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そろそろ私も旅に出ようと思います!

作者: 悠木 源基


「もう、お土産はいらないわ。その代わりに、お願いがあるの」

 

 出張に出かけようとした夫エリオットに、妻ナンシーがこう言った。

 突然の妻の申入れに夫は驚いてその理由を尋ねると、妻はニッコリと笑ってこう言った。

 

「出張の度にお土産を買っていたら、あなたのお小遣いが減って困るでしょう? だからもう無理をすることはないわ」

 

「しかし家族に土産も買ってこない男などと噂をされては困る」

 

 夫は見栄っ張りで世間体を気にする男だった。だからこれまでの土産も妻や息子のことなど何も考えず、いつも適当な物を買って渡してきた。

 そう、妻子を思って土産を買う優しくて家族思いの男を演じられれば、それで良かったのだから。

 しかし毎回要らない物をもらう方は迷惑この上なかった。まさか捨てるわけにもいかないから、不用品ばかり家の中に増えていく。

 まあ、食べ物なら気に入らなければ人にあげてもわからないから、まだましだったのだが。

 

「ですからね、無駄にお金をかけなくて済む物をお願いしたいのです」

 

「なんだそれは」

 

「スペシャルカードですわ。この国だけでなく、世界的に静かなブームになっているのをご存知ないの?

 各町々では、そこのスペシャルな特産品や名所をイラストと文字で紹介するカードを作っているの。

 そしてそれは、役所に行って簡単なアンケートに答えるだけで、ただでもらえるのよ。

 将来アルバの勉強の役にも立つし、私も綺麗なカードを集めるのが好きだから、貴方がもらってきてくれると嬉しいわ」

 

 そう言って妻は一枚のカードを夫に見せた。それは、この王都にある有名なオペラハウスの建物が描かれたカードだった。

 

「綺麗でしょう? これが王都のスペシャルカードなのよ。裏側にはこのオペラハウスの歴史やいわれが説明されているの」

 

 夫は王城勤めの護衛騎士で王族や大臣達の護衛として、地方だけでなく他国へも色々と出かけていたが、そのカードの存在は全く知らなかった。

 夫は平民だが男爵家の次男だったので、王都の学院の騎士科を卒業している。かなり腕が立ちこのまま順調にいけば、いずれ騎士爵は貰えるだろうと言われていた。しかしかなり脳筋だったのだ。

 夫は暫し考えた。その結果、確かにこのカードなら、土産の代わりになるし、妻が欲しがっているからと言えば、金をケチる夫だと蔑まれることもないだろう、と考えて了承した。

 ところが続けられたお願いに夫は眉を顰めた。

 

「このカードは一人に一枚しかもらえないの。だから、本当に申し訳ないのだけれど、同僚の方にお願いするとかして、二枚入手して欲しいの。コレクションする時に表裏でしまえば、見やすいでしょ?」

 

 と言ったからだ。

 

「えっ? 人に頼むのか、面倒だな」

 

「ごめんなさい。でもどうしても二枚セットで欲しいのよ。本当は私が直接行ければ良いのだけれど……」

 

 妻にこう言われて夫は鼻白んだ。

 結婚して五年も経つというのに、夫はこれまで妻をどこへも連れて行ったことがなかった。新婚旅行さえしていなかったのだ。

 そして、妻が友人達と小旅行することさえ許さなかった。

 そんな妻から、少しでも旅行気分を味わいたいからカードが欲しいとねだられたら、さすがに夫も断れなかった。

 

 それ以降、夫は出張から帰ってくる度に、行った場所のスペシャルカードを二枚持ち帰ってくるようになった。

 長期間の出張になれば、いくつもの町や村を通るので、その度にそこの役場に顔を出し、カードをもらってきてくれたので、妻は二年ほどでかなりの枚数のカードをコレクションすることできた。

 

 建物のカード、橋のカード、公園のカード、ダムのカード、湖のカード、珍しい動植物のカード、遺跡のカード、祭りのカード……

 

 カードが増える度に妻の笑顔は増した。そして夫は土産を買う分のお金が浮いて、その分酒を飲んだり、女に貢ぐことができた。良いことばかりだと彼は思った。

 

 そう。エリオットはもう長いこと浮気をしていた。それも一定の決まった相手ではなく、出張や旅先で知り合った見知らぬ女や、後腐れない亭主持ちの城勤めの女と関係を持っていた。

 

 妻は上司の男爵の娘で、誰よりも愛しています、一生大切にします、絶対に幸せにしますからと熱烈アピールをして結婚を認めてもらった。

 妻は華やかさには欠けるが清楚系美人で、学院も上位の成績で卒業した才媛で、そこそこ人気があった。

 

「私は脳筋なので、才媛のお嬢様と結婚できたら、不足な部分を互いに補い合って、二人はともに、もっと素晴らしい人生が送れると思うのです」

 

 この台詞が決め手になって、上司から結婚を認められた。

 しかし、それほどまでに妻を溺愛していたのかというと、実のところそうでもなかった。

 ただ、エリオットにはどちらが先に騎士爵を取るかを競っていた同期のライバルがいた。そしてそのフランドルが妻を好きだとわかっていたから、彼からその思い人を奪ってやりたいという理由で、先に上司に申し込んだのだ。

 

 だから夫は釣った魚に餌をやる必要はなかった。婚約前は妻に色々と贈り物をしたり、デートにさそったり、甘い言葉を囁いたりしていた。

 しかし結婚してからは、義父に告げ口されない程度に適当に妻をあしらっていた。

 とはいえ、跡取り息子のアルバも生まれ、エリオットはまあまあそれなりに満足した生活を送っていた。噂になるとまずいので、滅多に女遊びもしなかったし。

 

 しかしそんな夫が出張の度に女性と関係を持つようになったのは、結婚して四年後に義父が死んでからだった。

 もう上司だった義父に気を遣うことはないし、もう、妻には利用価値もない。大体妻にはもう飽きてしまって抱く気にもなれなかった。

 避妊だけきちんとやれば好きにやってもいいだろう。特定の女や愛人を持つわけでもないのだからと。

 

 それでも最初のうちは多少後ろめたさがあったので、適当なアクセサリーなどを土産に買っていた。

 ところがある日先輩に言われたのだ。高価なものばかり買って帰ると、浮気を申し訳なく思っているから、それを誤魔化すためだと疑われるぞと。

 それを聞いた夫は、手間暇金をかけた挙げ句に疑われちゃたまらないと、アクセサリーを買うことはやめた。

 しかし、出張の時は家族に土産を買うのが、騎士達にとっては当たり前の習慣だったから、それ以降も適当な安物を買って土産にしていた。

 彼にとって妻はもうただの子守り兼メイドと同じだった。

 それでも離婚は世間体に悪いし、出世にも響く。それに別れて別の女と結婚するのも面倒だった。

 だから形式的に夫婦でいることは、一応意味があったので、彼は最低限の夫の真似事だけはやっていたのだ。

 

 しかも、妻はただのカードをもらってくるだけでこんなにも喜ぶ。なんて、安上がりな女なのだろう。と、余計に夫は妻を見くびるようになった。

 最初は女遊びに気付かれないようにそれなりに気を使っていた夫も、次第にそれも投げやりになっていったのだ。

 元々妻子を軽んじていた夫だったが、増々家庭を顧みることなくがなくなっていった。

 

 

 

 そしてそんなある日のことだった。

 勤続十年の褒美として与えられた旅行から五日ぶりに帰宅してみると、家には誰もいなかった。

 今日帰ってくることはわかっていたはずなのに、家を留守にするとはけしからんと夫は腹を立てた。

 そして帰ってきたら厳しく叱ってやらねばと思った。

 

 しかし、夜になっても帰ってこなかったので、流石に夫もおかしいと思い始めた。妻が夜まで家に帰らないなんてことは一度もなかったからだ。

 もしや事件や事故にでも遭ったのではないか。夫はようやく心配になってきた。

 そして家の中の様子を調べてみたが、誰かが忍び込んだり、荒らしたような跡はなかった。

 もっとも家のことには全く関心がなかったので、何かがなくなっていたとしても、わかりはしないが、とりあえず夫が妻に与えた物は全て彼女の部屋に残っていた。そう、婚約指輪や結婚指輪も。

 普通そんな物が残されていたら驚くだろうが、二年程前から、指が太って入らなくなったからと言って、妻はその指輪をはめなくなっていたので、夫はそのことをなんとも思ってはいなかった。

 

 家中くまなく見て回ったが結局何もわからず、こんな夜中にあてもなく町中を探し回るわけにもいかない。明日になったら妻の実家でも訪ねてみようと夫は考えた。

 

 そして翌日夫が目を覚ますと、既に昼近くになっていた。やはり旅行帰りで疲れていたのだろう。妻子はまだ帰ってはいなかった。

 さすがに連絡もなしに、一晩帰ってこないのはおかしいと、夫も本気で心配になってきた。

 しかし昨夜から何も食べていなかったので、彼はかなり空腹だった。急いで身支度を整えて家を出て、近くの食堂に入って食事をした。

 そして店の女将さんに、今朝寝坊をしたら女房が出かけていなかったんだが、見かけなかったと尋ねてみた。

 すると女将さんは見かけていないと言った。しかも、

 

「そういや、ここ数日奥さんを見かけていないね。普段なら買い物や坊やと散歩する姿を、毎日のように見かけていたんだけどね。

 てっきり家族旅行でもしているのかと思ってたよ」

 

 と言ったので、夫は青くなった。つまり、妻が家に帰らなかったのは昨日だけではなかったもしれないということか?

 もしかして誘拐にあったのか? それとも駆け落ちか?

 もしかして自分の同期のフランドルと浮気をしていたとか?

 

 夫は急いで食事をし終えると慌てて店を出て、まず妻の実家へ向かった。

 すると、当然ながら義兄は仕事に出かけていた。それはそうだろう。今日は平日なのだから。

 義姉のアンナは胡散臭そうな顔をエリオットに向けた。義父が死んだ後、もう用無しとばかりに訪ねてくることもなかったからだ。

 

「この平日の昼間に何の用? 夫なら城よ。何故態態ここへ来たの?」

 

「あっ、今日俺は休みなんです。勤続十年の休み中なので。それで、夕べ旅行から戻ってきたらナンシーとアルバがいなくて。夜まで待ったけど帰って来なくて、さすがに心配になって、実家にでも行っているのかもと思ったので……」

 

 エリオットがこう言うと、義姉は鬼の形相になった。

 

「夜になっても帰って来ないから心配していたという割に、何故今頃ここに来たの? もうとっくに昼を過ぎているわよ!

 それに勤続十年の旅行なら、夫婦とか家族で行くものでしょう! それなのに、何故あんた一人で旅行に行ったの? 何故ナンシーやアルバを連れて行かなかったの?

 というより、あんたは一体誰と一緒に旅行に行ったの? 浮気相手は誰なのよ!」

 

 怒涛のように責め立てられて、エリオットはタジタジになった。大した情報も与えていないのに、どうして自分の浮気旅行がばれたのか、さっぱり見当がつかなかった。

 しかし、ここで認めるわけにはいかなかった。

 

「浮気なんてしていませんよ。旅行は一人で行ったんです」

 

「年がら年中全国回っているあんたが、今更一人でどこへ行ったというのよ! 仕事が忙しいからって新婚旅行にも行かなかったのに、何故今回一緒に行かなかったの?」

 

 そうなのだ。そもそも勤続十年の旅行とは、これまで支えてくれた家族に感謝するためにあるのだ。

 一般職員は五日、騎士には七日の休みと、特別手当が支給されるのだ。何故騎士の方が長いのかといえば、騎士の妻は夫が留守になることが多く、それだけ苦労が多いからだ。

 

 そう。この勤続十年の旅行は特別だった。もしこの旅行に妻ではない女を連れて出かけたことがわかったら、罰は受けないとしても、周りからの信用はガタ落ちで、出世の見込みはなくなるだろう。くそっ、迂闊だった。

 とにかく妻はここにいないことはわかった。長居は無用だ。

 

「息子の体調が悪かったんです。だから俺一人で行ったんです。せっかくの休みなのだから行って欲しいと言われて!」

 

「嘘つくんじゃないわよ! ナンシーがそんなことを言うわけがないじゃない。

 そもそも子供の具合が悪いのなら母親は不安で仕方がない。夫にそばにいて欲しいと思うのが普通よ。仕事なら我慢するかも知れないけど、私的な旅行なら行ってきてなんて自分から勧めるわけがないわ。よくも平気でそんな嘘がつけるわね!」

 

 義姉アンナのあまりにも凄い剣幕に、夫は仰天した。自分の行為がそれほど酷いものだとは思っていなかったからだ。

 義兄のウィリーはそこそこ優秀で、文官として周りから信頼されていると聞く。敵にしては不味い。なんとか誤魔化さないと。

 

「息子が元気になったら、友達の所へでも遊びに行けと言ったのを忘れていました。ご迷惑おかけしてすみませんでした!」

 

 エリオットはまたこんな嘘を言うと、すぐさま妻の実家を後にした。

 義弟が義妹にあまり外へ出ないように命令し、友人との外出さえいい顔をしなかったことを知っている義姉に、そんな嘘が通じるはずがないのに。

 アンナはすぐさま家を出ると、夫の職場へと向かったのだった。

 

 そしてエリオットの方も、一度家に戻って職場用に買った土産を持って、城へ向かった。そして近衛隊の詰め所へ行くとみんなにその土産を渡した。

 そこにフランドルの姿が見えなかったので、ヤツは今日休みなのかと、後輩に尋ねた。

 すると後輩は、フランドルは五日前から王太子の護衛で隣国へ行ったので、後十日は戻らないだろうと答えた。

 

 そうなると、妻はフランドルと駆け落ちしたわけではなさそうだ。しかし一応彼の下宿先へ行ってみたが、そこに誰かがいる気配はなかった。

 それなら、一体妻はどこにいるのだ。夫は妻の友人が誰なのか全く知らなかった。親しい人間の話を聞いたこともないし、聞きたくもなかったから。

 そもそも妻には茶会にさえ参加させなかったし、招待もさせなかった。騎士の妻に社交なんて必要ないと思っていた。あんなところに参加したって、余計な知恵をつけるだけだと。

 

 だがそのせいで妻の行方を探そうにも八方塞がりだ。

 そもそも自発的に家を出たとは限らないのだから、本来ならば警邏隊にでも報告すべきなのだろう。

 しかし行方不明の捜査など願い出たら、勤続十年の旅行に妻子を連れて行かなかったことがバレてしまう。

 その上それが浮気旅行だったなんて知られたら、騎士爵は貰えなくなるかもしれないし、もう一生日の目を見ることはできなくなる。そんなの冗談じゃない。

 全くあいつのせいで、何故俺がこんな目に遭わないといけないんだ。買い物以外にあまり出歩くなとあれ程言っていたのに。

 夫は妻に対して腹を立てた。見つけたら二度とこんな真似をしないように厳しく折檻をしてやろう、と夫は決心したのだった。

 

 

 

 しかし、その後夫が妻に逢うことは二度となかった。

 旅行から戻ってから十日後、エリオットは上司の近衛騎士団副隊長に連れられて、総務部部長室を訪れた。するとそこには総務部の部長と妻の兄が待っていた。

 そして彼が応接用のソファーに腰を下ろすと、すぐさまローテーブルの上に二枚の紙が置かれた。

 それは妻の名が記入された離婚届と、子供の親権の放棄の書類だった。

 義兄はただ一言こう言った。

 

「その書類二枚に名前を記入してくれ」

 

「なんですか、これは!

 これは一体誰が書いたのですか」

 

「妹だよ、決まっているじゃないか」

 

「嘘をつかないでください。妻はいないのに、どうしたらサインができるというのですか!」

 

「奥さんがいないとはどういうことだね? 一体いつからいないのかね」

 

 驚いた上司に尋ねられたが、夫は口籠った。しかし目の前には義兄のウィリーがいて、十日前に妻がいなくなったことを知っている。今更嘘はつけない。

 

「十日前からです」

 

「そんなに前からか! 何故報告しなかった! というより、何故捜索願を出さなかった!」

 

「すぐに戻ると思ったのです。大騒ぎになったら妻が帰りにくくなると思ったから捜索願を出さなかったし報告もしませんでした」

 

「何を言っている! 家出じゃなくて事件に巻き込まれていた可能性だってあっただろう。

 それとも、君には妻が家出する原因に心当たりがあったのかね?」

 

 上司の質問に夫は慌てて頭を振った。そんなものはありませんと。しかし、それを聞いた義兄は言った。

 

「妹が家出をする理由なら山程ありましたよ。私はもう随分前から妹に、もう我慢することはない、離婚しろと勧めていましたからね」

 

「なっ!」

 

「ところが妹は、私達に迷惑はかけられないし、息子から父親を奪うわけにはいかないからとじっと堪えていたんです。

 ですが、勤続十年の旅行に妻子を置いて若い女と出かけたことを知って、流石に許せなくなったのでしょう。

 

 勤続十年の旅行は妻に感謝するためのもの。それに連れて行ってもらえなかったということは、自分は妻として認めてもらっていなかった。夫の役には全く立ってはいなかった、ということの証明ですからね。

 そんな役立たずの妻では迷惑をかけるから身を引く、そう書かれた妹からの手紙と共に、この書類が私の元に届きました。

 そして、子供の誕生日を祝ったことも、遊びに連れ出したこともない父親の元に息子を置いては行けないので、親権も放棄して欲しいと言っています。

 若い娘と再婚すればまた子供もできるだろうし、そうなったら息子が邪魔になるだろうと」

 

 義兄は淡々とこう言った。驚嘆して何も言えずいるエリオットに向かって、彼の上司が怒鳴った。

 

「貴様は勤続十年の旅行に妻ではなく、浮気相手と出かけたのか! そんなこと前代未聞だぞ! 

 妻がしっかり家庭を守ってくれているからこそ、夫は安心して護衛勤務ができる。家庭を顧みず、妻に嘘をつきながら浮気をするような人間の護衛など、誰が信じるというのか!

 そもそも浮気相手がスパイだったらピロートークで警備情報を漏らされたら一大事だ。だから家族を大切にしろと言ってきたのに。なんたることだ。

 そんなに奥さんが気に入らなかったのなら、サッサと離婚しろ!」

 

「待ってください! まず妻と話をさせて下さい。いきなりいなくなって離婚届を出されてもサインなんかできませんよ」

 

「奥さんはもう二度と君には会いたくないそうですよ。そりゃあそうでしょうよ。少なくても三年以上も前から浮気をしていたようですからね。

 それでも君が変わってくれることを期待していたのかもしれないが、今回の旅行のことで、もうそれも諦めたのだろうね。

 本来は君の有責で離婚して、慰謝料と養育費を請求したいところだろうが、すぐに離婚して親権を渡してくれるのなら、それを請求しないと言っているそうだよ。

 君にとっては都合がいいことばかりだよね。何の文句があるっていうのだね」

 

 総務部の部長が穏やかな口調で言った。

 

「文句ではありませんが、これを本当に妻が書いたかどうかわからないじゃないですか! 誰かの罠だったらどうするんですか」

 

「ちゃんと筆跡鑑定はしたよ。その書類のサインも、ウィリー君あてに届いた手紙も。間違いはない」

 

 そう言われてしまえば、夫はサインを拒むことはできなかった。ごねて後で慰謝料や養育費を請求されても困るしと。

 しかし、夫がサインし終えると、総務部長が徐ろにこう言った。

 

「君は今回の勤続十年の旅行を申請する時に、妻や息子と行くと書類に記載して、扶養家族分の手当を請求して受け取ったね。

 しかし、実際は妻子ではなく愛人と旅行したわけだから、君は不正申請したことになるね」

 

「待って下さい。申請した時は本当に家族で行こうと思って申請したのです。騙そうと思ったわけではありません。お金はきちんと返金します」

 

「そんなでまかせを信じられると思うのかね? 君はこれまでもずっと出張と言って、度々色々な女性と旅に出かけているよね。一度も妻を旅行に連れて行ったことはないのに。

 ということは今回も最初から妻を連れて行く気なんてなかったのだろう? 

 奥さんは君が勤続十年の旅行を申請していたことを兄のウィリー君に聞くまで知らなかったらしいからね」

 

「あっ……」

 

「本当に君は嘘しかつかないんだね。妹のことだって最初から好きだった訳じゃないんだろう? ライバルからただ奪いたかっただけなのだろう?

 僕は最初から反対だったのに、父が君のくさい演技に騙されてしまって。本当に悔しいよ」

 

 ウィリーは頭を抱えてため息をついた。すると、そんな部下の肩を慰めるようにポンポンと叩いてから、総務部長がエリオットの上司にこう言った。

 

「副団長、彼は王族の護衛で出張していた時も、毎回違う女性と逢引していたようだから、彼が機密漏洩をしていたかどうか調べた方がいいよ」

 

「なっ!」

 

「どういうことですか! 我々はそんな情報を入手していませんが」

 

「いやね、今回の勤続十年の旅行の不正行為申請について調べていたらね、地方の役所の登庁記録にやたらエリオット君の名前が記載されていてね、しかもどれも同伴者の名前が違っていたんだよ。

 まあ、女性護衛騎士も数人いたけれど、君のところは、出張先で護衛騎士に事務仕事もさせているのか?」

 

「まさか! 護衛騎士は護衛だけだ!」

 

「待ってください。仕事で役所へ行ったわけじゃありません。休憩時間にスペシャルカードをもらいに行っていただけです。

 しかも妻が二枚欲しいと我儘を言うから、同僚や知人の女性にお願いしただけです。浮気相手なんかじゃありません」

 

「へぇ! でもおかしいね。出張じゃ絶対に行かない地方でも君の名が記載されていたんだけど、それは私的な旅行で行ったのだろう?

 しかも必ず女性の同伴者の名前が記入されていたんだけど、そっちは浮気相手だよね? 

 そうなると、出張の時だけ浮気相手じゃないなんてとても信じられないよね」


「エリオット! 貴様というやつは!」

 

 ただでさえ愛妻家の副団長はあまりの怒りのために、それ以上言葉にならず、両拳をブルブルと震わせたのだった。

 

 

 そしてエリオットが謹慎処分になったその日の午後、フランドルが隣国の出張から戻ってきた。すると近衛隊の詰め所はエリオットの話題で持ち切りだった。

 それを耳にしたフランドルは副団長の元へ行き、任務報告をした後で、エリオットの噂について尋ねた。

 すると今更隠しても無駄だと思ったのか、副団長はその日の午前中に起きたことをありのままに話してくれた。

 

「ナンシーさんとアルバ君は本当に無事なのですか? 今どこにいるのですか?」

 

「それはウィリー君にしかわからない。彼に尋ねても教えてはくれなかった。ウィリー君は脳筋の我々を信用していないからな。

 そう、彼の父親は私の前任者だった。みんなから立派な副団長だと慕われていた。しかし人を見る目はなかったかもしれないな。まあ、私も同じ人物に騙された脳筋だが。

 

 しかし、君にだって責任はあるんだぞ。ナンシーさんが本当に好きだったなら、サッサと申し込んでいれば、彼女もあんな嘘つきの浮気野郎と結婚しなくて済んだだろうからな」

 

「わかっています。私はそのことを死ぬほど後悔しています。

 でも、これから先も後悔し続けるのは嫌ですから、これからウィリー殿にナンシーさんとお付き合いさせてもらう許しを得に行ってきます」

 

 珍しくはっきりとこう言った部下に、まあ、簡単には許してもらえないだろうが、一応頑張ってこいと、副団長はエールを送った。

 しかしフランドルがいなくなると深いため息をついた。

 

『あの同期の二人は共に優秀で期待していたのに残念だな』

 

 エリオットはクビにはならないかもしれないが、閑職に回されるのは間違いないだろう。そして、フランドルはきっと、彼女の後を追いかけるに違いないと。

 

 眉目秀麗、文武両道で女性からの人気が高いのだから、人妻のことなどサッサと忘れて、幸せになればいいのにとずっと副団長は思っていた。 

 しかし彼は他の女性に見向きもせずに、エリオットに虐げられていたナンシーを、友人として陰でずっと支えていたことを知っていた。

 最初に一歩踏み出せてさえいたら勝てた勝負だったのにと、他人事ながら歯痒く思っていたのだ。

 しかし、回り道をしても最終的に幸せになれるならそれもいいかもしれない。頑張れよ、と副団長は思ったのだった。

 

 それから一週間後、副団長の読み通りに、フランドルは近衛騎士団を辞めると、ナンシー同様に突如として王都から姿を消したのだった。

 そしてそれから暫くして、副団長は偶然入った飲み屋で総務部のウィリーと遭遇して一緒に飲んだ。

 

「二人、いや三人は元気でやっているか?」

 

 副団長の問いにウィリーは誰を指しているのか確認もせずに「ええ」と返事を返した。

 

「あのスペシャルカードってさ、コンプリートすると、どこか一箇所好きな場所に瞬間移動できるという特典があるんだってな。魔法省の奴から聞いたぞ。

 それを妹とアイツに教えてやったのは君か?」

 

「いや、僕の妻です。妻の友人にカードコレクターがいまして、その彼女がスペシャルカードのことを教えてくれたのだそうです。

 それで、妻はフランドルに頼んだのだそうです。

 

『貴方なら出張が多いから、カードをもらいに行きやすいでしょう。妹のために集めてくれない?』

 

 僕には内緒でね。

 しかし妻が妹にその話をすると、彼女は自分の力で息子の分までそれを集めてみせるから、フランドルには断って欲しいと言ったそうです。彼に迷惑をかけたくなかったのでしょう。

 

 二年前、妹の精神はもうズタボロでした。しかしスペシャルカードのことを知ってからは希望が持てるようになったのか、徐々に元気になっていきましたよ。

 そしてようやく妹はコンプリートしたのですが、正直ずいぶんと迷っていたようです。見知らぬ土地へ行くことを。

 それはそうでしょう。生まれてこの方一度も王都から出たことがなかったのですから。

 しかし、僕から勤続十年の旅行の話を聞いた時に、あの男と別れる決意をしたそうです。

 

 妹は外国語が得意で、夫には内緒でずっと翻訳の仕事をしていたので、ある程度の蓄えはできていたので。

 僕が援助するから早く別れろと前々から言っていたのですが、人に迷惑をかけることをとても嫌がる子でしたから、お金が貯まるまでずっと辛抱していたのでしょう。

 

 家出のこともあの男が家に来るまで、本当に僕達は知らなかったのですよ。知っていて隠すのは辛いだろうからと、その数日後に届いた手紙に書いてありました。

 心配かけてごめんなさい。今まで本当にありがとうと。そして今回の計画が詳細に記されていました。

 もし自分と同じように苦しんでいる人がいたら、希望にして欲しいと。

 

 そして妹の離婚が成立したその日にフランドルがやってきて、妹とアルバの後を追いたいから居場所を教えて欲しいと言ってきました。

 だから、遅過ぎると一発ぶん殴ってから、仕方ないから教えてやりましたよ。

 騎士を殴るなんてそうそうできることじゃないから、良い思い出になりました」

 

 ウィリーはそう言って笑った。

 

 フランドルはナンシーから断られてからも、いつか役に立つかも知れないと、スペシャルカードを集めてコンプリートしていたのだ。

 だから、近衛騎士団の仕事の引き継ぎが終わった後、すぐさまナンシーとアルバの元へ飛んで行ったのだそうだ。

 

 ウィリーは、妹がフランドルを拒否するのではないかと心配していたようだが、

 

「ここまで来てしまったのなら、仕方ないですね。仕事も住まいももうあちらにはないというのなら尚更。それにここから帰るのも大変そうだし」

 

 そう言ってナンシーは幸せそうに微笑んだと、フランドルからの手紙には書いてあったという。

 それを聞いて、副団長もホッと胸を撫で下ろしたのだった。



 離婚したエリオットは、その後女性に相手にされなくなった。もう花形護衛騎士ではなかったからだ。そしてエリオットは酒に酔うと、度々教会に入り込んでこう喚いた。


 

「妻と息子は神隠しにあった。返してくれ!」

 

 と。

 脳筋の彼は、自分がせっせと集めてきたスペシャルカードが、妻子を旅に出したことに気付かなかった。もちろん自分が妻子に対してどんな酷いことをしてきたのかも、気付くことはなかったのだった。

 

 読んで下さってありがとうございました!


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