き起こしました。
「大丈夫か?」
「ぼくはもうだめです。きっとこれは女神さまがくだされた罰です」
「なにをいうんだ?」
「イオリさん、勝利広場で会ったエドを覚えてますか? あのオレンジ髪の大男を」
そういわれてイオリは鎖鎌を持った狂暴な面構えの大男を思い出しました。
「覚えてるよ」
「あんな凶悪な人でなしと付き合うのは、まともな人間じゃないです。ぼくも相当悪い人間でした」
「フリオ」
「女神さまが『才なき者は夢ではなく鏡を見よ』と仰ってます。なのに愚かなぼくは漫画家になるという夢を見てしまいました。夢見て知ったんです。
自分にまったくなにもないということを。
空っぽな自分に耐えきれなくなったぼくは悪事に走り、いろんな人に迷惑をかけました。その罰が、今くだったんです」
フリオはそこで咳き込み血を吐きました。
「フリオ!」
「……ぼくの名前はフリオ・キャンバスです。ぼくのキャンバスは余白を残して終わります。イオリさんはきちんと生きて『アガルタのイオリ』を完結させてください」
「おれは漫画なんて描けないよ」
「あなたの人生が作品です。必ず最後まで完結させて、ぼくに『アガルタのイオリ』を、読ませてくださいね……」
フリオは息を引き取り、イオリの腕の中でその体は白い灰になりました。
「フリオ」
脆く崩れ散る灰を抱きしめ、イオリはガタガタ震えました。
悲しすぎて、もはや泣くことさえできなかったのです。
「ん?」
東側のスタンド下に置かれたベンチでアレクセイが休んでいると、羽根を畳んだ大きな鳥がひょこひょこ歩いて目の前にやってきました。
(鷲?)
まわりに人は大勢いますが、アレクセイ以外に鷲に気づいた人間はいません。
嘴で自分の足首を突き、鷲はそこに結わえられた手紙を器用に外しました。
くわえた手紙をアレクセイの足もとにポイ、と捨てると、鷲は羽根を広げ悠然と飛び立ちました。
アレクセイは足もとに落ちた手紙を拾って読みました。
「『イオリは不知火流奥義を使うと、しばらくの間左目が見えなくなる』
ほほぅ……あの」
アレクセイは黒いローブを着た、若い女性に声をかけました。
「あなたは魔法使いですね?」
「はい」
大会専属の魔法使いがうなずきます。
「どこかお怪我をされましたか?」
「いえ……ちょっとお願いがあるのです」
「きゃああー!」
「うわあ!」
人々の悲鳴や怒号で、闘技場のスタンドは爆発しそうなほど揺れました。
準決勝の第一試合が、たった今終わりました。
ジェイムズの一閃で、東方の剣士ゼンキの首が宙を舞ったのです。
鈍い音立てて地面に落ちたゼンキの首は、コマのように回転して止まりました。
「今までずっと相手の手や指しか斬ってなかったのに」
「強敵には容赦しねえのさ」
「モモ」
生首になったゼンキが、地面を舐めながらつぶやきます。
「コハルを頼む」
東方の剣士がいった最期の言葉は、だれにも聞こえませんでした。
「勝ったのはジェイムズ・ボッシュ! ボッシュは昨年に続いて決勝進出、前人未踏の大会連覇を目指します。まさに絶対王者です!」
ジミー・バッファーの熱狂的なアナウンスがすでに血に酔った観客をさらにあおります。
ジェイムズは観客に手を振り引きあげました。そして
「きた」
貴賓席のブルックがかすれた声でささやきます。
東西のゲートに、アレクセイとイオリがあらわしました。
両者の手に黒い鞘と赤い鞘の刀があります。
不知火丸と不知火丸が、雌雄を決するときがきたのです。




