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今にして思えば、あの時は斎藤君の気持ちをわかっていなかったのだろうと思う。
後になって、斎藤君の気持ちがわかった…と思う。なんとなく。どうして硬い表情をしていたのか。その気持が少しはわかった気がした。
どうして斎藤君の気持ちが、馬鹿な私にもわかったのか。それはお姉ちゃんの功徳だろう、と思う。お姉ちゃんと斎藤君を重ね合わせた時、見えるものがあった。それから、後藤先生の言葉も響いていた。それらが一つに合わさって、私の中でパズルが完成した気がした。…気のせいだったのかもしれないけど。
後藤先生が何と言っていたか? 後藤先生はよく、こう言っていた。
「人生は悲しいものだよ。でも、仕方ないね」
先生は、職業柄、亡くなる人を看取ってきたからそう言ったのかもしれない。だけどその顔はほんのりと嬉しそうだった。私は、表情と言葉の内容の矛盾に、奇妙なものを感じていた。…はっきりしていたのは、後藤先生が医師という仕事に誇りを持っていたという事だった。
斎藤君は相変わらず、青白い顔で仕事をしていた。無理しているんじゃないか、とハラハラする時もあったけど、「疲れた」とか「しんどい」とか一言も言わなかった。だけど斎藤君が何かを抱えながら仕事をしているのはわかっていた。
私はと言えば、何の目標もなく生きていた。(斎藤君には夢を持った方がいいと言ったけど、人の事言えた義理じゃないな…)と思ったりした。
私には夢はなかった。目標もなかった。生きる意味もわかっていなかった。お姉ちゃんがあれだけの言葉を残していったのに、成長しないままだった。
夢を持って努力する人を、羨ましいと思う。凄いと思う。だけど、どこかに違和感があったのも確かで、そういう人のストーリーをテレビで見ると、不思議な気持ちになる。自分とは全く違う種類の人間じゃないかと思う。番組を見ていて、私は思った。(お姉ちゃんが言っていた「やるべき事」っていうのはこういう事なのかな…) 私にはわからなかった。そうであるような気もしたし、違う気もした。
私生活では些細なトラブルが発生した。陽君の浮気疑惑が持ち上がった。陽君は職場のアルバイトの女の子と仲が良かった。彼女の話をする時もあった。彼女とのメッセージのやり取りが偶然、目に入って、気にかかった。メッセージの内容はあまりに親密なものに見えた。行き過ぎたものに感じた。私は直接に怒るような事をせず、じわじわと本題に入っていった。陽君は最初は戸惑っていたけど、最後には怒り出した。
「お前は嫉妬深いな。昔からそうだったよ」
そう言われた。言われてみたら、なんだかそんな気がした。
でも結局、仲直りした。一週間ぐらいは不穏な空気だったけど、段々戻っていった。実際、浮気があったかどうかはよくわからないままだった。陽君は謝るような怒るようなはぐらかすような、微妙な感じだった。私もはっきりした証拠もないので、強く出れなかった。その話はだんだん出なくなって、やがてない事になってしまった。陽君はその子の話題を出さなくなった。
私の見立てでは、浮気はなかったと思う。ただ、もう少し関係が続けばそうなったかもしれない。
それにしても、私達はこんな風にして一体どこへ向かうのだろう? それぞれが小さな事でいがみあったり、仲睦まじくしたりする。だけどそこには根っこがない。はっきりした実感がない。確かな喜びがない。みんな、どこか寂しそうだ。…そんな風に思う事もある。世の中をふわふわと漂って、一体どこへ行くのだろう? ふわふわふわふわ、しがみつける根を張った木なんて一本もなくて、みんなが互いに、ああだこうだ、ぶうぶう言ったり、イチャイチャしたりして、確かな何かを見つける事もなく流されて生きていく。それで結局、どこにも辿り着かない。私達はそもそも一体何だろう? 私達はどこから来てどこへ行くのだろう? 私達は一生こんなままなのだろうか? お姉ちゃんの言葉はどこに消えてしまったのだろう? 私はどうして、こんなに情けない奴なんだろう? どうして何も見つけられないんだろう?
斎藤君に話しかけられた。陽君と仲直りした翌日だ。私と斎藤君は遅番で、帰りも一緒だった。二人で食堂にいた。私は鞄を持って、帰る準備ができていた。
「保田さんはどんな本を読むんですか?」
斎藤君が言った。斎藤君は座っていた。私は立っていた。斎藤君の顔は、いつになく輝いていた。機嫌がいいのが見て取れた。体の調子も良さそうに見えた。
「どんな本って…私は、斎藤君ほど読まないよ。簡単な小説くらい」
「どんな小説ですか?」
「そうね…」
私は考えた。最近読んだのは流行の小説だった。人気作品で、友達から勧められたのだった。作品は確かに面白かったし、泣けそうな部分もあったのだけれど、あまりにキャラクターが型にはまりすぎているように感じた。
「最近読んだのは、あの、画家が主人公のやつかな。映画にもなったの。面白かったな。でも、少し軽かった気もする」
「軽かったというのはどういう?」
「うん、なんていうか。うまく言えないけど、キャラクターが軽かった気がする。紋切り型って感じだった。決まりきった善人や悪人が出てきて、いい人と悪い人が綺麗に別れている。物語もハッピーエンドで、いい終わりだったけど、どこか、これは嘘の話じゃないかなって。…もちろん、小説だから嘘なんだけど」
「そうですね」
斎藤君は考えていた。話が長くなるかと思って、椅子に座った。
「斎藤君はどんな小説を書くつもりなの?」
私は聞いてみた。聞いてみたかったけれど、今までは聞けなかった事だった。
「…え?」
斎藤君は驚いたように私を見た。
「…そうですね。どんな小説かと言われれば…。前に『アデン・アラビア』の話をしたじゃないですか」
「うん」
「あの作者は、一体、どういう気持ちでああした作品を書いたんでしょうかね? 僕は、考えるんですよ。そういう事を。素敵な物語を作り出したいと思ったんですかね? どこかの賞に送ろうと思ったんですかね? 訴えたい事でもあったんですかね? …どういうつもりだったんだろう? 考えるんです、僕、そういう事を。…エミリー・ブロンテという作家がいて、彼女は三十才で亡くなったけど、『嵐が丘』という傑作を書いた。でも、生前は全然認められなかった。全然。彼女は、イギリスの北部の田舎で、閉じこもった生活をして、病気で死んでしまった。みんな病気で死ぬ時代でしたからね。…今だって、そう変わらないけれど」
斎藤君は私の目をちらりと見た。
「お姉さんは、若くしてお亡くなりになったんですよね」
斎藤君には、姉が癌で亡くなったという事だけは話していた。それ以上の細部は明らかにしていなかった。斎藤君と仲良くなる過程で、その話が少しだけ出たのだった。
「うん。そうだよ」
「僕はお姉さんに会った事はないし、見てもいないし、他人だけれど…でも、きっと苦しかったのでしょうね。若くして亡くなるというのは苦しい事なんだろうな、と思うんです。でも、こう思ったりもします。長生きと短命って、そう変わらないんじゃないかって。そういう事を以前考えました。なんだ、そんなに大差ないじゃないかって。違いは、時間の差でしかないんですよ。つまり、質の差ではなく、量の差であるように思うんです。…変ですかね? こんな考え方は?」
「でも、長生きの方がずっといいと思うけど…」
「確かにそうなんですけどね。でも、ただ長生きすればいいんですかね? 百年の人生で何もしなかった人と、二十年の人生で何かをした人は違うんじゃないですかね? どちらがいいんですかね? 世間は、生きる事それ自体に意味があると言います。だけど…どうかな。怪しい論理じゃないかなって。死ぬのがわかっているから、できる事もあるって思ったり…。違いは、量の差だと思うんですよ。二十年と百年。八十年の違いは量の差で、質の差ではない。そこに絶対的な断絶を、今の世の中は見たがりますね。つまり、長生きして往生した人生はいい人生だったと。短命で死んだ人は不幸だったと。そこには絶対的な違いがあると言いたがります。あたかも長生きする事自体が人生の目的であるかのように。『生きる事は素晴らしい』ってみんな言う。だけど、違いは量であって、質ではないと思います。刑場に引かれていく時の気持ちは同じですよ。百才になってもまだ生きたい、まだまだ生きたい気持ちでいる。そうだろうと思いますよ…同じなんですよ。二十才で死ぬのと、百才で死ぬのと。ただ時間だけが違う。過ぎ去っていく時間だけが。じゃあ、その時間で一体、何をするか? 時間というのは、僕らには理解できない巨大な何かです。砂時計みたいなものが上からさらさらと落ちてきて、結局、僕らはそれに押し潰されてしまう。生きる事は素晴らしい。確かに、素晴らしいのかもしれない。そう言う人達は、時間について考えたりはしないでしょうが。…僕ね、思うんです。生きる事の中に核のようなものがあるんじゃないかって。ただ生きるんじゃなく、生の中に何か硬い大切なものがあって、それを取り出さなきゃいけないんじゃないかって。そんな風に思うんです。それを掴んでみたいな、と。ただ生きるだけじゃなくてね。果実の中に種子が眠っているように、何かがあるんです。それを取り出したいな、僕は。そういう小説を書きたいと思っているんです。そういう小説を…。まあ、わけがわからないかもしれないけど…なんだか、そんな気がするな。わけがわからないかもしれないけど、僕はそう思ってるんです。そういう事を考えるんです」
斎藤君は一心不乱に語った。そんな斎藤君を見たのは始めてだった。だけど、私には難しすぎた。
「ふーん、難しいね。私には、正直、よくわからないよ。難しい話だね。…でも、その、もし、その何かを自分の中から取り出されば、短命でもいいってこと? 種のような、何かを取り出しさえすれば、短命でもいいって?」
「…まあそうですね」
「そうなんだ。…斎藤君は覚悟があるんだね」
「覚悟は本来、誰にでもあるはずですよ。ただ、みんな気付いていないだけだ」
そう言われた時、私は斎藤君にお姉ちゃんの面影を見た。何故だろう? きっと、死ぬ事がその人の背後にあって、急き立てられる感じが似ていたんだと思う。
「…それで、その小説は『アデン・アラビア』みたいな感じなの?」
「うーん。そうなるかはまだわかりません。書いてみないと、どうなるかわかりませんね。ただ、ああしたタイプのものになるでしょうね。つまり、何らかの形での魂の慟哭であるような…。そうでなければならないと思っているし、現代の世界では魂は疎外されている。魂はこの世界で最も安売りされているものです。それには買い手がいない。僕はそうした市場で、敗北していく人達を見ていました。誠実であるがゆえに、敗北していく人達を…。僕は彼らの分も背負って書きたいと思っています。余計なお世話かもしれませんが」
斎藤君の話はさっぱりわからなった。私は時計を見た。十二時を回っていた。
「ああ、もう帰りましょうか」
斎藤君は私が時計を見るのを見て、立ち上がった。私も立ち上がった。私達は食堂を出た。
「斎藤君は真面目に小説を書くつもりなんだね」
廊下を歩きながら、私は言ってみた。彼の中には、思った以上に真剣なものが含まれていると感じたから。
「いえ、真面目にならざるを得ない事情があっただけです。本当は、誰しもその時が来ればそうなると思いますよ。その時がただ引き伸ばされているだけで」
斎藤君はそう言った。その言葉はまたしても、私には難し過ぎた。




