あの日の事
邪神の長く黒い爪は、今にも、音羽に突き刺さりそうだ。
長い髪を背中に垂らした音羽は、そっと床に、降り立つと、さっと髪を振った。音羽は、いつも、赤い振袖を着ている。髪を振ると、着物の袖が、揺れ、甘い香りが、辺りに散った。
「わしが、何かを隠しているだと?」
あの日。
岩の中に、閉じ込められていた音羽。一糸纏わぬ音羽に、僕は、奉納されていた着物を与えた。
「綺麗だな」
奉納されていた着物は、着る事なく亡くなった娘を、愛おしんで、奉納された物だった。
「こんな綺麗な着物、見た事ない」
そう言って、音羽は、ぎゅっと、両手で、握り締めた。
あれから、音羽は、一緒にいる。
僕の母親が、居なくなったのは、ずっと、前だから、音羽が関わる事はない。
「惑わされるな」
音羽は、言った。
「人の心を持て遊ぶのが、得意だ」
「ふうん」
不満そうに邪神は、その指を折った。
「随分、信頼しているんだね」
「お前よりずっとね」
「だけど、どこまで、信用できる?本当の姿をお前は、知らないんだろう?」
「本当の姿って?」
「どうして、閉じ込められていたのか、聞いた事があるか?」
僕は、音羽の顔を見た。
音羽は、ずっと、邪神の顔を見ているだけだった。
晴先生の顔は、半分、残っているものの、片方の頭から、生えた角は、捻じ曲がり、バランスが悪そうだった。晴先生自身の表情は、乏しく、閉じた目元から、一筋の涙が、流れ落ちていった。
「え?」
邪神自身が、驚いて、自分の手で涙を拭う。
「どうした?お前こそ、本当の姿を知らないんじゃないか?」
僕にとって、音羽の過去に何があろうと、家族と変わらない。
今更、音羽に、疑いの目を向けるなんて、できる訳がない。
「颯太。晴先生を起こすんだ」
「起こす?」
「この世界は、邪神が作り出した物、晴先生が目覚めれば、元の世界に戻れる」
「起こすって・・」
邪神自身も、涙が溢れる事実に驚いている。
「まだ、不安定なのは、そちらの方だったな」
「それを知ってて、金鎖を付けたか?」
「どうしても、手伝って、もらいたい事があるからな」
「こんな事をして・・・絶対、後悔させてやるからな」
涙に触れた邪神の手が、次第に人間の手に変わっていく。
「晴先生!起きて!」
颯太は、叫ぶ。
消えた筈のマンションの入り口が開き、小鬼達が、攻め寄せてきている。
「晴!起きろ!」
数珠を巻いた聡太の右手が、邪神の顔を掴み上げる。
「晴!」
慢心の力で、掴み上げた瞬間、大粒の涙が、こぼれ落ちた。
「うぅ・・・」
晴は、少し、低く唸ると、ようやく目を開けた。




