第119話 カミが選んだ女
ブルックがまだ暗い空を見あげると、女神は黄金の粒子となって消滅しました。
「女神は消えたのか?」
イオリが青い目を瞬かせます。
女神がまとっていた黄金のオーラは、盲目のイオリにもはっきり見えました。
そのオーラは消えました。
「それにしても女神を呼び寄せるなんてすごいな」
「ちがうちがう! あの人は本物の女神じゃない。神曲崩壊は人々の願いや祈りを実体化する魔法なんだ」
「願いや祈り?」
「そう。ゼップランドの人々は『女神さまに実在してほしい』と何百年も願っている。そんな人々の祈りをぼくの魔法がエネルギーとして吸収し、実体化した。それがさっきの女神だ。ぼくは器として機能しただけでほんとうにすごいのは人々の夢見るエネルギーだ。火の山の噴火以上のエネルギーだからすごいよ」
「夢見るエネルギー……」
「夢が、叶った」
そうつぶやいて死んだジョゼの声が、そのときイオリの耳にはっきり聞こえました。
火の山の火口で動かなくなったケルベロスを見て、草原で待機する王族や騎士は騒然となりました。
「ケルベロスが死んだ?」
「ということは……」
「カミも死んだ?」
ピラミッドの祭壇にはマリアの弟子が十数人いて火の山を見あげていました。
クルシミの信者はいつの間にか姿を消していますが、今はそれどころではありません。
「カミが死んだ? 古代文明を滅ぼしてから千年間、人類を支配し続けたあのカミが?」
今やバタイユ流剣術の筆頭格となったブランドンが呆然とつぶやいたときです。
「いいえ、まだ死んでません」
「え?」
ブランドンが振り返ったとき、彼に声をかけた人物の姿はもう消えていました。
火口を覆うようにうつ伏せになって死んだケルベロスの背中にクロとルークが舞い降り、イオリは抱いていたブルックをおろしました。
「やれやれ、これでぼくらの旅も終わりだね」
ブルックがなにげなくつぶやいた言葉を聞いて、イオリはなぜか頬を赤らめました。
いつかの夜、ブルックとかわした会話を思い出したのです。
「じゃあ目的を果たして旅が終わったあとは?」
「そのときはきみにキスする」
「キスだけ?」
「……きみがゆるしてくれるならそれ以上もする」
「どうしたんだいイオリ? 顔が赤い……おい!」
ブルックが絶叫した瞬間、火口に地響きが轟きました。
切断されたシュガーの巨大な頭が落ちてきたのです!
恐竜の頭は火口の縁にぶつかり、斜面を岩石のようにすべり落ちました。
イオリはすばやく振り向きました。
黒い影が振りおろした豪剣を受け止めようと刀を水平にかざし、しかし受け止めきれずにイオリはうしろへ吹っ飛びました。
「イオリ!」
「くるな! クロ、ルーク、ブルックを頼む」
「今の一撃で死ななかったのは褒めてさしあげます」
マリア・バタイユは背中の翼を畳み、ほほ笑みました。
黒い詰襟の胸もとは斬り裂かれていますが、血は流れていません。
中段に構えるイオリの手が震えるのは、たった今受けた剣のダメージです。
(すさまじい一撃だ。ピラミッドの祭壇で斬り合ったときよりずっと重い)
「マリア、なぜだ?」
「わたしはもはや人間ではありません。
カミです」
そういったマリアの青い瞳が、妖しく輝きます。
「なんだと!?」
カミがマリアに憑依した! と悟った瞬間、イオリの頬にピリッと痛みが走りました。
「ごめんあそばせ」
マリアが軽く振るった剣先から血が飛び散ります。
(さっきの斬撃を受けそこなったのか)
イオリの頬から鮮血が滴りました。
(クソ、大陸最強だったマリアの腕前が、カミが憑依してさらにレベルアップしてる)
「さきほどは不覚をとりました。今度はそうは参りません」
すす……と音もなく接近するとマリアは右手一本で剣を振るいました。
(なんだこれは!?)
勝負を見守るブルックは、驚愕のあまり目を見開きました。
片手で剣を振るマリアのその腕が、四本にも六本にも見えます!
「まあ」
剣を振るいながらしかしマリアは驚きの声をもらしました。
盲目のイオリが、縦横無尽かつ自由自在なマリアの連続攻撃を受けきったのです!
もしイオリの目がいつものように見えていたら、おそらく斬られたでしょう。
頬を叩く風、剣が空気を斬る音、さらに神剣メメント・モリに宿る殺気に対する純粋反応が、窮地のイオリを救いました。
「さすがです。イオリさん、あなたはわたし以外で最強の剣士です。
でも用心棒として、今のふるまいはどうでしょう?」
イオリはハッと見えない目を開きました。
敵と交戦するとき用心棒が絶対やらねばならないこと、それは守るべき人物を常に自分の背後に置くことです。
そうやって自分が盾となって依頼主を守るのですが、自分自身の防御に夢中なあまり、イオリはその鉄則を忘れました。
顔をあげたときブルックはイオリからはるかに離れていました。
マリアの向こう側にいたのです。
「ブルック逃げろ!」
イオリが絶叫したときマリアが振り向きました。
「ホラー!」
間髪入れずクロが魔法を発動します。
「防御魔法【天帝妖狐】!」
クロの眼前に鉄壁の盾となる魔法陣が浮かびました。
「斬剣戟【罪と罰】」
マリアが振りおろした剣は、しかし鉄壁の防御陣を紙のようにやすやすと斬り裂きました!
(だめだ)
ブルックはとっさにクロの前に出ると、ケルベロスの肉の壁を貫いた短剣をかざしました。
固い金属音が轟き、同時に血しぶきがあがります。
「ブルック! クロ!」
返事はありません。
王子とダークエルフはともに胸を斬られ、地面に倒れていました。
「ルークこっちにこい!!」
ブルックのもとに駆けつけようとする妖精を、イオリは大喝して呼び寄せました。
「うう……」
「痛いニャ……」
ブルックとクロが低い声でうめきます。
「二人は生きてる。ルークおまえの治癒魔法が頼りだ。おまえが死んだらすべて終わる。絶対おれから離れるな」
「わかった」
「殿下に近づいたらルークさんを斬るつもりでしたがさすがですわ。でもお二人の命も、そう長く持ちませんよ?」
「クソ、おまえもドストエフスキー先生の技が使えるのか?」
「ええ、わたしが先生の一番弟子なのをお忘れなく」
するとひさしぶりに亡き師の名前を聞いたマリアの脳裏に、ある日の思い出が浮かびました。
「先生、お慕い申しあげます」
十七歳のマリアは師であるドストエフスキーの胸に飛び込みました。
「これなにをする?」
「わたしを妻にしてください。お願いです先生」
「バカをいうな。わしは九十、そなたはまだ十七じゃ。そなたのように前途有望な若者に老人介護はさせられん」
ドストエフスキーはマリアの肩にそっと手を置きました。
「一時の気の迷いじゃ。そなたにはもっとふさわしい相手がいくらでもおるぞ」
「でも先生。先生が愛してくださらなければ」
マリアはすがるようにいいました。
「わたしは悪魔になるよりはかないのです」
(マリアの気が乱れてる?)
気息が乱れた理由はわかりませんがこれはチャンスです。
イオリは猛然と斬りかかりました。
「いけません。人の思い出に土足で踏み込んでは」
マリアは軽くメメント・モリを振るいました。
するとボトリと鈍い音がします。
「イオリ!」
ルークは悲鳴をあげました。
イオリの右手が肘のところから切断されたのです!
マリアは自分の足もとに落ちた腕を無造作に蹴り飛ばしました。
不知火丸を持ったイオリの右手はケルベロスの背をツー……とすべり、淵のところぎりぎりで止まりました。




