通りすがりの強い"お姉さん"だよ
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「いやぁー、悪い悪い、少年!危機感を持ってもらいたかっただけなんだよ。本当さ。ま、信じられたもんじゃないだろうけど」
「どうしようかと思いまし、思った、よ」
突然大笑いをし始めた挙句、なんだかツボに入ってしまったらしく激しく咳き込み始めた女性の背中をさすっているうちに、いつの間にかせっかく抱いたはずの警戒心は塵となって消えていた。
ようやく笑いが収まったと思ったら「小鹿が威嚇してる……」と失礼だと思われることをつぶやいてまた笑い始めた。どう警戒しろというんだ。
そんな彼女は地面に胡坐をかいて、軽く手を振り、悪びれる気が一切感じられない軽い口調で謝罪をしていた。
「ま、でも心配なのは本当だよ。ローブは安物で古いだろうけど、裾から見えているズボンは上質だし、靴なんて長距離歩くのに全く適してないデザイン重視の硬い革靴。歩く度に靴が沈むこの辺を歩くには相性最悪すぎるよ」
「う。それは、そう、だった。すぐ沈んでしまうから、余計な体力を使ってしまったことは否めま、否めない」
「気付いていたなら及第点だ。まぁ、落第すれすれではあるけどね。それに、手入れされたその黒髪と、食料をあんな序盤でなくす計画性のなさと地理の無知さ……というよりここも経験不足かな。それなのに金も持ち物もあまりないときた。訳アリお貴族サマだろうなと簡単に推理できたよ」
「で、でも、もしかしたら僕は商人かも……」
「ないね。ない。商人は歩くのに慣れてるし、そもそも一人で出歩くことなんて滅多にない。判断材料は山ほどあったよ。試したのは悪かったと思うけど、どちらにせよそのチョロさならすーぐお陀仏だからね。助けた手前、そんなすぐあちらに逝ってもらっちゃあ寝覚めが悪いってもんだ」
「……」
つらつらと語られる言葉に、ぐうの音も出なかった。恥ずかしさと指摘された黒髪を隠すために深くフードを被ったものの、おそらく染まった頬は丸見えだ。
確かに間違いなく僕は貴族だったし、経験不足だし、知識だって教えられた程度の範囲しかない。世間知らずというのも嫌というほど味わった。
「でもね、少年。ダメ出しばっかりしてるけどさ。きみのそのまっすぐなところ、人を信じられるところは美徳だよ。お貴族サマにこんな馬鹿みたいに素直な奴がいるだなんてね。まだまだあたしも、知らないことだらけだ」
「……!」
「ま、一人旅してるときには完全に短所だけどね」
目の前の女性は、上げて落とすのが非常に上手だ。
どんよりとした気持ちを隠さずにため息をつくと、勢いよく背中をたたかれた。
「そんなに気落ちするんじゃないよ!胸を張れ。クヨクヨしてればすぐ悪い奴に狙われてしまうよ。失敗は忘れずに次から生かせ、少年!そうすれば成長できるんだよ、どこまでもね。人間って、そんなもんだ」
カラカラと大きい口を開けて笑う女性は、反応が薄いと感じた最初とは印象が違う。彼女も、もしかしたら得体の知れない僕みたいな存在を警戒していたのかもしれない。
それなのに助けた上に心配までしてくれた底抜けのお人よしなんじゃないかな、なんて、それは僕の願望だけれど。
胡坐の状態から身体を後ろに仰け反らせると、その勢いを利用してピョンと軽快に立ち上がったその女性は、付いたであろう細かい砂を手で払って落とすと、思い切り背伸びをした。
僕はもうずいぶんと回復していて、軽くストレッチをしながらその姿を見ていた。その姿を見てか、彼女は口を開く。
「さ、少年。だいぶ回復したね。そろそろあたしは行くよ。探し物があるんだ」
「えっ!?」
「え、じゃないよ。あぁ、でももうしばらくはここ…岩山のすぐ近くにいなよ。すぐ終わるけどさ」
「……それはどういう?」
「そうそう。あっちに三キトル進めば街に着く。この辺は気候のせいか遠くのものは見えないんだ。けど、意外と近くにいろんなものがある、そんな場所だからね。ここも少年が倒れてた場所から一キトル程度しか離れてないよ」
永遠に続くのではと思っていた隣街への道のりは、思っていたよりも短かった。この岩山が全く見えなかったのそのせいだったようだ。
目の前の女性が僕に気付いてくれたのは、もしかしなくてもとても幸運なことだったらしい。やっぱり、僕は、運がいい。
「だから、あまり離れていないはずの"隣"街なのに影すら見えなかったんですね……」
「それすら知らなかったってことは、遠くから来たのかい。てっきりここ近辺のお貴族サマかと思ってたんだけど」
「えー、と……」
思わず言いよどむ。命の恩人である彼女に感謝はあるけれど、身の上話を馬鹿正直に話すほどの信用はまだしていない。
口をつぐんだ僕を見て、女性は頬をかきながら困ったように笑った。
「あぁ、別に言わなくてもいいよ。人間、知られたくないことの百や二百はあるもんだ」
「単位が大きすぎませ……大きすぎない?」
あまりの規模の大きさに思わず口をはさんでしまった。そして言葉遣いが元に戻る度に猫のような緑の目を向けてくる女性に気付き、慌てて言葉を直す。
直すとすぐに腕を組み、よし、と頷く女性に笑ってしまいそうだった。
その彼女は、少しだけ思案顔をしたかと思えば、笑ってある提案をしてきた。
「まぁ…なんならあたしと一緒に来るかい?楽しくも果てもない旅だけれど……なーんちゃっ、」
「いいんですか!?」
「えっ」
気付けば、勢いで食いついていた。目の前の彼女は完全に予想外という表情で、固まっていた。
僕は旅なんてしたことがなくて、知識としてはなんとなくあるけれど、指摘された通り長距離の移動には向かない革靴で歩いてきたことにすら気付いていなかったレベルだ。
安いエールを奢って情報を得る、なんて"悪い知恵"を使っていたけれど、そろそろ所持金も尽きるし、限界を感じていた。話してくれる人が全員いい人だとは限らないのだ。
その点、彼女は命を救ってくれた。手放しで信用するほどではないけれど、少なくとも僕はこの目の前の女性が悪人だとは思えない。
もしそうだったとしたら僕はすでにこの世から旅立っているだろうと思うし、騙そうとしている人間に対してアドバイスはしないと思う。
僕は、信じたい。
そういえば、僕は自分の名すら名乗ってないし、恩人の目の前の女性の名前も知らなかった。慌てて名乗る。
「あの……今更なんで、なんだけど、僕はレ……いえ。リオと申します。あの、お姉さんのお名前は?」
両親がつけてくれた大事な名前だけれど、その名を最後に呼んだのは、"いい人"の皮を被った人間だった。だから、両親が最期に呼んでくれた大切な愛称で生きていきたい。
きっと父上も母上も、笑って許してくれるだろう。それを信じられる程度には大切に育ててもらった。
そうして名乗り、名前を聞いてみただけだったけれど、目の前の女性は何を言われたのか分からないような混乱した様子で聞き返し、よくわからないところに食いついていた。
「へっ!?あ、名前?あ、え!?お姉さん!?今お姉さんって言った!?」
「え?あ、言いました、言った、けど」
二十代半ばから後半くらいの見た目だ。禁句を口走ってしまったのだろうかと心配したけれど、お姉さんと言ったのが気に食わなかったような感じではなく、困惑?動揺?むしろ喜んでいると思う、けれど。何?この、何?感情が、読めない。
不思議に思い考えているとふと目の前の浮かれたお姉さんが、急に落ち着いた態度で腰を落とし構え始めた。
その視線は、先ほどまでとは打って変わって鋭いものだった。思わずゾクリとした。
「少年。いや、リオ。そこから動くんじゃないよ。お客サマだ」
「え、一体何を――」
僕の言葉は、最後まで紡げなかった。
突然目の前に、地面の砂をかき分けるように現れた砂色の棘のような塊と、その硬そうな棘を乗せ、徐々に全貌を現す大きな巨体。
目は存在せず、大きな耳のような器官が非常に発達していると言われる砂の王。同色の砂の中を自由に泳ぎ回りながら微かな音を聞き取り、時に宙を舞う。
獲物に気付けば音なく近づき背の棘で串刺しにして絶命させてから捕食することも少なくないと聞く。
耳のような器官を繋ぐように開かれた大きな口からはダラダラと唾液が鋭い歯の間から流れ、砂の中に溶けるように消えていく。
完全に捕食者と獲物だ。僕程度の大きさではおそらく一飲みで食べられてしまうだろう。それほどの大きさだった。噂で聞いてはいたものの、実物は初めて見た。
砂中を自由に移動できるために見つけるのが非常に難しく、例え見つけたとしてもその硬い皮膚に剣が負けると逸話もある。騎士団で討伐隊が組まれるほどの強さ。B-ランクの魔物。
こんな強い魔物が、人の住む街の近くに棲んでいるなんて、そんな、まさか。
耳障りな甲高い音で威嚇されれば、もう身体はいうことを一切聞かない。逃げろと頭ではわかっているのに、情けなく震えるだけの両足は、それでも力なく崩れないだけ褒めてあげたいくらいだった。
「砂、竜……!」
情けない声は、再び放たれた威嚇の音でかき消された。
「手ぇ出すんじゃないよ。砂の中を泳ぐしか能がないただの魚だけど、あたしのお客サマもとい……探し物だ」
手を出すどころか動けすらしません、という言葉すら出なかった。
ただただ、強い恐怖を感じたら一歩も動けないものなんだな、と人ごとのような思考だった。
物語を読んでいるような、吟遊詩人が語るおとぎ話を聴くような、現実味を帯びない時間がどれほど経っていたのかすらわからない。
気付けば目の前にいたはずの女性は視界に入っていたはずなのに消えていて、次の瞬間にはいつ抜いたのかすら分からない血がべったりと付いた剣を勢いよく振り、砂地を赤黒く染めていた。
砂竜は何が起きたのかもわからず、僕と一緒に首を傾げたように見えた。けれどその刹那、傾けたはずの首はその場に留まらず、近くの砂を巻き上げながら派手に落ちていく。
剣を振り払った時の比ではないほどの血飛沫が、砂を勢いよく染めていく。時間差で首のない巨体も倒れ、砂に沈んでいった。
目がないはずの砂竜と目が合ったような気がして、声にならない悲鳴が漏れた。
「そうだね、うん。あたしの名前はイブ。通りすがりの強い"お姉さん"だよ」
剣を鞘に納めたことを確認したお姉さんこと"イブ"さんは、物言わぬ骸と化した砂竜を背に、今まで見た中で一番美しく、そして優雅に笑った。