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 私はアパートに戻った。陽君が「どうだった? 家は?」と聞いたので、簡単に説明した。「今年はお坊さん呼ばなかったよ」 「ふーん」と陽君は言った。

 私は仕事に戻った。相変わらず、斎藤君はよそよそしかった。私とはあまり話したくなさそうにしていた。一度、私から声を掛ける機会があったけれど、目を合わしてくれなかった。私は、彼が忘れていったボールペンを渡したのだった。「ありがとう」と彼は言った。「助かりました」 それは赤の他人に対する挨拶だった。

 それでも私は、腹を立てなかった。彼の気持ちがわからないでもなかったから。…休憩時間、斎藤君は一心不乱に書き物をしていた。何かに取り憑かれているようだった。店長も石岡君も言っていた。

 「あれ、何書いてるんすかね?」

 「ちょっと怖かったね。ペンを動かしていない時、頭掻きむしって考え事をしていたけど、あんまり真剣だったから、話しかけられなかったよ」

 私もそんな彼を何度か見かけた。白いノートは少しずつ黒くなっていた。それが一体何なのかは彼にしかわからなかった。(小説だろう)とは私も考えていたものの、本当に小説かどうかはわからなかった。

 

 二週間が経った。何事も起こらなかった。陽君とは仲がいい期間だった。いくつか出来事があった。店に泥棒が入りかけた。けど大丈夫だった。毎日通る踏切で、自殺者が出た。だけど私が通る時には、血も死体も綺麗さっぱり洗い流されていた。誰もが何もなかったかのように平気で踏切を渡った。私も踏切を渡った。

 私は夢を見た。その夢は変なものだった。私の心に突き刺さる、嫌なものだった。きっと、話す価値があると思う。

 

 私は一人で寝ていた。陽君とは寝る所は別だった。寝る時間が違うので、寝室はいつからか別になった。

 蒸し暑い夜だった。エアコンの風が私は好きじゃなかった。それでその日は扇風機だけにしていた。私は下着姿で寝た。暑かった。

 私はそんなに寝つきが悪い方じゃなかった。寝る時はコロンと寝る。一瞬で寝る。「佐知はどこでも寝られるんだな。悩みがなくていいな」と陽君に言われた事がある。すぐに寝られるからと言って悩みがないわけじゃない、と言いたかったけど、なんとなく言えなかった。確かに、すぐ眠れるのは悩みが少ない事なのかもしれない、と思ってしまった。眠りは、変なものだ。自分が自分じゃなくなるのに、それがとても心地良い。

 だけどその日は珍しく寝つきが悪かった。暑かったせいもあるだろう。扇風機の向きと風量をさかんに調整した。なんとなく、胸の中にもやもやするものがあった。それは蒸し暑い夜そのものとどこか似ていた。

 気付いたら、眠っていた。私は鮮明な夢を見た。誰かから聞いた話だけど、鮮明な夢を見るのは、眠りが浅いかららしい。その時は眠りは浅かったのだろう。いつもはそんなに夢を見ないのだけど。

 

 ※※※

 

 夢の中でお姉ちゃんと会った。お姉ちゃんは美しい白いドレスを着ていた。ウェディングドレスだ。お姉ちゃんは純白に輝いていた。下を向いて、顔を赤らめていた。そんなに綺麗なお姉ちゃんは見た事がなかった。

 お姉ちゃんと向き合っている男の人がいた。黒のスーツをビシッときめている。後藤先生だった。後藤先生も、今までに見た事がないくらいかっこよかった。

 私は二人を見つめていた。(ああ、二人は結婚するんだ) 私は思った。(お似合いだものな、そうだものな) 二人は私を見た。私は、何というか、純粋な視野になっていた。二人を見つめる視点になって、存在は消えていた。私は見る為、聞く為に生まれてきた存在みたいだった。

 「佐知、私、結婚するのよ」

 お姉ちゃんは私を見て言った。頬を赤らめていた。お姉ちゃんは最高に可愛かった。

 「お姉ちゃん、おめでとう」

 「うん、ありがとう」

 お姉ちゃんはうなずいた。後藤先生が私を見た。

 「佐知ちゃん、私はお姉さんと結婚するよ」

 「うん、おめでとう」

 「ありがとう」

 後藤先生は柔らかく微笑んだ。相変わらずのオールバックだった。でも不思議に、白髪はなくなっていた。黒髪になっていた。染めたのか、若返ったのか。でも夢の中の私は不思議に思わなかった。

 「佐知ちゃん、私達は幸福だよ」

 後藤先生が言った。後藤先生はにやりと微笑んだ。何か、嫌な微笑みだった。少なくとも、そう感じた。私はうなずいた。

 「佐知。私は幸せよ。好きな人と一緒になれて」

 お姉ちゃんも言った。お姉ちゃんも微笑んだ。私はうなずいた。

 「佐知ちゃん、私達はね、幸せなんだよ。私はお姉さんを手に入れた。舞さんを手に入れた。幸福だ。これが、幸福だ。これ以上ない幸福だ。私は幸せものだよ。私は、この世で一番の幸福者だ」

 「その通りよ」

 お姉ちゃんが言う。私は何も言えなかった。後藤先生がまた喋りだした。

 「いいかい? 佐知ちゃん? 幸福……これがね、人生の目標なんだよ。そうだろう? みんなが幸福を目指している。誰も彼もが。でも、みんな何も手に入れられずに、死んでいく。人生は楽しいものだ。幸福になるべきものだ。だけどそれを手に入れられる人は僅かだ。その『僅か』にならなきゃいけないんだ、私達は。絶対に」

 後藤先生が言う。私は、少し怖くなった。口調がいつもと違った。

 「そうよ。先生の言う通りよ。佐知、私はとっても幸福なの」

 お姉ちゃんが言った。お姉ちゃんの笑顔が怖くなってきた。何故そう感じたのかはわからない。だけど段々怖くなってきた。

 「佐知ちゃん、よくお聞き」

 後藤先生が私に向かって一歩踏み出した。お姉ちゃんの手を握ったまま。私は後ずさりしたかったけど、懸命にこらえた。

 「…よくお聞き。佐知ちゃん。人はね、幸福にならなければいけないんだ。それが人生の目的だから。それ以外に、人生の目的はない。多くの人は不幸のまま、自分が幸福か不幸かも知らないままに死んでいく。多くの人はそうして死んでいく。だけど、人は幸福を目指さなきゃいけない。人生は長い。その期間を十分に利用して、幸福にならなければいけない。…佐知ちゃん。私は、当ててあげよう。君は幸福を恐れているだろう? 幸福になるのを怖がっているだろう?」

 「そんな事はありません」

 私は言った。

 「…決してそんな事はありません」

 「…嘘はいけないな。嘘を言っても、私にはわかるんだよ。いいかい? 幸福とは何か? 幸福とは…こういう事だ!」

 後藤先生は、ぐいとお姉ちゃんを引き寄せた。そのままお姉ちゃんを抱きしめ、熱烈なキスをした。お姉ちゃんは目をつむった。私は思わず顔を背けた。

 再び、二人を見ると後藤先生がこちらを見ていた。

 「いいか。佐知ちゃん。幸福とはこういう事だ。つまり『愛』だ。愛なんだよ、幸福とは。愛とは何か? それはセックスだ。簡単に言うとね。性の結合の中に宇宙がある。…君にはわかるだろう? セックスだけが、瞬間を永遠に変えてくれる。より正確に言えば、セックスという瞬間の中に永遠があるんだ。…現代は、人間の生活を向上させてくれた。様々なインフラが整い、私の従事している医学も大きく人間に寄与した。それらのものは一体、何の為にあるのか? 幸福の為、愛の為なんだ。愛とは何か。瞬間の中の永遠だよ。人間は、死すべき存在である事を知って、互いに寄り添うようになった。神はもはやいない。人間は互いに抱き合い、刹那の中に永遠を求めようとする。これこそ、現代に生きる人間の道だ!! 私はね、幸せなんだよ。君のお姉さんのような美しい花嫁を手にする事ができてね。私はお姉さんを愛している。大変愛している! …ところが、君は幸福を恐れている。いいか、君は幸福に恐れおののいている。…というのは、死神がそれを攫っていってしまうのを予期してだ。だけどね、全てのものは結局、灰燼に帰してしまう。だったら、そんなものを考えるのは無駄なんだよ。幸福を目指さなきゃいけない。人はなんとしても、幸福を目指さなきゃいけない。君は幸福を恐れすぎる。その為に、このままだと全てを台無しにする事になるんだよ。人生には瞬間しかない。『今この瞬間』以外に人生はない。だから『今』の中に永遠を見つけるしかない。必要なのは愛だよ。愛する人、美しい人との交合だよ。その中にだけ、永遠がある」

 「そうよ、佐知」

 お姉ちゃんが合いの手を打った。

 「全部、先生の言う通りよ」

 「…君がご嫉心の…ああ、なんていう名前だっけ? 名前を忘れたなあ?(先生はとぼけた笑いを見せた) その、男の子。職場の男の子がいるだろう? 鈴木君だっけ?(先生はヘラヘラした笑いを浮かべた) まあ、なんでもいいや。その男の子が、必死に、何かをしているだろう? 死神から逃れようともがいているらしいじゃないか? 幸福になる事ではなく、不幸の中に自分の生命がある。…健気にも、そう思っているのかもしれないねえ。だけど、それは嘘で、最初に、彼の不健康があったのだよ。彼は弱い存在だ。だから、弱さを肯定したんだ。それだけの事さ。幸福を求められないから、幸福になれない自分を肯定した。それだけなんだ。幸福を求める力がない人間は、自分の存在を遥か未来や過去に置こうとする。今、この瞬間という幸福から逃げ出そうとする。今この瞬間を十分に享受できない弱虫、病人達は、病気を肯定しようとする。彼は世界を呪っていただろう? 違うかい? 幸福になれないのがわかっているから、幸福になろうとする他人を非難する。弱虫はみんなそうする。彼は…彼は…彼の事なんてどうでもいいや。君は、佐知ちゃん、知っているはずだ。本当に幸福になる道は、どういう道なのかって。…いいか、存分に利用するんだ。他人を利用するんだ。ほら、僕はこうして君のお姉さんを利用している」

 先生はそう言ってお姉ちゃんをまた抱きしめた。お姉ちゃんは笑顔で、抱きしめられるままにしていた。

 「…だけど、お姉さんも幸福になる為に私を利用している。それでいいんだ。お互いにね。君も、そいつを利用できるようならするんだ。そいつは不幸な弱虫なんだよ。いいか、不幸になるな。君には幸福になる権利がある。君は、病人の側に傾こうとしている。こちらに来るんだ。私は医者だ。病人を治す事ができる。そういう責務を負っているんだ。精神的な病者は例外なく、身体的な弱さから現れる。弱い人間は捨て去れ。そいつは弱者だ。『滅亡の美学』とは、滅亡を感じた人間の自己肯定に過ぎなかったのだよ…わかるかい? 君はね、強くなれるはずだ。君は強いはずだ。弱い人間は見捨てろ。それが強い人間の義務だ。君は幸福を掴め。強い力で幸福を掴むんだ。生きるんだ、今を! 今この瞬間を! 君は…君は…本当にそっちに行くつもりか!?」

 「ねえ、佐知」

 お姉ちゃんが言った。……その声は何故かしわがれていた。物凄く、年取ったお婆さんが出す声みたいだった。気付いたら、二人の顔は変化していた。二人共、顔の真ん中にぽっかりと穴が空いていた。真っ黒な穴が空いていて、そこから声が出ていた。体のシルエットはそのままに。私は恐怖にとらわれた。

 「佐知、聞いて。こっちは気持ちいいの。佐知、ねえ。私は幸福なの。本当に。…病気は治ったの。奇跡的に、治った。先生が治してくれたの。私は助かったの! 生きられる! ねえ、佐知、私は生きられるの! こんな嬉しい事はないわねえ…。病気を治してくれる、ありがたい人達がいる。先生が、先生が治してくれたのよ! 愛で治してくれたの! 愛という名の力で、私を『瞬間の力』で治してくれたの。…ねえ、全ては良くなっていくのよ。少しずつ。少しずつ、改善していくわ、全ては。全ては良くなっていくの。私達は、幸福になる事ができる。望めば願いは叶う。…ねえ、聞いて。全部、全部、先生の言う通りよ。…あなたも病気なのよ。先生は病気を治してくれるのよ。お願いだから先生の言う事を聞いて」

 「こっちに来なさい」

 後藤先生が言った。私はガタガタと震えだしていた。

 「いいから、こっちに来なさい。君は、幸福になる権利がある。君の中にあるものを、捨て去りなさい。生の中に核なんてない。そんなものを取り出すなんて……幻想もいいとこだ! 生は玉ねぎみたいなもので、剥いても剥いてもそれだけのものなんだ。核なんてない。ただ、それだけ。それだけだ。だから、表面の皮一枚でも幸福になれる。一枚で本質を掴む事ができる。努力する必要はない。努力はどこにも私達を連れて行かない。必要なのは幸福になる為、瞬間を永遠に変える努力だけなんだ。それがあれば君も幸福になれる。それさえあればね。…さあ、こっちにおいで」

 先生が手を伸ばしてきた。私は怖くて、手が出せなかった。

 先生の手は更に伸びてきた。怖かったから、顔は見なかった。私は手を見た。手…後藤先生の手。見覚えがある。手術を沢山経験したせいか、傷が沢山ある。皮膚が厚い。男の人の、力強い手だ。私にはそれが温かいものに見えた。温かく、力強い手に感じた。父の、本当の父親の手。私達を救ってくれる父の手。そういうものがあるとしたら、そういうもののはずだった。

 だけど私はやっぱり怖かった。もし幸福になったら…幸福が怖いというのは、先生の言う通りなのかもしれない。いや、きっとそうだろう。正しいのだろう。私は先生の手を掴みたいと思った。幸福になりたいと思った。

 私は手を伸ばした。先生の手を握ろうとした。幸福になる権利はある…みんな嘘ばっかり。ほんとは他人を蹴落として、自分が幸せになりたいのにごまかしてばかりいる。本音、本心を実行してはならない理由はどこにあるだろう? 道徳なんて嘘っぱち。この手さえ掴めば!

 先生の手を握ろうとした。その瞬間、誰かに呼び止められた。その声は誰の声か、全然わからなかった。

 「お前はあの人を忘れたのか?」

 声はそう言った。私の手はぴたと止まった。

 「お前はあの人を忘れたのか? 全人類の為に不幸を背負うのが可能だと数学的証明を果たしたあの人を忘れたのか? 本当に、忘れたのか? あの人をお前は本当に、本当に忘れたのか?」

 (そうだ)と私は思った。(そうだ。私が忘れるわけがない。あの人を) 何故かそう思った。

 「お前はあの人を知っている。あの人は光だ。全ての人が消えた時、あの人は復活した。後ろを見なさい」

 声は言った。言われるままに後ろを見た。後ろには…光があった。光が、光っていた。白熱する球体。発光する宇宙。

 光に手を伸ばした。光は大きく、温かく、広がっていた。(あの人だ) 私は思った。(これがあの人の力なんだ) 光は大きく強くなっていき、全てを飲み込んでいった。私はお姉ちゃんと後藤先生をすっかり忘れていた。ただ光のなすままにしていた。光は全てを飲み込んでいき……私は私でなくなった。

 

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