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魔族に優しいギャル聖女  ~聖女として異世界召喚された白ギャル、ちょっと魔王である俺にも優しすぎると思う~

「伝令! 伝令! 宮殿の正面玄関が魔族によって突破された模様!」


「くそっ、ここを守るのは王都の精兵たちだぞ! 何故こうも簡単に突破されるのだ!?」


「襲撃してきてるはいつもの魔族の下っ端どもじゃない! なにか途轍もないやつが――グアアアアアッ!!」


「こ、こいつ、普通の魔族じゃねぇぞ! それどころか、この二本の角は――!?」





 聖暦1224年7の月、人間族の本拠地にして、人間世界の中心地である聖都・サンカレドリアを、一人の魔族が襲撃した。


 並み居る精兵たちを指先ひとつで退け、引き裂き、血の海に変えながら。


 その圧倒的な存在は襲い来る人間どもを斬り伏せ斬り伏せ、王都の奥――王の御座所である宮殿の内部に降り立った。




「ふん、矮小な人間どもめ。聖女とやらの召喚に成功したと聞いて、少しは骨のあるやつを揃えていると思ったが――」



 

 低く、冷たく、一切の温かみを持たぬ声が、崩れかけた宮殿の大広間に響き渡る。


 彼の襲撃を生き残った兵士たちはもはや完全に戦意を喪失しており、彼の姿を見るなり真っ青に青褪め、我先にと逃げ出す有様。


 この先にある奥の院――サンカレドリアの大聖堂に閉じ籠もっているのだろう、ある人物を捨てて、己の命を優先した。


 人類にとってその人物の存在を失うことは、緩やかな自分の破滅と同義であるというのに、である。


 愚かなものだ、と唾棄しながら、彼はゆっくりと、大広間を横切る一歩を踏み出した。




「聖女とやら――もうすぐこの我が貴様の面を拝んでやろう。そしてその美しいツラが獄上の苦痛と絶望に歪む様をも、な」




 ククク、と、彼は低く嗤い声を漏らした。




 そう、聖女。


 遠い異世界から召喚されるという、類まれなる霊力を秘めた存在。


 有史以来、魔族と地上の支配種の座を争い続けてきた人類に取って、まさに戦争の切り札となる存在。


 その圧倒的な霊力もさることながら、その慈愛に満ち満ちる精神、慈悲深き心で、人間どもを癒やし、励まし、救済するという女。


 この戦争において、聖女の存在はまさに『王将(キング)』――人間と魔族、どちらが聖女の身柄を押さえるか、どちらに聖女を味方させるかで、この戦争の勝敗は確定するのだ。




 半年前、人類側がその「聖女」の召喚に成功し、今はサンカレドリアの大聖堂内にその存在を秘匿されている、という情報が魔族側の間者によって複数報告されていた。


 異世界から召喚されて間もないゆえ、彼女は今はまだ聖女としての力に目覚めてはいないが、一度彼女が聖女の力に目覚めれば、この戦争における魔族の敗北は必至だった。




 だから今、この俺が手ずから会いに来た。


 この俺――【焦熱の魔王】ベルフェゴール・リンドヴルムが、必ずや貴様を魔道に落としてくれよう。


 人類はさぞ落胆することだろう、あの聖女が、この魔王によって心を蝕まれ、堕とされ、人類側の敵となれば――精神的にも人類は敗北する。


 その想像にたまらないほどの愉悦を覚えながら、ベルフェゴールはゆっくりと、大聖堂のドアの前に立った。




 もはや警備の兵は一人もおらず、僧たちの姿すらない。


 愚かな――聖女を捨てて逃げ出すとは。これでは俺に聖女を奪ってくれと言っているようなもの。


 やはり人間は愚かで、どうしようもないエゴイストどもだ。


 その事実に顔を歪めながら、ベルフェゴールは魔力を手のひらに込め、大聖堂を包む結界ごと、ドアをぶち破った。




 瞬間、大聖堂の中で一人跪いていた小柄が――ビクッ、と震えたのがわかった。




「え――!? だ、誰――!?」

「はじめまして、だな、異世界の聖女とやら。突然だが貴様のお祈りはここまでだ。俺とともに来てもらうぞ。これより先は地獄の一丁目――獄上の、な」




 ツカツカと聖堂内に足を踏み入れ、その小柄の前に歩み寄ったベルフェゴールは――。


 一瞬、心からの驚きで、はっ? と浅く息を漏らした。




「えっ、マジで何? 何が起こってるん? やっぱこれドッキリだったの? 勝手に部外者入ってくんのNGなんですけど――!」




 これは――なんというか、想像していたのと違う。


 思わず、ベルフェゴールはその聖女の顔、佇まいをしげしげと眺めてしまった。




 まず目に入ったのは、頭頂部の生え際が黒、そこから先は痛々しく感じるほどに脱色された、安い金色である。


 これは――元は黒い髪を金色に染めた結果であろうか。なんでそんな意味不明なことをしているのだろう、この女は?




 いや、おかしいのはそれだけではない。この女、なんとなくではあるが、風体的には聖女どころか、淫魔(サキュバス)に近いのではないか。


 この物凄く長くて黒いつけ睫毛、バッチリと隙のない、娼婦の如き化粧の派手さ、芸術的に編み込まれた髪、そして純白の僧衣をかなり斬新に着崩した結果、色々と露出が多くなった格好。


 指先を彩るのは魔族のそれにも匹敵する長さの色とりどりの爪で、これも明らかに天然のものではなく、人工の爪だと思われた。


 だがその一方で、顔立ちそのものはすっきりと整っており、何らかの愛嬌と、そしてある種の淫猥さをも醸し出す――魔王ベルフェゴールが今まで一度も感じたことがないオーラを発する女。




 そう、その日、決して出会ってはならぬ二人が出会ってしまった。


 聖女と魔王――相反する白と黒とが、混沌の坩堝の中で、まるで宇宙誕生のその瞬間のように邂逅を果たし――ここに新たな伝説が始まった。




 なおかつ――そう、ベルフェゴールは知らない。


 半年前、異世界から召喚された聖女と呼ばれる存在が――日本という国に多数生息する、いわゆる白ギャルという存在であった事実を。







「うほぉー何コレ! 塗ったら勝手に色が変わって虹みたいな色になんじゃん! 魔族ネイルすげー! ヤバみ深し!」

「おい聖女、いつまでも遊んでないでさっさと聖女の能力に目覚めろ。そうでなければ貴様をここに連れてきた甲斐がないであろうが」




 色とりどりに輝く爪を見てはしゃいでいるのに向かってベルフェゴールが呆れ声を出すと、むうっ、と聖女の白い頬が膨れた。




「んもー、小姑かよこの魔王は。いきなり連れてこられてそんな無茶ぶりとか意味分かんないんですけど。よく考えなくても聖女の能力なんてフツーのJKにそんなすぐ出せるわけなくね?」

「む……また貴様は俺に向かって意味不明な言葉を。じぇいけー、とはなんだ? 貴様の世界の種族名か?」

「種族名じゃねーよ。仕事の名前。女子高生の略だよ。女子学生ってこと。魔王の癖にJKも知らないの?」

「わかるように言わなければ伝わらんであろうが……。全く、知らん言葉を知らんように言って無知扱いとは重ね重ね貴様は無礼なやつだな」

「半月前にむっちゃ失礼働いたやつに言われたくないんですけど」




 聖女はそう言って一層頬を膨らませた。




「あんときは突然入ってくっから本気でビックリしたんだからね、ベルベル。後で埋め合わせしろよな。ウチのビックリ料金、ツケとくから」

「む……それについては色々と仕方がなかろうが。それと俺のことは何度も魔王陛下と呼べと言っておるであろう」

「だってベルフェゴールもリンドヴルムも呼びにくいじゃん。いいじゃんベルベル、可愛いじゃんかよ。ベルベルが呼びにくい名前してんのが悪いっつーか」

「人の名前を呼びにくいの一言で否定するな! 魔王の御名だぞ! 普通の人間ならばこの名前を聞くだけで震え上がるものなのだ!」

「だからこそベルベルって呼ぶべきじゃんよ。そんな人から名前だけで怖がられるとかマジ損しかないじゃん。お前は地元の不良先輩かっつーの」




 爪に塗った塗料を乾かそうと指先を振りながら、白ギャルの聖女――恋し浜(こいしはま)のえるは口を尖らせた。




「だいたいウチがこうやって無抵抗で魔族領に来てやってること自体、マジ出血大サービスだし。ベルベルがどうしてもウチに来て欲しいって頼むから来てやってんじゃん。フツーの聖女様なら魔族領なんて絶対NGって言うんだよ多分。ウチは気にしないけど」




 滅多になくのえるが正論を言うので、この数百年の長い時を生きる魔王もぐっと反論に詰まった。




「それは……まぁ正直、貴様があっさりと魔界に連れ去られてくれたことには正直感謝もしているが……」

「そうそう、なんだフツーにいい子できんじゃん。その感じだよその感じ。もう少し肩の力抜いて生きないとますますその眉間のシワ深くなんだかんね」

「それはできん。俺は【焦熱の魔王】ベルフェゴール・リンドヴルムだ。俺の双肩には地上すべての魔族の命運が乗っておる」




 ぐっ、と、ベルフェゴールは拳を握って口を歪めた。




「あの矮小で愚昧な人間どもの手からこの大地を奪い返し、抑圧に喘いでいる魔族にとって獄上の王道楽土を建設する――それが俺という存在が存在している理由だ」




 そう、世界を炎によって改革する――それが魔王たるものの務め。


 そのためにはどんな手段をも選んではいられない。


 たとえそれが魔王の対極に位置する存在――聖女のその力を使ってでも。




「そのためならばこの身など百遍炎に巻かれようと悔いはせぬ。必ずやこの大地を人間族から奪還し、俺の、ひいては全魔族の理想となる世界を創り上げる……獄上、にな。堕落せし創造神の思惑など知ったことではない、俺は俺の――」

「うひょー! お願いしてたペンダントついに届いたん!? マジありがとー! さっそくつけてみるね!」

「おい聞け! 魔王のお気持ち表明だぞ! どこの世界にその言葉をシカトするものがあろうか! 首飾りの話などどうでも……よい……だろ……う」




 その瞬間、魔王ベルフェゴールの声が尻切れトンボになったのは、別に息が続かなかったわけではない。


 それは側用人に持ってこさせたらしいペンダントを、髪をかき上げ、腕を伸ばして、形の良い臍を覗かせ、ゆっくりと身につけようとしている聖女の姿が――なんというか、とても艶やかに見えてしまったからだった。


 思わず息を呑んでそのさまを見つめていた魔王に――ペンダントを身につけ終わったらしい聖女が向き直り、にひっ、と笑った。




「どうベルベル、似合う? 魔族ペンダント。カネかかってんだぜ」




 ぐいっ、と、豊満で、なおかつユルユルに緩い胸元を誇示するかのように眼前に押し付けられて、ベルフェゴールは思わず赤面して仰け反った。


 その反応に、のえるが意味深に笑った。




「ベルベル、もしかしてドーテー?」

「んな――!?」




 何故知っている!? などとゲロらなかったのは、魔王としてせめてもの意地であった。


 人間どもは「三十過ぎて童貞だと魔法使いになれる」などと嘯くそうだが、魔族は五百歳過ぎて童貞だと魔王になれるのだ。


 なんとか誤魔化したつもりでいたが、その反応は言葉以上に雄弁だったらしく、のえるはますます笑みを深くする。




「うわ、顔真っ赤じゃん、ウケる。そんなによい眺めかね? うりうり〜」

「き、貴様――! 聖女ともあろう女が口にしていいことと悪いことがあろうが! 人に向かってドーテーだなんだと……!」

「あはは、その反応は図星だな? 世界を恐怖のズンドコに落としてる魔王が女の子と手を繋いだこともないなんて知れたらどうなるかな~?」

「ぐ――! いっ、いい加減にしないか! この【焦熱の魔王】を人間如きがからかって遊ぼうなどとは――!」

「聖女様! 聖女のえる様!」



 

 と――そのとき、魔王の玉座の間に断りもなく入ってきたものがいる。


 魔王軍の四天王の一人、筋骨隆々のベヒモスである【暴虐】のギリアムが、何だか血相変えて部屋の入口に立っていた。




「んおー、ギリ君じゃん。むっちゃ慌ててどした?」

「不躾な訪問すみません――ですがどうしても、どうしても聖女のえる様に我が罪のお赦しを賜りたくて――!」

「おっ、赦しね! おっけー、じゃあ早速コクってみ?」



 のえるが二つ返事で言うと、ベルフェゴールの3倍はある体躯を侘びしく丸め、ギリアムは太い指を組んで床に跪いた。




「おお聖女のえる様、どうか私の罪をお聞きください。私は愛する妻と子がありながら、今とあるオークの女に心惹かれております。いいえ、それだけではない、頭の中ではとてもここでは申し上げようがないほど、そのオーク女との淫靡で恥ずべき妄想をも――」




 オエッ、と、ベルフェゴールは顔を背けてえづいた。


 この筋骨隆々の牛の魔族が、豚に近い魔族であるオークと不倫寸前、ビーフがポークに懸想して牛豚丼、か。


 顔をしかめていると、ギリアムの声が震え始めた。




「あの女も私に対してまんざらではないらしく、最近では露骨に誘惑を繰り返すようになってきて……。最近ではあの女のことを考えて職務も手につかず、何もかもが上の空――おお、我を形作りし何者かよ、なぜに汝はこのような誘惑を我の側にお遣わしたもうたか……!」




 ぐすっ、ひっぐ……と、ギリアムは遂に泣き出した。


 オイ、今職務が手につかないって言ったか四天王?


 給料下げようかな。


 一頻り肩を震わせた後――ギリアムががばっと顔を上げた。




「聖女のえる様――このような罪深き私でも、聖女はその神名によってお赦しくださるでしょうか!」




 その問いかけに――すう、と息を吸い、瞑目したのえるが――。


 数秒後、ゆっくりと両手を顔の横に掲げ――バッ、とダブルピースを作った。




「おっけー! ウチが赦す! ギャルピースだから赦す!!」




 わああああっ、と、ギリアムが床に突っ伏して泣き喚き始めた。


 コイツ、四天王のくせに魔王をガン無視でギャン泣きとは随分太い野郎である。


 しかし、決して見た目がいいわけではないギリアムにものえるは優しい。


 その筋骨隆々の肩に手を置き、安心させるように撫で擦る。




「んもー、ギリ君は見た目によらずメンタル紙だなぁ。身体だけじゃなくメンタルも鍛えてかないとそのうち本格的にキャパるぜ? それと浮気はダメだよ?」

「はい……はい! 今のお言葉で目からウロコが落ちてございます! たかがオーク女の誘惑などに私はもう負けません! 愛する妻と子を一生大事にしていきとうございます!」

「あはは、そうだよその意気だよ。それとたまには奥さんと二人きりで温泉とか行けばいいんじゃね? 奥さんきっと喜ぶぜ?」




 そのさまを見ているベルフェゴールの脳裏に――。


 幼き日に何度も聞かされた古の詩が聞こえた。






 【その者、緩き衣を纏いて不毛の野に降り立つべし


 失われし聖と魔の絆を結び――】






「遂に我らを、白き清浄の地に導かん――」






 そう、それは魔族と生まれついた者なら知らぬものはない伝説。


 数百年前、とある魔族の大予言師が、死の間際に遺したと言われる救済の福音。




 「魔族に優しいギャル」――そう呼ばれる存在を(うた)った予言の詩だった。







 この世界の有史以来、魔族は人間族より、穢れた存在だと忌み嫌われて来た。


 元々魔素が濃すぎ、草木もよく生え揃わない不毛の大地に生きてきた魔族は、生まれついて人間を圧倒する力を持つ。


 繁殖力に勝る人間たちは、その圧倒的な力を畏れ、一方的に魔族を抑圧し、差別してきた。


 そんな状況を覆すべく、魔族が「王」を戴き、人間に反旗を翻し、戦争を始めたのが約五百年前。


 魔族の圧倒的な力の前に敗北を繰り返した人間どもは、遂に禁忌とも言える手段に乗り出す――すなわち、「聖女」と「勇者」の異世界からの召喚を実行に移した。


 人でありながら圧倒的な力を秘めた聖女と勇者の登場に、今まで優勢を誇ってきた魔族は一転して苦戦を強いられた。


 聖女も勇者も人である。人であるから魔族よりも早く寿命を迎える。


 人間どもは聖女と勇者の異世界からの召喚を繰り返し、一方的に魔族に対抗させた。


 そのうちに戦況は拮抗し――今の状況がある。




 だが、その中にやがて現れるとされる存在――「魔族に優しいギャル」。


 いがみ合い、憎しみ合う人間と魔族、その両方を愛し、慈しみ、包容し、この戦争を終わりに導くという存在。


 魔族も、人間たちも、おそらくはその登場を心待ちにしているに違いない存在――。




 無論、そんなものは単なる伝説に過ぎない。


 どういう集団や一族に属しているとしても、人間は相手が魔族というだけで一方的に忌み嫌い、恐れるものだ。


 ましてや聖女と呼ばれるものが、その存在自体が穢れであるとされる魔族に優しいことなど、ありえないこと、考えられないことと言えた。




 第一、その「ギャル」とは一体如何なる種族で、一体どのようなものなのか。


 のえるにギャルとは何か尋ねてみたこともあるが、その時ののえるの返答は、


「自分がカワイイと思ったファッション、メイク、口調、センスを信じ、己を貫く生き方をしている女性のことで、種族や年齢、職業は関係がない。あと、黒もいる」


という曖昧模糊としたもので、異世界人であるベルフェゴールの頭がいたずらにこんがらがるだけに終わった。




 だが――恋し浜のえるがギャルという種族を自称していることは確かだし、魔族の中には、彼女こそがそうなのだと声高に主張するものもいる。


 彼女こそが伝説に名高き「魔族に優しいギャル」であり、彼女がこの五百年に渡る戦争を終わらせるのだと。


 事実、今まで異世界から召喚された聖女とは違い、彼女は魔族である自分たちを恐れず、それどころかフレンドリーに接し、そして誰にも別け隔てなく優しい。




 恋し浜のえるが、彼女こそが「魔族に優しいギャル」なのか?


 ベルフェゴールは恋し浜のえるの、その整った横顔を盗み見た。


 彼女こそが予言された「魔族に優しいギャル」なのであれば、その存在を手中に収めた自分には、この戦争を終わらせるという重大な責任が発生する。


 魔族、人間、その両者が互いに手を取り合い、平和な世界を実現することが、戦争を勝利に導くという以上に重要な責務ということになってくる。


 人類と魔族の平和な共存。その壮大に過ぎ、また甘美でもある想像に――一瞬、ベルフェゴールは、己の立場も何もかも忘れて甘えてしまいたくなった。




「いや――」




 と――次の瞬間。


 ベルフェゴールの中に、そんな甘えを抱いた自分に対する、猛烈な嫌悪感が生じた。


 途端に、無意識に放たれている魔力が暴走し――玉座の間の窓ガラスに次々と亀裂が入り、音を立てて砕け散る。




「うぇ――!?」




 ギリアムの背中を撫で擦っていたのえるが、驚いたように顔を上げ、割れた窓を見て――次にベルフェゴールを見た。




「べ、ベルベル……!?」

「……魔族に優しいギャルだと? 聖女が魔族に優しくするだと……?」




 突如、魔王のそれとしか言えない凍てついた表情でそう吐き捨てたベルフェゴールに、のえるが怯えたような表情を浮かべる。




 そう、聖女は魔族の敵だ。


 決して倶に天を戴かざる存在なのだ。


 そうでなければ、何故今のこの状況がある?


 聖女が慈悲深く、慈愛遍く存在ならば、何故かつての俺に対してはそうではなかったのだ――?


 


 その憤りが昏く心を焦がし――ベルフェゴールの全身が冷えた。


 ふん、とのえるを一瞥したベルフェゴールは、無言で踵を返した。




「べ、ベルベル――!」 




 何かを言いたげにしているのえるを放置し、ベルフェゴールは玉座の間を後にした。







「ベルベル、今ちょっといい?」




 不埒にも憤ってしまった自分を諫めるべく、魔王城のベランダから外を眺めて頭を冷やしていたベルフェゴールの耳に、そんな声が聞こえた。


 ベルフェゴールが振り返ると、少しだけ遠慮がちな表情の恋し浜のえるがいた。




「……聖女か。この私室は俺以外の人間の立ち入りを禁じておるのだぞ」

「わかってるけど、今はそんなの気にしてらんないでしょ。なんかベルベル怒ってたし。マジ意味わかんないんですけど」




 はすっぱな口調の中にも、どこかこちらへの心配を滲ませて、恋し浜のえるはベランダに出て、同じように外を見渡した。


 見渡した後――はーぁ、という気の抜けたため息が恋し浜のえるの口から漏れ出た。




「魔界って本当にタイクツだよねぇ。乾いた土と枯れた木ばっか。映えないねぇ」

「濃すぎる魔素はあらゆる生物に対して有害だ。草木どころか、動物すらも満足に生きていない」




 ベルフェゴールは眼前に広がる不毛の大地を眺め渡した。




「魔族がこのような獄上に劣悪な環境に置かれているのは人間のせいだ。人間どもは己たちだけで魔素の薄い世界を独占し、魔族に魔界への逼塞を強制した。人間どもはやはり――」

「あーもう、いいよその話! 魔族がどうのこうの人間がどうのこうのじゃなく、ウチが見るのはその人がどういう人かってことだし!」




 のえるが大声を出してベルフェゴールを遮った。




「もう、四六時中そんな眉間にシワ寄せて人間たちを恨んでて疲れないん!? 人間にだって魔族と仲良くしたがってる人だっているでしょ! ウチはチョコミント嫌いだけど友達はめっちゃチョコミント食うし! 人によるでしょ!」

「……そう真剣に信じられるなら、どうやら貴様は獄上に平和ボケした世界から召喚されたらしいな。この世界では魔族と生まれるか、人間と生まれるかで憎しみ合う相手が変わる。悲しいかな、それがこの世界の現実だ」

「そんな、そんなのって……!」




 ベルフェゴールが言い張ると、のえるが反論に窮したように押し黙った。


 その、続く言葉に苦しんでいる顔を見て――フ、とベルフェゴールは笑った。




「お前は優しいな、のえる」

「ふぇ――?」

「お前は優しい。俺たち魔族にも優しいし、おそらく人間どもにも優しかったのだろうな。俺を慰めようとしてくれているのだろう? この【焦熱の魔王】を人間ごときが慰めようとは愚かだが――嫌いではない愚かさだ」




 フフ、とベルフェゴールが笑うと、のえるが顔を赤くして俯いてしまった。


 聖女とは言え、やはり中身は年端もゆかぬ人間の娘なのだ。


 その事実に少し安心したような気持ちになったベルフェゴールに――のえるが予想外の事を言った。




「ベルベル、聖女に家族を殺されたんでしょ?」




 ――声も出せずに、驚いた。


 のえるを見ても、のえるは真っ直ぐ下の景色を見つめたままだ。




「ギリ君がね、こっそり教えてくれたよ。ベルベルの家族は三百年前、聖女に皆殺しにされたって。だからベルベルは聖女に復讐するためにこの戦争を戦ってるんだ、って」




 そのことを口にすること自体、のえるにとってはためらいがあることだったに違いない。


 自分がなぜこの魔界に連れてこられたのかの答えが、もしそこにあったのなら。


 自分の運命がどうなるのか、わからぬはずがなかった。




 数秒、無言になった後――ベルフェゴールはため息を吐いた。




「あの痴れ者め、俺に許可なく俺の過去を話してしまうとは……」




 ベルフェゴールは顔を上げ、荒涼とした大地を見つめた。




「だが、それは一部は正解で、一部は間違いだ。俺の家族は確かに聖女によって殺された。だが、俺は別に聖女を恨んではおらん。完全に恨みがないといえば嘘になるが、その一方で、恨みよりも哀れみが強い、と言えばいいか」

「うぇ――? よくわかんないよ、ベルベル」

「あの日、俺の家族は確かに聖女によって殺された。俺の家族だけではない、俺が当時住んでいた村は人間どもの軍勢によって一方的に焼き払われ、多くのものが虐殺された。その軍勢の中にいたのが……先代の聖女だった」




 そう、己の運命が変わったあの日――。


 自分は確かに、聖女と呼ばれる女を見たのだ。




「雑多な武器を手に立ち向かった魔族たちを、聖女はその霊力で容赦なく引き裂いた。俺の視界は同胞の血で染まった。恐怖で動けない俺はそのとき――聖女と目が合ってしまった」




 ベルフェゴールはそこで先を言い淀み、二、三度、呼吸を整えてから、言った。




「聖女は――泣いていた。泣いていたんだ」

「は――?」

「何故自分がこんなことをせねばならぬのかわからず、その恐怖に震えていた。真っ青な顔で、絶望に歪んだ表情で、血染めになった俺をどうすればよいのかわからずに――立ち尽くすばかりだった」




 そう、あの黒髪の乙女は――ただの人間だった。


 聖女などという称号を勝手に押し付けられ、そう生きることを強制されていただけだった。




「俺はその時悟った。聖女が如何なる存在なのかを。聖女とはお前と同じ、獄上に平和ボケした異世界から連れてこられ、わけもわからずこの戦争に巻き込まれているだけの存在なのだ。よく考えれば迷惑千万な話だな。この戦争が終わらないのは俺たちこの世界に生きる俺たちが堕落しているからなのに――我々はお前たち異世界人に一方的にその尻拭いを押し付けているのだからな」




 そう、放っておけばのえるも近いうちにそうなっただろう。


 傷つき、恐れ、泣き喚き――その末に心が振り切れ、何も感じない戦争の道具として一生を送ることになっただろう。




「聖女や勇者――そんな存在に寄り掛かるばかりのこの世界はおかしい。己たちの中だけで事態を解決できず、異世界人であるお前たちの力を借り、戦争の道具に仕立て上げてしまうなどということは――許されないことなのだと。だから俺は復讐を誓った。それは聖女にではない、人間にでもない、俺たちにこんな運命を強制した、もっと大きな何者かに――」



 

 そして、それから三百年。


 今は俺は魔王と呼ばれる存在に登りつめ、全魔族を支配下に置いている。


 なのに、戦争は終わらず、和平の糸口さえ掴めていない。


 己の不甲斐なさに打ちひしがれていたベルフェゴールの顔に――ふと、温かいものが触れた。


 ん? と思ってそちらを向こうとした瞬間、ベルフェゴールの頭はのえるによって抱き締められてしまっていた。




「んな――!?」

「よしよし。ベルベル、辛かったね。おおよしよし」

「ば、馬鹿! 離れろ! 何を考えているんだ貴様は!? いくら聖女とはいえ魔王の頭を撫でるなどとは……!」




 いや、マジで本当に離れて。


 のえるの豊満な胸に思い切り頬を押し付けられる格好になったベルフェゴールは、年甲斐もなくパニックに陥った。


 この五百年、女の子に抱き締められるどころか、手を繋ぐことさえしてこなかった童帝魔王には、この刺激は少々強すぎた。


 しかし――パニックになる頭とは裏腹に、ずっとこうして胸に顔を埋めて頭を撫でられていたいような、甘くて眠たくなるような気持ちも生じてくる上、なんだかいい匂いがして、頭がくらくらする。


 かなり本気で慌てているベルフェゴールの頭上に、のえるの手のひらが回った。




「ベルベルはウチのこと優しいって言ったけど、ベルベルの方がよっぽど優しいじゃん」




 優しい。


 生まれてこの方、やれ暴虐だやれ残虐だと言われ続けてきた魔王は、生まれて初めてかけられたその言葉に、は、とのえるの顔を見上げた。




「ベルベル、つまりウチが先代の聖女様みたいになっちゃわないように、ウチを助けてくれたんでしょ? 聖女の力がどうのこうのなんて関係なくて、聖女として召喚されたウチをほっとけなかった……そうなんでしょ?」




 心のどこかで繰り返し否定していたその思いに、のえるは気づいてしまったようだった。


 思わず口ごもると、ベルフェゴールの頭に生えた角の付け根を擦るようにして、のえるが微笑んだ。




「ベルベル、素直じゃないね」

「……ほっとけ。もとより魔王とは強欲なものだ。己のしたいことを力づくで成し遂げる、それが俺の生きる道だ。獄上の、な」

「もう、そういう言い方、ホント可愛くないね。でもウチ、むっちゃ嬉しいよ。ベルベルがそんなこと考えてくれてたなんて――」




 ぎゅ、と、ベルフェゴールの頭を抱くのえるの腕の力が強くなった。




「もぉ……カワイイなぁ、可愛くないけど可愛いなぁこの魔王。もうどうしちゃおっかな。撫でるだけじゃ足んなくね?」

「お、おい、いい加減本気で離してくれ……これ以上はなんというか、流石の俺も……」

「うるさいなぁ、素直に撫でられとけし。言っとくけどギャルも強欲だかんね? 自分の信じる道を突き進むってんなら負けないぜ?」

「お、おい、本当に勘弁してくれ……! おっ、俺には刺激が強すぎる、オイ本当にこれ以上は……!」




 「魔族に優しいギャル」――そんな伝説上の存在が、もし存在するならば。


 いや――存在しているではないか、今ここに。


 たとえのえるがこの戦争を終わらせるために遣わされた存在でないとしても――彼女は魔族どころか、その頂点にいる魔王にすら優しい。


 穢れきってしまった自分を包容し、撫で、よく頑張ったね、よく頑張ってきたねと褒めてくれさえする。


 本当に、彼女が、「魔族に優しいギャル」なのか。


 いや――そんなものは今はどうでもいい。


 たとえこれが偽りの平和、偽りの優しさだったとしても、もう少しだけ――。




 ズズン……という、魔王城を揺るがす重い衝撃が突き抜けたのは、そのときだった。




「え、な、何――!? 魔王城揺れてね!?」




 ようやくベエルフェゴールの頭を放したのえるが、バルコニーから下を見た。


 魔王城の正門、そして中庭は既に蜂の巣をつついたような騒ぎになっていて、多数の怒号、そして次々と放たれる魔法の閃光が土煙の中に連続する。


 その光景を見ただけで何が起こったのか大体理解したベルフェゴールは、忌々しく顔を歪めた。




「――ふん、予想よりも随分遅かったではないか。獄上だ」

「え、な、何――!? 何ひとりで納得してんのベルベル!? 何が起こってるん!?」

「この魔王城には俺謹製の強力な結界が張ってある。人間が許可なく触れればその瞬間塵になるほどのな。曲がりなりにもそれを破り、俺の膝下を騒擾させることができる奴は――この世に一人しかおらん」

「そ、それって――!? それって誰なん!?」




 まだ察していないらしいのえるに、ベルフェゴールは重く言った。




「勇者だ。この俺、魔王と呼ばれる存在と対を成す、この世に無二の俺の天敵――」







 勇者。その単語に、のえるが息を呑んだ。


 ベルフェゴールはのえるに近寄ると、有無を言わさずにその細い体を抱え上げた。




「うわっ!? べ、ベルベル――!?」

「ほぼ間違いなく、勇者の目的はお前の奪還だろう。悪いが一緒に来てもらう。いいか、これからは絶対に俺の傍を離れるな。何があろうとも俺の隣にいろ、よいな?」

「は……はひ――」

「ん? なんだその顔は? 熱でもあるのか?」

「い、いや、なんでもないです……」




 何だか物凄く赤面し、縮こまっているのえるを不思議そうに見つめ、ベルフェゴールはトン、と床を蹴り、浮遊魔法で虚空へと舞い上がった。


 そのまま、大混乱の様相を呈する中庭に降り立ち、静かにのえるを地面に下ろした。




「陛下――!」

「魔王陛下!!」

「聖女のえる様もお隣に!」

「おお、いよいよ魔王陛下と聖女様が揃ってご出馬だ! みんな喜べ!」




 傷つき、押されていた魔族たちが一斉に喝采を叫ぶ。


 その喝采を右手ひとつで鎮めながら――ベエルフェゴールは土煙の中に誰何した。




「【焦熱の魔王】、ベルフェゴール・リンドヴルムの下問である。この魔王城を襲撃し、騒がせる痴れ者よ、貴様は(たれ)か!!」




 ベルフェゴールの声に、ゆらり、と土煙が揺れ――中から、一人の青年が歩み出でてきた。




「初めまして、だな、【焦熱の魔王】ベルフェゴール・リンドヴルム。――人類の希望である聖女を誘拐し、魔道に堕とそうとする悪魔め! その野望、必ずやこの俺、勇者タケルが挫いてやるぞ!!」




 如何にも勇者らしい、真っ直ぐな言葉とともに現れたのは、一人の黒髪の青年である。


 ベルフェゴールやこの国の人間とは違う、どこか東洋人の面影を残す青年は、黒く太い眉の下の目でベルフェゴールを真正面から睨みつけた。




「ふん、勇者タケル――数年前にこの世界に出現したという異世界人か。この世界とは縁もゆかりもない存在である貴様が随分と張り切っているではないか。何ゆえにこの世界のために命を懸ける? この世界は俺を含めてわざわざ救ってやる価値などない、堕落しきった世界だぞ」

「黙れ! この世界は素晴らしい! 貴様のような暴虐の君主にわかるものか!」




 勇者タケルは剣を構え直し、その切っ先をベルフェゴールに向けた。




「この世界は異世界人である俺を受け入れ、温かく迎えてくれた――どの人もどの人も、俺が死なせたくない人たちばかりだ! だから俺は戦う! 彼らを守るために!」




 ああ、やはり勇者としてこの世界に召喚されるだけはある青年だ。


 真っ直ぐで、熱くて、他に何も目に入っていいない。


 この世界において人間を守るということは、魔族を殺すということと同義であると知らない。


 己の信じる道を信じているから――どこまでも残虐になれる人間。


 勇者として召喚される人間はそんな人間ばかりだ。




 忌々しいものだと思っているベルフェゴールの横にいたのえるが――ふと、つんつん、とベルフェゴールの肩をつついた。




「ねね、ベルベル。今あの人、勇者タケルって言った? つーことは日本人ってこと? この世界と日本ってそんなイケイケになってるん?」

「あ、こら! お前は口を挟むんじゃない! これは勇者と魔王にとっては大事なシーンなのだ! シーしろ、シー!!」

「だってあの人はウチを取り返しに来たんでしょ? ウチが帰る気がないってわかれば帰ってくれるかもじゃん! ウチがまず話してみた方がよくね?」

「そ、そういうもんじゃないのだ! いいか、勇者と魔王というのは話し合いとかしないから勇者と魔王なのであってだな――!」




 ベルフェゴールが慌ててのえるの口を塞ごうとした、その瞬間だった。


 はっ、という声がどこかから聞こえた。




「恋し浜、さん……?」




 ――不意に、勇者のそんな声が聞こえ、ん? とベルフェゴールとのえるは同時に勇者を見た。


 勇者の顔は――弛緩していた。先程までの闘気と覇気がまるっと霧散したような表情で、勇者タケルは恋し浜のえるを凝視していた。







「恋し浜のえるさん……だよね?」

「え、そ、そうだけど――誰? ウチ知らんし」

「おっ、俺だよ恋し浜さん! オレオレ、オレだって!」

「だから誰だよ! 知らん知らん怖ッ! マジ怖いんだけど!! 誰!?」

「あ、ああ、そうだった! 俺、転生したんだった! この顔じゃわからないよな!!」




 転生、だと? ベルフェゴールが眉間に皺を寄せると、勇者タケルは自分の顔を指差した。




「俺、(タケル)だよ! 綾里第一高校一年C組の、太田健! 同じクラスだっただろ!?」




 その言葉に、えっ? とのえるが考える表情になった後――はっ、と何かを思い出した表情で問うた。




「えっ、待って。まさか――オタケル君?」




 オタケル。そう呼びかけた途端だった。ぐはっ!? とまるで吐血するかのような声を出し、勇者タケルががっくりと膝をついた。


 な、なんだ、なんで勇者はダメージを受けている? 


 困惑するベルフェゴールの前で、勇者タケルは剣にすがってようよう立ち上がった。




「そ、そうだよ、そのオタケルだよ……。だけどそれは転生する前の仮の俺のあだ名だ。今は勇者タケルって呼ばれてるんだよ……!」

「えっちょ、待って待って。意味わかんなくてますます怖いんだけど……!」




 のえるは激しく恐怖したような表情で後ずさった。




「だ、だってオタケル君、一年の二学期の時にトラックに轢かれて死んだじゃん……! 顔とかグチャグチャだったってウチの担任が……!」

「そ、そうだったの!? 俺そんな死に方したの!? うわぁグロっ――! だ、だから女神様はあんなことを――!」

「おい、待て勇者。貴様――会ったのか、創造の女神に」




 ベルフェゴールが問うと、勇者タケルが大きく頷いた。




「あ、会った。俺は召喚されたわけじゃない、この世界に転生したんだ! 前の世界で悲惨な生き方と死に方したから、可哀想だから勇者として転生させてあげる、代わりにこの世界を救ってくれって――!」




 そういうことか。ベエルフェゴールは顔を歪めた。


 あの腐れ売女め、とうとう勇者の異世界召喚をやめ、転生者を勇者に選ぶとは。


 つまり、あの勇者はこの世界の価値観に染まり切っていて、今までの勇者とは違い、魔族を殺すことを躊躇わない。


 いよいよあの女神は魔族を殺戮するために手段を選ばなくなってきているようだ。




「恋し浜さん! そんな魔王みたいなヤツと一緒にいるな! 俺と一緒に帰ろう! ホラ覚えてるだろ!? 一回俺が授業中にノートの片隅に描いてたエロ絵、恋し浜さんだけはカワイイって褒めてくれたじゃないか!!」




 突然、勇者タケルがなんか妙なことを言い出した。


 そうなのか? とベルフェゴールがのえるを見ると、のえるは戸惑い全開の表情で頷いた。




「俺はあの時嬉しかった、嬉しかったんだ――! 転生前の俺は誰かに褒められたことなんかなかった! みんな俺をキモいキモいと蔑み、爪弾きにした――! けれど、恋し浜さんだけは受け入れてくれた! 俺の前世で唯一嬉しかったことがあるとするなら、あの瞬間だけなんだ!!」




 勇者タケルは涙目でそんな悲惨なことを言った。


 うわぁ、なんかしょうもないやつが勇者として選ばれたな。


 いくら魔王ベルフェゴールと言えど、出会ってきた者たちにはそれなりによくしてもらった記憶があるし、同族にいじめられた経験もない。


 だからあんなに必死になってこの世界に縋ってんだな、可哀想な奴だ。




「俺、俺――恋し浜さんが好きだッ! 転生した今も、君が大好きなんだぁっ!」



 

 魔王そっちのけで遅れてきた青春を挽回しようとしている勇者は、涙目になり、洟水を垂らしながら叫んだ。


 ざわざわ、と、魔族たちが顔を見合わせる中、のえるは迷惑そうな、怯えたような顔でその決死の告白を聞いていた。




「あのときと違ってホラ、それなりに見られる顔になっただろ!? 今の俺ならどんな女の子にも優しくしてもらえる自信があるんだよ! 俺と一緒に来てくれ! そんで勇者と聖女として人間を守ろう! 魔族と戦おうよ! 俺たちでこの世界を救うんだよ! オタクにも優しかった恋し浜さんならきっとそれができる! 俺と一緒に帰ろう――!!」




 ハァハァ、と、勇者は全身で息をしていた。


 どうするんだ? と再びベルフェゴールがのえるを見ると……ひくっ、と、のえるの顔が引き攣った。




「いや……オタケル君と一緒とか、普通にムリですけど」




 ぐはぁっ! と、今度こそ勇者タケルは本当に喀血した。


 ビタビタ……と、乾いた大地に血が滴り、たまらずに勇者が地面に片膝をついた。




「だって……いくら顔がよくても、中身はオタケル君でしょ? つーか、今この状況でコクってくるとか、正直むっちゃキモいし。やっぱ中身はオタケルのまんまじゃん」




 ぐおおお!! という悲鳴が上がった途端、ベコベコォ! と勇者タケルが身につけた鎧が音を立てて凹んだ。


 なんだ? 何が起こっている? なんでたかが言葉で勇者ともあろうものにあれ程のダメージが?


 ベルフェゴールが困惑すると、のえるは更に言った。




「だいたいさぁ、授業中にエロ絵描いてるとか、常識的に考えておかしくね? 隣にウチいたじゃん。つーかさあの絵、確実にウチをモデルにしてたでしょ? 褒めなきゃムカつくからカワイイねって褒めただけだし。それだけじゃなくて、毎日毎日チラチラウチの胸とか脚とか見て――正直超キモかったんですけど。そんなヤツと一緒に帰るシュミないし。オタケルマジキモっ」




 ぐわああああ―――――――ッッツ!! と、クロコダインのような絶叫とともに勇者タケルが吹き飛び、地面に転がった。


 もうこれ、俺いらなくないか? のえるの口撃だけでもう再起不能のダメージではないか。


 俺、帰ろうかな……と半ば本気で迷っていると、「お、おのれ……!」という声とともに、勇者タケルがびっくりするぐらい膝を笑わせて立ち上がった。




「お、おい勇者、悪いことは言わん、今日は諦めて帰れ。そんなんでは俺と戦えぬだろうが……」

「だ、黙れ……! おっ、俺の聖女のえるを魔道に堕としておきながら、よくもいけしゃあしゃあと……! 貴様はやっぱり暴虐の魔王だ……!」

「はぁ? 意味わかんない。勇者だか敗者だか呼ばれてるからって調子乗んなオタケル。おめーがベルベルの何を知ってんだよ」

「聖女のえるはそんなこと言わない、聖女のえるはそんなこと言わない、聖女のえるはそんなこと言わない……! 今のは幻聴だ、魔王のまやかしの魔法なんだ……!」




 ブツブツとそう繰り返す勇者タケルに、魔族たちでさえ怯えた。


 こ、コイツ、自己暗示で今の言葉を聞かなかったことにしようと――!?


 魔王ベルフェゴールでさえその尋常ならざる気持ち悪さに顔をしかめた途端、勇者タケルが血の涙を流しながら顔を上げた。




「魔王ベルフェゴール……! 俺の聖女のえるを洗脳し、あろうことかオタクに厳しいギャルに仕立て上げるとは――! この俺にはこれ以上なく効いたぞ! だがもう効かない! 効かんのだ!! 何故なら、俺は前世ではみんなにこんな感じで気持ち悪がられていたからだ!!」

「う、うわ、立ち直り方が気持ち悪ッ……! お、おいのえる、お前の世界の人間はみんなこうなのか!? 獄上に気持ち悪いではないか!!」

「ふざけんなよ! ウチらの世界がオタケルのせいでドン引きされてんじゃん! 最悪! マジキモい! 帰れよオタケル!!」

「がああああああああああ!! 効かん!! 効かん聞かんで二倍の防御力!! きっと魔王が消えればこの罵声も、この状況も、何もかも消えてなくなるはずなんだぁ!!」




 うわぁ、コイツ本気で気持ち悪い――!


 ベエルフェゴールが今度こそ顔をしかめると、血涙と洟水とをダラダラと流しながら、勇者タケルが一歩前進した。




「うぉのれぇ、【焦熱の魔王】ベルフェゴール・リンドヴルム……! 何があっても聖女のえるは連れ帰るぞ……! そして絶対に結婚する、結婚するんだ! 貴様なんかに渡してなるものか……! ちょっと顔がいい、ちょっと顔がよくて、ちょっと力があって、ちょっと権力もあるだけでみんなからチヤホヤされてる、貴様のような穢れた魔族なんかに……!!」




 勇者タケルが呪いの言葉を吐いた、その瞬間だった。






「ふっっっっっっっっっっっっっざけんなよオタケル!! ベルベルや魔族をおめーみてぇなキモキモの実の能力者が馬鹿にしてんじゃねぇっ!!」






 ――その真っ直ぐな言葉は、たとえ聾人の耳にだって届いたかもしれない。


 恋し浜のえるは全身を怒らせ、涙さえ浮かべながら、全身で勇者タケルを拒絶した。




「ベルベルは顔がいいだけじゃない! 声もいいし性格も超いいし!! 何よりウチにむっちゃ優しいもん!! ベルベルだけじゃない、魔族みんながみんなウチに優しいし! 人間に酷いことばっかされてきたはずなのに、人間であるウチだってみんな優しかった――! だからウチだって優しくするんだもん!! オタケル如きがみんなを馬鹿にすんなっ!!」




 その言葉に、勇者タケルの目が今度こそ点になった。




「キモいキモいマジキモいっ!! 魔族のみんなと違ってオタケルは全然ウチの話を聞こうとしないじゃん!! ウチに優しくされたのに、ウチには自分勝手なことばっかり言ってくんのがマジキモい!! オタクどころか人の心がない欠陥人間じゃん! ウチはベルベルの側から絶対に離れない!! 死んでもオタケルのことなんか好きにならないから!! 死ね、死ね―――――――――――っ!!!」




 その最後の「死ね」は、たとえ言われた本人ではなくとも、それを聞くものの心をザックリと断ち割るような辛辣さがあった。


 案の定――勇者タケルは魂魄さえかき消されてしまったかのように、今度こそ本当に覇気を失ってしまった。


 やがてその唇の端から、つつっ――と涎が垂れた後は、膝をつき、勇者タケルはバッタリとうつ伏せに倒れた。




 あ、死んだ。勇者が死んだ。


 魔王と戦ってもいないのに、言葉だけで死んだ。




 魔族たちが、のえるのその言葉を聞いていた魔族たちが、次々に涙を流し、跪いて恭しく頭を垂れ始める。


 生まれてこの方、人間に優しくされたことなどない魔族たちが――のえるの真心からの言葉に触れ、心をゆっくりと解き解されていくのが見えるかのようだった。




 ベルフェゴールは――その光景に激しく心震えた。




 魔族に優しいギャル聖女――のえるが、のえるこそが、伝説に謳われしその存在なのだ。


 そう断じるのに何の疑いもない光景だった。


 彼女は、彼女なら、魔族を愛し、魔族を慈しみ、この戦争を終わらせることができる。


 古の伝説は、ここに真になった。


 彼女こそ、彼女こそが――。




「ビッチ――」




 不意に、地獄の底から響いてきたような恨みの言葉が聞こえたのは、その時だった。


 ズリ、ズリ――と、まるで死体が意思を得て動き始めたかのように、ピクリともしなかった勇者の身体が、イモムシのように蠕動を始めた。




「ビッチ、このクソビッチが――! おっ、お、おおおお、俺をからかって、オモチャにして遊んでたんだな――!」




 ゴゴゴゴ、と、効果音が聞こえそうな程に、勇者タケルの身体から色濃く殺気と魔力が放たれ始めた。


 その魔力の奔流は天を焦がし、大地を引き裂き、その場に居並んだ魔族を激しく怯えさせた。




「もういい……お前みたいな股ユルユルの腐れビッチを一瞬でも好きになった俺がバカだった――! 今も俺をただのオタクだと思ってるなら大間違いだぞ……! 俺は、俺はこの世界に来て、やっと本当の自分になれたんだからな……!!」




 びくっ、と、のえるが身を固くして怯えた。


 恨みの言葉を吐いて起き上がった勇者タケルの形相は――既に勇者のそれではなかった。


 否、その形相の凄まじいことは、既に人間のそれでも魔族のそれでもない。


 血の涙を流し、涎を吹き散らし、洟水を垂らし、毛という毛を逆立てて。


 ただただ、身を焦がすかのような深い絶望と激しい怒りに突き動かされるだけの――化け物に堕ちていた。




「よくわかった――聖女のえるは堕落した! 勇者である俺ではなく、ちょっと顔がいいだけの魔族に籠絡されて、人類の――俺の、俺の敵になった! 俺の敵なら殺す! ぶち殺す! 俺にはできないと思ってるんだろ……! オタクに優しくなかったことをあの世で永久に後悔させてやる!!」




 途端に、勇者タケルが持った剣が激しく発光した。


 凄まじいほどの魔力――その魔力が形を成し、剣に集って巨大な刃を形成する。




「ビッチは死ね――! リア充はみんな死ね!! 自発的に死なないなら俺がどいつもこいつもブチ殺してやる!! ――うがああああああああああああああ!!」




 もはや勇者のものでもなんでもない呪いの言葉とともに、勇者タケルはのえるに向かって剣を振り抜いた。




 バチバチバチバチッ! という凄まじい音とともに迸った魔力の斬撃が地面を抉り、大気そのものを斬り裂きながらのえるに殺到する。




 逃げられない。


 のえるがぎゅっと目を瞑った、その瞬間――。




 ゆらり、と――。


 まるで夜の闇を吸いきったかのような影が視界を覆い尽くし――後は何もかもわからなくなった。





 どれだけ目を瞑っていたことだろう。


 のえるがふと目を開けると――目の前にあったのは、大きな影。


 あまりにも巨大に見える影だった。




「獄上だ。曲がりなりにも勇者である存在が、あろうことか聖女を手に掛けようとするなどとは――」




 嘲るような、その行動に呆れ果てるかのような、低く、凍てついた声。


 いつの間に現れたものか、【焦熱の魔王】ベルフェゴール・リンドヴルムが――右手を盾のように構え、のえるの前に立っていた。




「だが、そうはさせん。勇者相手に立ちはだかるべき存在は、この地上にただ一人だけ――魔王以外にありはしないのだからな」







「リア充――リア充ゥゥゥゥアァ――――――――――――――――――――ッ!!」




 勇者タケルが気触りのような咆哮を発した。




「魔王ベルフェゴール……! 今やっとお前のことを心の底から憎いと思えたぞ!! 俺の敵は魔族でも魔王でもなかった……リア充だ! リアルが充実しきってるお前らなんかに俺は負けない! 日陰のダンゴムシの本気を見せてやるぞ!!」

「何をわけのわからぬことを言ってる、痴れ者が。貴様のような性根の腐りきった人間が勇者だと? 笑わせるな」




 勇者渾身の啖呵を、ベルフェゴールは鼻白んだ。




「どうやら創造の女神の目はいよいよ曇りきったらしいな、このような情けない男を勇者として選び出すとは――あるいはその歪んだ鬱屈と憤懣の矛先が俺たち魔族に向くことを望んでいたか……」




 ぐっ、と、ベルフェゴールが平手を握り締め、開戦の口上を述べる。




「いずれにせよ、貴様のような人間にだけは毛ほども容赦してやることは出来ぬ。今この場でその堕ちた魂を完膚なきまでにへし折ってくれよう。獄上に、な」

「やってみせろやクソ魔王! リア充なにするものぞ! 今の俺は勇者だ! 最ッ強のパリピなんだぁぁぁぁぁ!!」




 意味不明な勇者の咆哮が消えたあたりで、ベルフェゴールはのえるを目だけで振り返った。




「のえる、離れていろ。ここから先は魔王である俺の独壇場だ」

「そっ、そんなベルベル――! ウチだって聖女なんでしょ!? ベルベルと一緒に戦うよ! こういうの慣れてないからちょっと足手まといかもだけど……!」

「足手まといなどであるものか。今のお前の言葉――はっきり言って心震えたぞ。お前は既に立派に自分の仕事を果たした。魔族を慈しみ、励まし、俺たちの死んでいた誇りを奮い立たせた」




 そこで端正な顔をほころばせ、唇だけで笑ったベルフェゴールの笑みに、のえるは何故なのか急激に顔が熱くなるのを感じた。




「お前は俺の後ろにいるだけでいい。それだけで俺は絶対に負けぬと約束できる。ここからは決して俺を疑うな。信じろ――よいな?」




 安心させるかのようなその言葉に、のえるは頷いた。


 今、そこに立っていたのは、いつもいつも自分の一挙手一投足に顔をしかめ、時に赤面して狼狽えていた残念美形な童貞男ではない。


 魔族の頂点を極め、すべての魔族をその双肩に担う巨大な存在――魔王そのものとしか思えなかった。




 この男、この存在は一体――のえるが今更にそのことに末恐ろしくなったのと同時に、魔王が勇者に向き直った。




「さてにわか勇者、貴様にはハンデをくれてやろう」

「は――?」

「俺は今から一歩も動かぬ。頭だろうが胸だろうが好きに打ち込んで来い。それだけで貴様と俺の格の違いを教えてやろう」




 身体を開き、腕を広げながらそんなことを言ったベルフェゴールに、勇者タケルは凄まじく憤ったらしかった。


 既に限界までひん曲がっている顔を更に歪ませ、ギリギリギリギリ、と奥歯が凄まじい音を立てて軋んだ。




「出た出た、リア充特有の陰キャ舐めプ……! 俺はそういうのが大ッ嫌いなんだ!! ふざけるな! ちゃんと相手しろ!!」

「ふざけているのはどちらなのだ。魔王ともあろう存在がたかが子兎一匹相手するのに銃や爆弾を持ち出すわけがあるまい。貴様なぞこの掌で十分すぎる程十分だ。――どうした、意気地がなくて丸腰相手では本気が出せぬか?」

「そこまで言うなら後悔するなよ――俺は女子小学生でも全力でぶん殴れる男だ! うおおおおおおおおおおおおおおっ!!」




 人間的にクズとはいえ、流石は勇者と呼ばれる存在、全身から発した魔力が音を立てて剣に集い、一振りの巨大な刃を構成する。


 これで打ち込まれたら面を割られるどころか、塵のひとつも残さずに蒸発させられてしまいそうな、圧倒的な魔力を目の当たりにして、のえるも怯えた。




「喰らえリア充――積年の恨みだ! 【真・勇者斬・極】!!」




 その冴えない咆哮とともに、勇者タケルは地面を蹴った。


 まるでコマ落としのように魔王に肉薄した勇者の斬撃が、大上段で振り下ろされた――次の瞬間。




 ガキン! という金属音が発し、のえるは目を瞑った。


 数秒後、おっかなびっくり目を開けると、そこには。


 勇者渾身の斬撃を、人差し指一本で受け止めた魔王ベエルフェゴールの涼しい顔があった。





「んな――!?」




 のえるだけではなく、勇者タケルまでもが目をひん剥いた。


 先程は明らかに本気の一撃であったのだと知れるその反応に、ふん、とベルフェゴールは嗤った。




「ふん。この指ぐらいは飛ばして見せるかと思っていたのだが――期待外れにも程があるな。当代の勇者の力はこんなものか」




 その言葉に、勇者タケルが剣を収め、物凄い勢いで飛び退って間合いを切った。




「な、なななな……!?」

「何を動揺している。――斬りつけたぐらいで、魔王である俺を斬れると思ったか」




 その恫喝は、まるで雷鳴の如くに響き渡った。


 途端に、むん、と濃くなった魔王の殺気に、のえるだけでなく、他の魔族、そして他ならぬ勇者までもが怯えた。




「な、なんで、なんで斬れ――!?」

「簡単な理屈だ。貴様は木の枝で鉄塊を砕くことが出来るとでも? この場合、硬度とは魔力の総量、そしてどの程度研ぎ澄ませたかになる。単純に、貴様が振るった剣より、俺の指の方が硬かったというだけだ」




 ゴゴゴゴ……と、音が鳴る勢いで魔王のオーラが勢いを増した。


 勇者タケルはそのオーラの凄まじさに顔を硬直させ、気圧されたように後ずさった。




「人間どもに勇者だ英雄だと煽てられてその気になったか? 貴様は勇者の何たるかを全く理解していないらしいな。そしてそれ以上に、魔王の何たるかを理解していない。貴様の如きクズが少し本気を出せば倒せる――魔王という存在をそのように考えているなら、それは大きな測り間違いだ」




 ギリッ! と、魔王ベルフェゴールが目の前の勇者タケルを睨みつけた。




「貴様は俺の甘皮一枚も切り裂くことが出来ぬというのに、愚かにも裸一貫でこの俺の前にノコノコ現れた。その短慮と無謀、これからたっぷりと貴様に後悔させてやる。――ほら、二撃目はもっと頑張らぬと、もっともっと絶望することになるぞ」

「や、やっかましいわ! リア充が陰キャに偉そうに説教ブッこいてんじゃねぇぞ! それだからリア充は嫌いなんだ! 俺たちが必死に生きてるのをいつもいつも上から目線でバカにしやがって……!」




 勇者は憤懣やる方なしという声でそう怒鳴ったが、その声には明らかにさっきまでの威勢はない。


 怯え、震え、転生前と同じ、情けなさと自信のなさを丸出しにした声で、勇者タケルは再び剣を振り上げる。




「こっ、これで効かないなら次はもっともっと本気出してやる! 次こそはお前をギッタギタにしてやるんだからな……! これが勇者の本気だぁ!!」




 その震え声とともに、勇者は魔力を全開にして地面を蹴った。


 凄まじい程にほとばしるオーラが大気を焦がし、ゆらゆらと向こうの景色を歪ませながら突進してくるのに向かって――ベルフェゴールが、フッ、と息を吹きかけた。




 途端に、勇者が纏っていた魔力が突風に吹き消されるようにして霧散した。


 勇者が、ぎょっと目を見開いて身体に急制動を掛ける。


 後に残ったのは、命綱である剣の束を握り締め、間抜け面を晒したまま立ち尽くす、愚かな青年がいるだけである。




「……え?」

「こうして俺に吹き消されるほどの本気、ということか。貴様はやはり最低のカス勇者であるらしいな。虚栄心、承認欲求、他者への優越感――そんな私利私欲のために振るわれる剣のなんと軽きことか――」




 ベルフェゴールは硬直したままの勇者に一歩近づくと、むんず、とばかりにその剣の鋒を鷲掴みにするや、ほんの少し腕に力を込めた。




「ほら、片腕一本で持ち上げられる程に、勇者である貴様の存在は軽い――」




 途端に――その剣の束を握る勇者タケルの身体までもが冗談のように宙に浮き、勇者タケルの身体が棒切れのように振り回される。




「うおっ……うおおおおおっ!?」

「きちんと受け身を取らんと大怪我するぞ――そら!」




 瞬間、ベルフェゴールはまるで小石を投げるかのように勇者タケルを放り投げた。


 ぐえっ! ぶべべべべ!! と、汚らしい悲鳴とともに地面を転がった勇者タケルは、土埃に塗れて地面に転がった。


 凄い、魔力すら使っていないのに、魔王は既に勇者を完全に手球に取っている。


 まだこの異世界に召喚されて長くないのえるにも、その凄まじさは十分に伝わっていた。




「ぐ――!? ぐおおおお……!!」

「何を寝転んでいる、貴様は勇者なのだろう? ここは魔王の御前なるぞ、勇者であるならばさっさと立ち上がってみせよ」




 その圧倒的な挑発に、勇者タケルが両手を地面について起き上がろうとするのを――ベルフェゴールは何の容赦もなく、真上から蹴り潰した。


 鈍い音が発し、勇者タケルが顔面を地面に叩きつけた。




「ガ――!」

「どうした勇者、俺は立ってみせろと命令したはずだぞ」




 そう言って、ベルフェゴールは勇者の後頭部から足を離した。


 勇者が咳き込みながら顔を浮かせた瞬間――再びベルフェゴールはその後頭部を蹴り潰した。




 まるで勇者の肉体ではなく、心そのものをやすりで削り取るかのように――。


 その攻撃、否、拷問はたっぷり五回ほども繰り返され――遂に勇者の鼻が潰れ、夥しい量の鼻血が地面を赤く穢した。




 勇者の頭が蹴り潰されるたびに、のえるは目を背けた。


 見なければ、見届けなければという使命感を圧して、繰り返される攻撃音と悲鳴が鼓膜をひっ掻くかのようだった。




 嫌だ、嫌だ、嫌だ。


 勇者に一撃を加えるごとに、ベルフェゴールが魔王になっていく。


 この半月、見知ったベルフェゴールが知らない誰かになっていく。


 のえるが泣きそうになって歯を食い縛っていると、不意に、勇者の口から腸を搾るかのような悲鳴が迸った。




「あ……あ……! う……!」

「もはや唸ってみせる気力もない、か。どうだ、これが勇者と魔王の闘いというものだ。どちらかが滅ぼされるまで永久に続く苦しみと痛み――貴様はこんなものになんの憧れを感じていた?」




 ふと――そう言ったベルフェゴールの顔に、莫大な徒労感と哀れみが浮かんだように見えたのは――のえるの見間違いだったのか。


 地面に顔を押し付けたまま震えている勇者タケルを見下ろして、ベルフェゴールがゆっくりと、右足を地面に下ろした。




「俺たち魔族は五百年の間、貴様たち人間とこんな歴史を繰り返してきた。この戦いによって命を落としたものの数はもはや数えることすら叶わぬ――それがこの世界の現実だ。仮にお前が俺を殺すことに成功したとしても、それで全てに決着が着くのか、それすらわからんのだぞ」




 魔王の声が、何かを言い聞かせる声になる。


 地面に顔を押し付けたまま、勇者タケルは微動だにしない。




「勇者とは英雄の呼び名ではない、この戦争で最も多く傷つき、最も多くの血を流して戦う人間の名だ。貴様にはとてもその任は務まらぬ、務まらぬ方がよいのだ。傷つき戦うお前の代わりに陰で安穏を啜る者たちがいる、平和を貪る者がいる……それを憎いもの、唾棄すべきものとまだ思えるのなら――もう二度とこの世界の堕落と退廃に手を貸してくれるなよ」




 命令とも、懇願ともつかぬ言葉とともに、ベルフェゴールは勇者に背を向けた。


 圧倒的な存在、圧倒的な戦力差、圧倒的な現実を前に――勇者はガタガタと震えたまま、獣のような唸り声を上げて身体を丸め、両腕で頭を抱えた。




 殺さない、のか――? 


 のえるが視線だけで問うと、ようやくベルフェゴールの顔がわずかに綻んだ。


 だって、お前はそう望むのだろう?


 ベルフェゴールのその疲れたような笑みが明らかにそう言っているのを見て、ようやくのえるはベルフェゴールの下に駆け寄ることが出来た。




「ベルベル――!」

「もう心配はない。勇者は二度と勇者として立ち上がることは出来ぬ。――もはやお前がそう望まぬ限り、人間どもに連れ戻されることはないだろう」




 その言葉に、安堵したとも言える気持ちになった、その瞬間。


 ベルフェゴールの右手がのえるの頭の上に回り、えっ? とのえるはベルフェゴールを見た。




「心配はいらぬ。偽りの勇者などいなくとも、この世界には既にお前がいる。お前さえいればこの世界を救うには十分だ。お前の優しささえあれば――この世界の悲劇はきっと終わる。先程、言葉だけで俺たちの苦しみを救ってくれたようにな――」




 ニコリ、と、初めて完全に笑ってみせたベルフェゴールの笑顔に――のえるの中の、今まで一度も震えたことのない部分が震えた。


 元々、狂気的なまでの美形ではあるとはわかっていたけれど、のえるから見たベルフェゴールという男は、色々と男性としては残念な男でしかなかった。


 しかし――先程の、まさに魔王のそれとしか思えぬ冷酷な戦いぶり、そこから一転してこのスマイル――反則、の一言であった。




 カーッ、と、自分の顔面に血潮が上る音が聞こえるようだった。


 ぽーっと、何も言えずにベルフェゴールの顔を凝視すると、ベルフェゴールが少し戸惑ったような顔をした。




「のえる――?」

「イイ……」

「は?」

「マジヤバっ、コイツ、マジかよ……! こんなん反則じゃん……! むっ、無理無理無理……!」

「どうしたのえる、急に語彙が……」




 その時だった、ぴちゃ、という小さな小さな音をのえるの耳が広い、はっとのえるは下を見た。


 見ると――魔王の指先から血が滴り、自分の足元に小さな血溜まりを作っていた。




「べっ、ベルベル……怪我してんじゃん!!」

「ん? ああ、これか。先程勇者の聖剣を掴んだときの傷だ。いくら魔王の俺であっても聖剣を鷲掴みにするのは少し無茶が過ぎたか」

「な、なんでそんな冷静!? そこそこ血ィ出てんじゃん! すぐに手当てしないと――!」

「よい、捨て置け。この程度の傷、治療に十年もかからん」




 十年。その気の遠くなるような年月をあっさりと口にしたベルフェゴールに、のえるはその顔を見つめた。




「聖剣でつけられた傷はなかなか厄介でな、この俺をしつこく苛み続けるためだけにこの世に生み出されている。普通の武器でやられた傷ならば一瞬で治療が完了するのだが、聖剣となるとそうもいかんのだよな……」




 そう言い切った瞬間、いてて、とばかりに、ほんの僅か眉間に皺を寄せたベルフェゴールの表情を見て――のえるはあることを悟った。




 この人は傷ついても痛くないわけではない。


 痛みに慣れてしまったのだ。


 この程度で済めばよい方だ――それを数百年も繰り返し続けてきたのだ。




 なんだか、今更ながらにこの世界がどのような世界で、その片方の頂点にいる存在がどういう存在なのか、わかってしまった気がした。


 これから十年、ベルフェゴールはこの掌の傷を、毎日、いつもいつも感じなければならない。


 でも――それでもまだいい方の結果でしかない。


 圧倒的によい結果などひとつも存在しない、それがこの世界の現実なのだ。




「そんなのって……」




 ぐっ、と、のえるは握った拳に力を込めた。




「のえる――?」

「そんなのって、絶対ナシじゃん……! 酷いよ、ウチは絶対嫌だよ……!」

「ど、どうしたのえる。何を憤っている? 何がそんなに――」

「ベルベル! もうこんなことしちゃダメだよ! それは普通じゃないよ、絶対間違ってる! こんなナシなこと、ウチは絶対嫌だから!」

「ど、どうしたというのだ、急に何をそんな――」




 ベルフェゴールがそこまで言いかけた、その途端だった。




 あああああああ、という、気が触れたかのような絶叫が後方に発し、ベルフェゴールははっと背後を振り返った。




 血、涙、洟水――その全てに塗れ、土埃と泥で二目と見られない顔になっている勇者タケルが立ち上がり、全身から凄まじい魔力を立ち上らせていた。


 どうやら、敗北を受け入れる度胸すらないらしい小者勇者が、聖剣を大きく振りかぶり――ベルフェゴールに向かって鋭く投擲した。




 ふん、この期に及んでまだ悪足掻きするとは。


 ベルフェゴールが右腕を掲げて聖剣を弾き返そうとした、その瞬間。




 ――自分の背後から飛び出してきた何者かが、あろうことか己の前に立ちはだかり。




 まるで吸い込まれるかのようにして、飛んできた聖剣がその腹に突き立った。




 一瞬、世界中の時が止まったかのようだった。




 有り得べからざる光景を前に、ベルフェゴールは生まれて初めての戦慄に凍った。

 



「のえる――!」




 「魔族に優しいギャル」――恋し浜のえる。


 この戦争を終わらせるべき聖女の身体が――聖剣によって深々と貫かれていた。







 ズルリ、と、自重によって聖剣が抜け落ち――大量の鮮血とともに地面に落ちた。



 それと同時に力を失い、傾いだ身体を受け止めてやると、恋し浜のえるが目だけでベルフェゴールを見上げ、にっ、と笑った。




「ベルベル……怪我してない?」

「しとるはずがなかろう! 怪我をしておるのはお前だ!」

「へへ、そりゃよかった……庇った甲斐があったね……」




 そんな軽口を叩く間にも、ざっくりと貫かれたのえるの傷からは致命傷としか思えない量の鮮血が流れ、地面の血溜まりは刻一刻と面積を広げていっている。


 何故だ、何故だ。ベルフェゴールは気が触れたとしか思えないのえるの行動に激しく動揺した。


 魔王である自分を、人間が、しかも聖女ともあろう人間が庇うことなど。


 ベルフェゴールは既に血の気を失いかけているのえるの頬を掌で擦った。




「何故だ、何故俺を庇った!? お前にこんなことをされずとも俺は無事だった! わかっておったはずであろう!? 何故――!」




 そう問うと、のえるが再び、薄く笑った。




「だって――魔王になってからのベルベル、誰かに守ってもらったり、庇ってもらったことなんて……一回もないでしょ? だから……」




 全く予想外のその動機に、ベルフェゴールは絶句してしまった。


 ごぼっ、と、のえるの口から大量の鮮血が噴き出し、その端正な顔に滴った。




「オタケル、君……」




 のえるが驚愕の表情のまま硬直している勇者タケルを見た。


 のえるは二、三度、顔の筋肉を震わせて――寂しそうにはにかんだ。




「オタケル君、ウチはね、オタケル君のこと、気持ち悪いとは思っても――悪い人だとは思ったことなかったよ。あんまり話したこともなかったけどさ、きっと、きっと、本当は優しい人なんだろうって……」




 思えば勝手だったね、というように、恋し浜のえるが微笑んだ。


 勇者タケルが、がっくりと地面に崩れ落ちた。


 冷や汗に塗れた顔を掌で拭ってやると、のえるが真剣な目でベルフェゴールを見上げた。




「ベルベル、慣れちゃダメだよ。そんなの絶対、おかしいことだから……誰かが誰かの代わりに傷つくなんて、そんなの、普通じゃないから……」

「わかった、もうよい。口を閉じてくれ」

「それでもベルベルが、誰かの代わりに傷つくって言うんだったら……ウチだって負担するし。聖女様だもんね、それぐらい……しなきゃだし……」

「もうよい、わかった。頼むから口を閉じよ、傷に障る」

「ベルベル、もっと泣いたり笑ったりしなきゃだよ? この戦争、ベルベルが必ず終わらせるんだから……その時に笑ったり泣いたりできないと、きっと寂しいよ……?」

「おい、やめてくれ。もうわかった、わかったから――!!」




 思わず、ベルフェゴールは傷の治療も忘れてのえるの頭を抱き締めた。




 何故だ、何故そんな馬鹿な事を考えられる?


 何故、魔王ともあろうものを庇うのだ。


 何故、魔王ともあろうものにこれほど優しくできるのだ。


 これほどまで献身的なお前の優しさを、何故、何故この世界の人間や魔族は、百分の一でもいいから持ち合わせないのだ。




 刻々と弱ってゆくのえるの呼吸音に、ベルフェゴールは覚悟を決めた。


 ぐっ、と、温かさを失いつつある掌を握り、ベルフェゴールはのえるに言い聞かせた。




「のえる、今から俺の魔力を治癒力としてお前の身体に流す。魔王の魔力だ、おそらく人間の身体には相当の負担になる。はっきり言って――獄上に苦しいと思う。それでも、俺はお前を死なせたくない」




 その言葉に、のえるが焦点の定まらない目で応えた。




「必ず、必ずお前を助ける。お前のような人間は絶対に死んではならぬ。神がそれを許さぬと言うなら、この俺が神であっても殺す。俺を信じよ、信じて信じて信じ抜いて――必ずや生き延びて俺の側に居よ。よいか?」




 のえるが瞑目し、こくり、と小さく頷いた。


 よし、とベルフェゴールも応え――のえるの掌から、ゆっくりと魔力の注入を開始した。




 途端、のえるの細い身体が激しく痙攣した。




「あっ、あああああ……!!」

「耐えよ、苦しいのは今だけだ。お願いだから耐えてくれ……!」




 のえるの顔が苦悶に歪み、激しく身を捩るのを、ベルフェゴールは全身で押さえつけた。


 魔力注入の時間は十秒に満たなくても、それは体内に煮え湯を注ぎ込むような灼熱と激痛を引き起こすはずだ。


 しばらくガクガクと痙攣したのえるの身体が――ふっ、と力を失い、糸が切れたかのように静かになったのを見て、ベルフェゴールはほっと息を吐いた。




 これで魔力の注入は完了、後は魔力によって励起されたのえる自身の治癒力が傷を癒やす。命は繋がることだろう。


 ひとまずこれでよし――莫大な安堵に思わずへたり込みそうになっていると、「お、俺は悪くないッ!」という悲鳴が背後に聞こえた。




「おっ、俺は魔王を倒そうとしたんだ! 魔王を狙って攻撃したんだ! 魔王なんか庇うから……! お、俺のせいじゃないぞ!!」




 もはや何を言う気力もなく、ベルフェゴールは勇者タケルを見た。ただ見たのである。


 ただそれだけで、勇者タケルは激しく怯えたような表情になった。




「や、やめろ! 俺をそんな目で見るな! おっ、俺は何もしてないじゃないか! やめろ! どうして俺をそんな目で見る!? 恋し浜さんが悪いんだ、お前なんかが存在してるから悪いんだッ!! おっ、俺は悪くないって言ってるだろ! やめろ、俺を責めるな――!!」




 あまりにも勝手で、あまりにも自分本位なその言動に、その場に居並んだ魔族たちですら顔を見合わせ、呆れたように勇者タケルを睨んだ。


 ガリガリ、と、勇者タケルは爪を立てて己の顔を掻き毟り――ダラダラと涙を流して慟哭する。




「なんでだよ……! せっかく勇者になったのに、なんでお前らは俺をそんな目で見る!? こんなの、こんなの転生前と一緒じゃないか! どうしてだよ!? 俺は何になればいいんだよ! これ以上何になれば俺は俺でなくなるんだ!? そんな目で見るなら教えてくれよ! おっ、俺は、俺は――あああああああああああ……!!」




 その目にもう耐えられないというように、勇者タケルは顔を覆って泣き喚いた。


 この光景を人間たちが見ていたら、どんな表情をするのだろうか。


 一体如何なる存在であるならば、こんなに情けなくて、こんなに最低の振る舞いをする生き物をも――許容できるというのだろうか。




 侘びしく背中を丸めて泣きじゃくる勇者タケルを見て――ベルフェゴールは決意した。




 こいつは殺す。


 殺さねばならぬ。


 今ここでこの勇者を完膚なきまでに滅却せねば――きっとこの戦争は更に厄介な方向へ突き進む。




 その決意を込め、右手を掲げ、掌に魔力を集中させた。


 掌の中に生じた禍々しいまでの魔力が形を成し――一塊の球体を形成する。


 


 神さえ弑逆できるほどの魔力を、この一撃に凝縮すれば――勇者タケルの肉体や魂だけでなく、存在そのものを滅却することができるだろう。


 


 許せ、これは必要なことなのだ――魔王ベルフェゴールが瞑目し、心の中だけで勇者に謝罪した、その途端だった。


 素早く動いた浅黒い肌の細腕が、ベルフェゴールの右手を掴んだ。




「ベルベル、何考えてんの?」




 えっ!? と下を見ると――そこにあったのは、聖女のえるの憤った顔だった。







「の、のえる――!?」

「どうせまたゴチャゴチャいろんなこと考えて、力づくで何かしようとしてんでしょ? バレバレだっつーの。いい加減ベルベルは顔に出るんだよねぇ。少しは意識しろし」

「のっ、のえる、お前――!!」

「はぁ、何その顔? ベルベルがウチのこと治したんじゃん。めっちゃ苦しかったし痛かったし。もう少し優しい方法ってねーのかよ」

「ちっ、違う! のえる、お前、肌の色が――!!」




 うぇ? とのえるが自分の手のひらを見て、目を丸くした。


 途端に、がばっと身を起こしたのえるが、自分の足や腕を眺めて、おおおおお、と顔を輝かせた。




「こっ、これは……! ちょ、ベルベル、鏡持ってね!? 鏡!」

「もっ、持っとるわけないだろう……! 小娘でもあるまいに、なんで魔王が手鏡なんぞ持ち歩く道理があるのだ!!」

「うーん、まぢか……鏡ないか……あっ、そうだ! ベルベル、ちょっと顔貸して!!」




 途端に、のえるの両手がベルフェゴールの頬を挟み込み、強制的にのえるの方を向かせられた。


 は――!? と驚く前に、のえるの整った顔が吐息がかかるほどスレスレに近づいてきて――ベルフェゴールの頭が真っ白になる。




 しばらく、ベルフェゴールの瞳に映った己の顔を見つめて、のえるが快哉を叫んだ。




「うおおおおおおおっ! マ!? これマ!? ウチ、黒ギャルになっとるわ!!」




 何がそんなに嬉しいのか、のえるはキャッキャと声を上げて小躍りした。




「マ!? っていうか、魔!? 今時絶滅危惧種じゃん! 黒ギャルとかマジありえんと思ってたけど、こうしてみるとウチ黒くなってもめっかわすぎひん!? アリアリのアリじゃんこんなの! 白ギャルって魔族の魔力吸い取ると黒ギャルになるのかよ! すげー発見!! 後でインスタに自撮り上げとこ!!」




 意味不明な言葉を連呼しながら、先程のシリアスも関係なく喜びまくるのえるに……ベルフェゴールは半ば呆れつつも……何故か笑ってしまった。


 そのあまりに陽気な振る舞いは、ベルフェゴールだけでなく他の魔族にも不思議と伝染し――魔王城の庭を揺らし始めた。




 浅黒くなった肌を見て激しく感動しているのえるを、ベルフェゴールは眩しく見つめた。




 先程まで命の取り合いの修羅場だったこの庭を、彼女はもう既に笑いの園にしてしまった。


 これが、この慈愛、この陽気さ、この平和が――「魔族に優しいギャル」そのもの。


 この戦争に終わりを告げ、平和をもたらすべき存在の、真の秘めたる価値。


 その圧倒的な納得に、ベルフェゴールはしばしの間、半ば酔いしれてしまった。




「おっ、そうだそうだ、忘れてた。キチンとケジメは付けとかなきゃだよねぇ――」




 不意に、そんな不穏なことを口走ったのえるは、ツカツカとベルフェゴールの横を通り過ぎ、べちゃべちゃの顔で放心している勇者タケルを見下ろした。




「こっ、恋し浜さん――!」

「何がコイシハマサン、だよ、このクソキモオタチー牛ホーケー野郎」




 信じられないぐらい冷たくそう言い放ったのえるに、勇者タケルは何故なのか物凄く愕然としたようだった。




「言っとくけどおめー、もう要らないから。この戦争はベルベルとウチで何とかするし。聖剣はこっちで預かっとくから。もうおめー勇者できねーからな」

「ええ……!? そ、そんな殺生な……! そっ、それだけは……!!」

「うるせーキモオタ。おめーなんかこの世界でも隅っこでエロ絵描いてシコってりゃいいんだよ。言っとくけどウチ、今のでますますオタケルのこと嫌いになったし。もう二度とツラ見せんじゃねーぞ」




 何故なのか、黒ギャルとやらになったのえるの言葉は、普段よりも物凄く辛辣さを増したように思えた。


 歯を食いしばり、涙目でのえるを見上げる勇者タケルの顔を無視して、のえるは魔族連中の方を振り返った。




「さぁみんな、こんなキモオタ追放すっぞ! 行くぜ、せーの……かーえーれ! かーえーれ!!」




 帰れコール……古典的なやり方に、思わずベルフェゴールも立ち上がり、拳を振り上げて「かーえーれ! かーえーれ!」と叫んでしまった。


 魔族の頂点たる男の行いである。すぐさま魔族たちの間にもそのコールは伝染し、魔王城の庭に盛大な「かーえーれ!! かーえーれ!」の声が満ち満ちる。




 この空気、この視線、この四面楚歌の声――今の勇者タケルには、これ以上ない猛毒であっただろう。


 再びグズグズと涙を流し、よろめきながら立ち上がった勇者タケルは、うわああああああああん!! というイタチの最後っ屁と共に逃げ出し、やがて地平線の向こうに見えなくなった。




「ふん、帰れコールぐらいで泣くなら勇者なんかすんじゃねーよってな。……ね、ベルベル?」




 そこで聖女のえるは、ニッコリと笑った。


 この輝くほどの笑顔、これがこの戦争に終わりを告げるべき人間の笑顔――。


 その眩しさに、思わずベルフェゴールは目を細めてしまった。




「ん? どしたんベルベル? なんか嬉しそうじゃね?」

「あぁ、嬉しい――そうか、これが嬉しい、という感覚か。初めて知った――いや、思い出したのか――」

「あはは、ジジイみたいなこと言うじゃん。――ということで、みんな! そろそろ朝も明けるから、ウチは寝る!!」




 その快活な声に、オオオオ、と魔族連中が応じた。


 もうすっかり魔王より魔王しているな、この聖女は――と半ば呆れていると、のえるがベルフェゴールの下に駆け寄ってきて、なんの遠慮もなく飛びついてきた。




「おっ、うおおおおおお……!? のっ、のえる、何を……!?」

「部屋まで運べし。ウチさっき死にかけてたんだよ? 少しは男の甲斐性見せろっつ―の」

「わっ、わかったわかった! わかったから一旦離れろ! お前の一挙手一投足は俺には刺激が強いと言っとろうが! アッ、アアッ、なんだ、なんなのだ、この女特有の芳しい芳香は……!」

「あはは、ギャルの匂い嗅いで興奮するとかベルベル、マジ変態じゃん。これだからドーテー魔王は……」

「まっ、魔王に向かってドーテーとか言うな! ああもう、全く、部屋まで自分で歩け! もう傷は塞がっておるだろうが!」

「魔王君さぁ……こういうときはギャルに優しくした方がいいよ?」




 魔王と聖女、相反する存在がギャーギャーと喚いている遥か向こうで、ようようのことで地平線から太陽が顔を出した。


 今、新たなる歴史を踏み出した魔族、そしてそれを庇い護り、魔族にでも別け隔てなく優しい「魔族に優しいギャル」――その二人を微笑ましく見つめるかのように、やがて太陽はぐんぐんと高度を上げていった。




ここまでお読み頂きありがとうございます。


「面白そう」

「続きが気になる」

「何故だ――何故こんなにもこの小説が気になるんだ――!?」


そう思っていただけましたら下から★★★★★で評価願います。

何卒よろしくお願い致します。



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[一言] 自分が何者か、自分で決めなきゃいけないのは辛いなぁ…… もし誰かにとって都合の良い存在としてでも、認めてもらえるようになりたいんだろうなぁ たとえ自分に都合の良いことしか認めることが出来なく…
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