9話 お嬢様はまたしても白い手袋を投げられました
「ライラ」
愛称で呼ぶその声にどこかホッとする。
「レイヴンお兄様」
振り向くと、親衛隊の軍服を脱いだ兄が立っていた。
「ルシアン王子は」
「あちらです」
アメリライラが示す先には人集り。今更近付くことは容易ではない。今宵供されている料理は不特定多数の口に入るもの。イザベラ第二側妃が何か仕掛けようものなら莫大な被害になる。それにここまで大規模になる催しが開かれる時には必ず複数の毒見係りが居る。会場の廻りは厳重に親衛隊が警備しているため、ルシアンの傍に居なくても大丈夫と判断した。
「ルシアン王子はあの子爵令嬢をお気に召したようだな」
「そのようです。今日初めて会ったはずですが、既に愛称でお呼びになっておられますわ」
レイヴンはやれやれというように肩を竦めた。
「お兄様は今はどちらに?」
「俺は隣の教室に居る。あの子爵令嬢と同じ教室だ」
「まぁ、隣でしたか」
道理でルシアンとアメリライラの教室内で見ないはずだ。父ジャスティがレイヴンはルシアンに着くと聞いていたため、てっきり同じになると思っていた。
「同じ教室だとルシアン王子が嫌がられるかもしれないからな、隣になった」
あの我が儘王子のことだ、それはあるかもしれない。
「却って良かったよ。あの子爵令嬢と同じだからな。教室内の様子を知ることが出来る」
その子爵令嬢は今ルシアンの隣に陣取っている。
「レイヴン様」
兄妹に、低い声が掛かる。振り向くと、背が高く細身の男性が立っていた。
「アラン」
精悍な顔付きは、鋭利な刃の切っ先を思わせる。レイヴンが名前を呼ぶと、アランと呼ばれた男性はアメリライラに向かって頭を下げた。
「お初にお目に掛かります。アラン・ファイアス=ザーク・ド・ラッセンボーグと申します」
切れ長の目がアメリライラを捕らえる。この目は、アメリライラたちの教室で見た気がする。
「ご丁寧にありがとうございます。アメリライラ・ソフィア=ジャスティ・ド・オールズヴォールドでございます」
いつものように右手を出し掛けて、ふと思う。夜会や畏まった場で紹介された時は右手の甲に挨拶のキスを受けるのが常識だ。しかし、今のこの場は学園の歓迎パーティー。一般的な市民が多数参加している場である。貴族の挨拶は変に目立ってしまうだろう。
「お手は出さない方がいいでしょう。貴女のご判断は正しいですよ」
ラッセンボーグ家といえば、侯爵の家柄である。流石に場の空気を読み取る能力が高い。
「アランは俺と同じ親衛隊所属の同僚だ。今回ルシアン王子直属の護衛としてこの学園に入学した。俺は隣の教室に居るし、アランはライラと同じ教室に配属された」
「そうだったのですか。それで先程お見掛けしたのですね」
「一年だけですが、よろしくお願い致します。アメリライラ様」
「こちらこそ、よろしくお願い致します。アラン様、とても心強いですわ」
守りを固めることに異論はない。強固になることはいいことだ。
「まぁ、アメリライラ様。とっても楽しそうですね」
穏やかな心持ちになっていたアメリライラに再び声が掛かる。
「ロラセーヌ様」
ルシアンにべったりとくっついていたのに、どうしてわざわざまた戻ってきたのか。ロラセーヌの後方には他の生徒たちに囲まれているルシアンの姿が見える。その更に後方には警備にあたっている親衛隊の姿が見えた。
「お気の毒に、ルシアン様に置いてきぼりにされてさぞ寂しいお気持ちになっていると思ったんですけど、そうではなかったみたいですね」
可愛らしい笑顔を浮かべて近付いてきたロラセーヌに、アメリライラも微笑み返す。
「何を仰りたいのかしら? ロラセーヌ様」
「あら、意味が通じていません? ルシアン様が居ない隙にそんな風に男性ふたりに囲まれているなんて、信じられないってことです」
ロラセーヌの言葉に、思わず吹き出しそうになった。どこぞの低級な小説みたいなことを言われるとは思わなかった。笑ってしまいそうになる口元を扇で隠す。その動作を見て、ロラセーヌは何かを勘違いしたらしい。
「大丈夫ですよ、アメリライラ様。ルシアン様はアメリライラ様のことを見てはいませんから。でも他の男性に近付いたと知ったらお怒りを受けるでしょうね。お気の毒に」
ロラセーヌの中では、アメリライラは事実を言い当てられて動揺して悲しんでいるのだろう。ロラセーヌがそこまで言った時、レイヴンが半歩進み出た。軽く頭だけを下げる。
「レディ。ご挨拶が遅れました。私はレイヴン。レイヴン・ド・オールズヴォールドでございます」
「え?」
「同じ教室に居ましたが、お気付きではありませんでしたか? 正真正銘、アメリライラの実の兄です」
公爵家跡取りとしての完璧な礼。親衛隊に入隊するには、四代以上続いた貴族の家柄であること、身長が180センチ以上あること、そして剣術の免許を会得していることが求められる。容姿も然り。レイヴンはそれらのハードルを難なくクリアした騎士だった。
レイヴンはご婦人たちに良く声を掛けられる。将来有望で、若く、独身。密かに熱を上げている令嬢も少なくない。そんな男性に礼をされ、ロラセーヌは面白いように顔色を変えた。レイヴンの存在を知らなかったということは、あまり社交界などにも詳しくないらしい。
「ア、メリライラ様のお兄様だったんですか。知りませんでした。アメリライラ様ももっと早く教えて下さればいいのに。わたしには意地悪ですわ」
若干目を泳がせながら、それでもアメリライラに毒付くロラセーヌに、アメリライラはパチンと扇を閉じた。
「私が口を挟む暇もなくお話になっていたのはロラセーヌ様の方ですよ。人前で一方的な思い込みでお話するのは、感心しませんね」
横目でチラリと見れば、微笑みを浮かべつつも口元に力が入っているのが判る。
「そちらの方は? もうひとりのお兄様なんですか?」
「いいえ」
パース子爵家では、他の爵位家の家族構成を把握していないのだろうか。貴族社会の常識が、この令嬢にはなかなか当て嵌まらない。アメリライラの返答に、ロラセーヌの目が輝いた。
「まぁ、では家族の方でもないのにそんな親しげにしてるんですね。アメリライラ様も意外な方ですね!」
愉しげに毒を吐く。けれども毒に耐性のあるアメリライラには何の痛痒もない。
「こちらのアラン様は私と同じ教室で学ぶ仲間です。その方と挨拶を交わしていて、何の不思議があるのです?」
気が付けば、周りに生徒たちが群がっていた。ルシアンがロラセーヌの元に近付いていたためだ。
「ローラ? どうした?」
「ルシアン様!」
一瞬にして泣き顔を貼り付ける。ある意味凄技だ。
「ローラ!? どうした、何かされたのか!?」
嘘泣きの顔にルシアンは見事に騙される。ロラセーヌはルシアンの腕に縋りついた。
「いいえ、ルシアン様。わたしが悪いのです。アメリライラ様のお兄様のことをわたし知らなかったんです。ですのでルシアン様以外の男性の方と一緒に居るのを見て、思わずアメリライラ様に声を掛けてしまって。そうしたら逆にアメリライラ様に注意されました。わたしの知識不足が招いたことです」
ロラセーヌの口の滑らかさには感心する。
「何だと。アメリライラ、そなたローラにそんなことを言ったのか!」
「いいえ」
そしてそれに簡単に手玉に取られる第三王子。これでいいのだろうか。それに、ルシアンは貴族社会の常識がすっぱりと抜けてしまっている。子爵に名を連れながら、他の爵位家の構成を判っていないのだ。それを今まさに自ら暴露したのに、ルシアンは全く気付いていない。
「人前で一方的な思い込みで話をするべきではない、とは申しました。あと、同じ教室で学ぶ方と挨拶をしていただけと」
「ルシアン様。わたしが悪いんです。余計なことを言ったばかりに」
双方から言われても、ルシアンは信じたい方を信じる。
「アメリライラ。そなた、この学園の方針が判っていないようだな」
溜め息をつきながら、ロラセーヌの肩を抱き寄せた。ざわざわと賑やかだった庭園は、ここだけ音を切り取ったかのように他の雑音が一切聞こえない。
「何人たりとも権力を振りかざしてはならない。もちろん、第三王子である私もだ。そなたは公爵という出自を鼻に掛けてローラを蔑んだんだろう!」
とんでもない濡れ衣だ。婚約者であるアメリライラを欠片とて信じていない。盲目的に信じればいいというものでもないが、その片鱗が欠片もないのはどうしてなのか。
「いいえ。そのようなことは一切しておりません」
「嘘をつくな!」
どうしてこんなに嫌われているのだろう。純粋に不思議でならない。
「ルシアン王子」
レイヴンが前に出ようとするのを、アメリライラが制する。ここで言った言わないの問答をしても決着など付かない。明確に否がロラセーヌにあっても、ルシアンはアメリライラを責めるだろう。
「ルシアン様」
アメリライラは一歩前に進み出て、ルシアンに近付く。ロラセーヌはルシアンに肩を抱かれたまま。
「お怒りになられるような言を告げたつもりはございませんが、誤解を与えたのなら、謝罪致します」
アメリライラは震えることなく一気に言い切り、流れるように優雅に頭を下げた──ルシアンに向かって。
貴族社会において公爵が子爵に謝罪するなど有り得ない。けれど、この学園に居る間は身分の差はない。
「もういいんです、ルシアン様。わたしも勉強不足だったんですもの。これ以上アメリライラ様を責めたらお可哀想ですわ」
これには、アメリライラも奥歯に力が入ってしまった。自分の方が優位に立っていると言いたいのか。
「ローラは優しいな」
ロラセーヌを見つめるルシアンの眼差しの甘やかなこと……婚約者が居るというのに。
「そなた、もう下がれ。身体が弱いのなら自分で自重しろ」
「……はい」
アメリライラは決して弱くない。寧ろ鍛練などで鍛えている分、ルシアンよりも身体は強いだろう。ルシアンの前でよく体調が急変するのは仕掛けられた毒物暗殺からルシアンを守ってるためである。特に訂正しないでいるが、ルシアンは全く気付きもしない。
「失礼致します」
周りに集まっていた生徒たちにも挨拶をして、庭園をあとにする。去ったあとで、ロラセーヌの声が響いた。先程のやり取りを、大袈裟に誇張して主張しているのだろう。馬鹿馬鹿しくて付き合う気になどならない。
庭園から出る時、出入口に担任のウィル・グレイシアともうひとり見知らぬ男性が立っていた。背も高く、肩幅もがっしりしている。服の上からでも鍛えられた身体をしているのが判る。眼差しは鋭いようで──優しいものだった。
ウィル・グレイシアと一緒に居るのなら、学園の関係者か教師だろう。一礼して退出しようとした時。
「──やっと会えた……」
そんな小さな呟きが聞こえた気がした。風に乗ってきた音楽に掻き消されてしまうほどの小さな呟き。確かにアメリライラの耳に届いた。
けれど、それはアメリライラに向けたものではないだろう。自分に会いたがる人物に心当たりはない。アメリライラはルシアンの婚約者という立場しかない。オールズヴォールド公爵家は兄レイヴンが継ぐ。そうなれば、アメリライラは早急に実家を出なければならない。ルシアンと晴れて婚姻……となれば大円円だが、婚約はしているがルシアンはアメリライラとは決して結婚しないだろう。となると、第三王子の婚約者という肩書はアメリライラにとって足枷にしかならない。
それでもいい──それでいい。オールズヴォールド家は王家に忠誠を誓っている公爵家。王家の役に立てるのなら、喜んで身も心も捧げる。
オールズヴォールド家に生を受けたことを誇りに思っている。シャンダルジア王国の頂点に立つ王家の役に立っている、という誇りもある。あるけれど──時折、無性に哀しく、虚しくなる時がある。
頭を小さく振り、思考を追い出す。弱い気持ちを捨てる。こんな弱くてはいけない。
私の使命は第三王子を守ること。親衛隊や近衛隊が警護出来ない場面で身を張ること……アメリライラは自分に言い聞かせる。愛し愛される関係は二の次。
なぜかキリキリと痛む胸を抱えて、それでも顔を上げて前を向いて、アメリライラは歩き出す。
背後に置いてきた庭園からは、賑やかな音楽が溢れていた──……