第56話 継母と息子
それはジェイムズが十歳のときでした。
一年前実母であるルイーズ妃が亡くなり、父ローズ王は後妻を迎えました。
新妻は大富豪フリーダム家の娘で当時十九歳のラウラです。
わずか九つちがいのラウラと初めて対面し、ジェイムズは母となる人のあまりの美しさにハートを射抜かれました。
(聖カトリーヌだ)
神話時代、生贄としてカミに捧げられた伝説の美少女の姿を、ジェイムズは母となる人に見たのです。
二年後、二十一歳のラウラは男の子を生みました。
それがブルックです。
ジェイムズは三人兄弟の中でいちばんブルックをかわいがりました。
新しい母におもねったのではありません。
本気でかわいがったのです。
ジェイムズはやさしい少年です。
ジェイムズの継母への思いは募り、いつしかラウラも彼の気持ちに気づきました。
しかし継母が息子の気持ちに応えることはありませんでした。
そしてジェイムズ十七歳、ラウラ二十六歳のとき。
ジェイムズは強硬手段に出ました。
お城の廊下でまわりに人がいないすきをついてラウラを抱きしめ、強引にキスしたのです。
「ブルック」
ラウラの言葉にジェイムズはハッとして振り返りました。
女の子のように白いドレスを着た五歳のブルックが、ぽつんとそこに立っていました。
ラウラはジェイムズを突き飛ばし、ブルックの手を引いてその場から去りました。
「母上」
取り返しのつかないことをした、とジェイムズは拳で自分の頬を殴りました。
この小事件の数日後です。
大陸全土を大地震が襲ったのは。
地震発生直後、北の国境を越えてバベル大帝国の軍隊がゼップランドの領内に侵入しました。
継母への望みを絶たれたジェイムズは自ら兵役に志願し、黄金騎士団の団長ジェットとともに最前線で大活躍しました。
ゼップランド防衛軍は見事帝国軍を退け、ジェイムズはジェットとともに一躍国民的英雄になったのです。
英雄になってもジェイムズの気持ちは晴れません。
ジェイムズはこの戦争で死ぬつもりでした。
継母への愛が永遠に報われないからです。
しかし望んだ死は得られず、逆に英雄に祭りあげられてしまいました。
王都にもどり、軍服を着て町を歩くジェイムズを、女どもがキラキラした目で見つめます。
しかし本人は
(死に損なった)
と嘆いているのです。
急に空が暗くなったのでジェイムズは城へ戻りました。
これからどうすればいいだろう? とぼんやりしたことを考えながら、ジェイムズは城内を歩きました。すると
「ジェイムズ」
ハッとして顔をあげると、そこに愛しい継母がいました。
知らぬ間に先日自分が過ちを冒したあの廊下をジェイムズは歩いていました。
母は涙を流していました。
それはジェイムズが見た中で、もっとも美しい母の姿でした。
「母上」
ラウラは息子に駆け寄ると抱きしめ、顔をあげました。
目を閉じ、自ら唇を差し出します。
ジェイムズは夢中になって母の唇にキスしました。
ふつうの親子がするのとはちがう、濃密なキスを。
母の顔にまぎれもない官能が宿っているのを見て我慢できなくなったのです。
継母の唇と舌の柔らかさに、ジェイムズは呆然となりました。
「……母をこんなに困らせるなんて悪い子」
ラウラは頬をうっすら赤く上気させ、艶然と笑いました。
「一度だけよ」
そのとき窓の外で、音のしないカミナリが鳴りました。
その二年後、ラウラは謎の病に倒れ急死しました。享年二十八。
まだ七歳だったブルックは嘆き悲しみ、十九歳のジェイムズは狂乱しました。
「母上が死んだのはおれのせいだ!」
ジェイムズはそう叫んで出奔し、街道へ入って行方知れずになりました。
ジェットは黄金騎士団の部下を使って戦友をさがし、およそ一年に及ぶ調査の結果をローズ王に報告しました。
「ジェイムズ殿下は荒野で自害されたと思われます」
この報告があったのが今から八年前です。
しかしジェイムズは、生きていました。
その日ブルック一行はドストエフスキーの家に泊めてもらいました。
老剣豪はあす弟子たちと試合場がある怠惰の町へ馬車で向かいます。
ブルック一行も馬車に同乗するよう誘われましたが断りました。
カミとの契約で目的地まで乗り物に乗らず、常に歩かねばならないからです。
死んだと思った兄と八年ぶりに再会したブルックは気疲れしたようで、クロと一緒に早々と寝室に引きあげました。
イオリは居間に残り、お菓子を摘まみながら、老剣豪と夜遅くまで話し込みました。
「道場の維持に金がかかるというのはウソでしょう?」
イオリは老剣豪に単刀直入に尋ねました。
「地位も名誉もあるのに先生はなぜ今さらこんな大会に出るんです?」
「それをいうにはまずわしの半生を語らねばならん。イオリ殿、昔話は好きかね?」
「好きです」
「そりゃよかった。わしはカラミル帝国に生まれた。そなたも名前ぐらい知っとるじゃろう? カラミルは大陸東方に存在した大国じゃ」
老剣豪は目を細め、懐かしそうに百年前の母国を回想しました。
「わしは五歳で剣を習い始めた。カラミルの子どもはみんなそれぐらいから剣を学ぶ。カラミルは怪物の巣でな。そこら中に化け物がうじゃうじゃおるから剣を身につけねば生きてゆけぬのだ。わしは頭が悪かったからひたすら修行に励み、十代半ばで王都にドストエフスキーあり、とその名を知られるいっぱしの剣士になった。しかしその修行を十七歳で一時中断せねばならなくなった。
刑務所にぶち込まれたんじゃよ」
「刑務所?」
ドストエフスキーの半生は本や舞台になるほど有名ですが、そんな話は聞いたことないぞ、とイオリは耳を澄ませました。
「そうじゃ。当時わしは仲間と政治活動しておっての。政治といっても大したものではない。仲間と勉強会を開いて異国の難しい本を読んだり、街頭で演説したり、労働者の集会の用心棒をやったりと、やっておることは他愛のないものじゃった。リーダー格はセルゲイといういつも灰色のハンチング帽をかぶった若者で、わしは二つ上のセルゲイを兄のように慕っていた。それからもう一人忘れられない仲間がおった。
わしと同い年のソーニャという娘じゃ」
そのときドストエフスキーの灰色の目がキラリと光りました。
涙が滲んだのです。
「ソーニャは娼婦じゃった。賢い子じゃったが家族を支えるための仕事がほかになかったんじゃ。これもネクラーソフ皇帝の失政が生んだ悲劇といえる。わしはよくソーニャと一緒に連絡係として行動した。一人より二人で動くほうが怪しまれん。十七歳の健康な男女が長い時間一緒におったらそれは親しくなるし男は惚れる。うむ、十七歳のわしはあの子に惚れておったよ。ソーニャは美しく気立てのやさしい子じゃった」
「ソーニャさんは先生に惚れていたんですか?」
「それはわからん。なんせ当時のわしは女の手も握ったことがないうぶな男じゃった。女の気持ちなんぞ外国語よりわからん。わしは将来ちいさな剣道場を持ち、妻となったソーニャが自分を支えてくれる夢を勝手に描いておった。
しかしその夢は、ある日あっけなく破れた」




