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 斎藤君と話した日、家へ帰って、「アデン・アラビア」の本を開けてみた。本は今のアパートに引っ越す時に持ってきた。本棚の一番端にあった。

 パラパラめくって読んでみても、やっぱり何だかよくわからなかった。ただ、斎藤君の言うように、何か純粋な感情がそこにあるような気がした。気のせいだったのかもしれないけど。

 「アデン・アラビア」を読んでいると、陽君がお風呂から出てきた。最近は二人で入る事もなくなった。そういう時期でもなくなったらしい。陽君は本を読んでいる私を見て「そんなの見てたら陰キャになるぞ」と言った。私もそれ以上読んでもしょうがないと思ったので、本を元に戻した。

 

 その日以来、斎藤君とちょこちょこ話すようになった。仲が良くなった、と言ってもいいだろうか。仕事前や仕事終わりに話すようになった。

 ある時、斎藤君の方から「さん付けはいらないですよ」と言ってきた。「でも、斎藤さんの方が年上だし」と私は言ったけど「いや、保田さんのが上司ですし。さんっていうのは必要ないですよ」と言ってきたので、それから君付けになった。言われてみれば、斎藤君は、どこかあどけない顔をしていた。三十代だったけど、二十代後半くらいに見えた。顔は青白くて、お姉ちゃんの顔色にほんの少しだけ似ていた。

 斎藤君は私には「さん付け」をやめるように言ってきたけど、他の人には「さん付け」させたままだった。同僚の石岡君にある時、それを指摘された。

 「保田さんって斎藤さんを『斎藤君』って呼んでますよね。仲いいんすか?」

 私は言われて、困った。別にそれほど仲が良いとも思っていなかったからだ。

 「そんなに仲いいわけじゃないけど。でも、『さん』はいらないって言われたの」

 「そうなんすか」

 石田君は疑っているような表情だった。私はそれ以上何も言わなかった。

 

 ある時、斎藤君が休んだ。代わりに店長がシフトに入ったけど、斎藤君が休むのは珍しかった。その日は私も店に出ていた。

 仕事が終わった後、遅番の四人は控室に集まって噂をした。

 「あの子が休むなんて珍しいねえ」

 服部さんが言った。

 「そうっすね。はじめてですかね。でも、休みそうな感じでしたよ。裏で、しんどそうにしているの、何度か見たっす」

 石岡君が言った。

 「まあ、なんでも、持病があるらしいよ。それで色々大変だったらしい。就職できなかったのもそのせいだったんじゃなかったかな。何度も休まれてもこっちも困るけどね。でも、彼なりに頑張っているんじゃないかな」

 「まわりに迷惑はかかるけれどねえ」

 服部さんが言った。みんなが黙った。気まずい感じになった。

 「…あの子、最近、休憩時間にノート取っているのよねえ」

 服部さんが口を開いた。確かに、斎藤君はノートを取っていた。私と話した日にも、テーブルの上にノートが開けてあった。

 「変わった子よねえ。私、聞いたの。『それ、何してるの?』って。そしたら、なんて答えたと思う? 『勉強です』って。私をじっと見て言ったの。変わった子よねえ。私は勉強なんて、学生時代で十分。それ以上はやりたくないわ」

 「資格試験でも受けるのかもしれないな」

 店長が言った。

 「俺達と違って、ずっと先を見ているのかもな」

 「でも、俺が聞いた時は違ったっすよ」

 石岡君が言った。みんなは石岡君を一斉に見た。

 「『試験受けるんすか?』って聞いたら『違います』って言ってた。試験がないのに勉強なんて、よくわからないな。俺にはさっぱりわからなかったす」

 「保田さんは何か知ってるんじゃないの?」

 服部さんが私を見て言った。みんなの目線が私に突き刺さった。

 「あの子と仲がいいじゃない?」

 私は自分自身を反省した。私はそんなに仲が良いように見えただろうか? …まあ、他の人よりは話す回数は多かったかもしれないけど。

 「いや、知りません」

 私は言った。三人は、私を見たままだった。

 「知りません。聞いた事もないです。でも、本が好きだから、好きな箇所を抜書きしたり、そういうものじゃないでしょうか?」

 「そう言えば保田さんも本が好きだからねえ」

 服部さんが手をこまねく動作をしながら言った。

 「やっぱり、そういう頭のいい子同士、何か通じるものがあるのかしらねえ…。私は勉強なんてできなかったし、もうやりたいとも思わないわ。私が学生の頃なんて、まだ教師にぶん殴られる時代だったからね。今の子はいいわよねえ。殴られたりしないから。それで勉強嫌いになったのかもしれないけど…」

 服部さんが昔話を始めた。私は聞いている振りをしながら、斎藤君を思い出していた。(一体、何の為にノートを取っているのだろう?) 少しだけ、気になった。今度本人に聞いてみようと思った。

 

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