8話 お嬢様はもちろん白い手袋を受け取ります
あのあと、シンリーに心の内を聞いてもらい、気持ちを切り替えて夜の歓迎パーティーの用意をした。ルシアンもアメリライラの部屋に迎えに来た。流石に婚約者を放って別の令嬢の元へ行くのはまずいと思ったらしい。仏頂面は隠してもいないが。
「そなた、ローラに何を言った?」
部屋に入るなりアメリライラに掛けられたのは、低い声だった。いつも聞く不機嫌な声よりもより一層低い声。ソファを勧めても無視され、アメリライラも立っているしかない。
「私の婚約者と名乗るのは致し方がない。事実だからな。しかしそれを振りかざすとは」
ルシアンに言われたことがよく理解出来ない。何のことだ?
「ルシアン様」
「そなた、ローラをはしたないと詰ったそうだな!」
全く心当たりがないことである。ルシアンは一体何の話をしているのか。判らないという表情を浮かべたアメリライラを見て、ルシアンは顔を顰めた。
「婚約者が居る者にエスコートをお願いするのははしたないと言ったんだろう!」
「はしたないとは言っておりません。婚約者が居る身でありながら、それ以外の方のエスコートをすることは有り得ないと申しました」
憤怒の表情を浮かべるルシアンに向き合い、努めて冷静に事実を伝える。
「そうだとしても、それだけではないだろう! 装飾品も自分の宝石はローラには相応しくないと言ったそうではないか! 可哀想に、ローラは泣きそうになりながらも健気にそなたに礼をしなければ、と言っていたのだぞ!」
再び目眩がアメリライラを襲った。随分ロラセーヌに都合よく解釈していることだ。
「そのようなことは申しておりません」
「嘘を言うな! ではなぜローラに宝石のひとつも用意しない!?」
ルシアンはアメリライラの言葉を信じていない。頭から信じようとしない相手に話をするのは面倒なことだった。
「確かにドレスは差し上げました。ロラセーヌ様の寸法で詰めたりしたものですから」
「ドレスの話をしているのではない!」
「ドレスは私の寸法で作られた物でしたので、私の一存でロラセーヌ様に差し上げました。けれど、宝石は私の物ではございません。オールズヴォールド公爵夫妻である私の父母から借りている物です。当主に所有権がある物を私が勝手に他人に差し上げることは出来ません」
「だったらなぜすぐに貸してやらない!」
「オールズヴォールド公爵家の物を、オールズヴォールド公爵家の長女である私が保管していて何か奇怪しいでしょうか?」
どうして第三王子にまでこんな説明をしなければならないのだろう。ルシアンの目を見つめながら淡々と説明したアメリライラに、多少は気概が削がれたらしい。
「国王陛下の勅命があれば臣下の財産を押収することも出来るでしょうが」
「うるさい! もういい、黙れ!」
大きく舌打ちをしたルシアンは忌々しそうに部屋の中を歩き回る。
「女が余計な知恵を付けるものではないな、全く! 賢しい女が婚約者など、全く持って安らぐことなど出来ん!」
アメリライラの学力や武術は努力して身に付けたもの。幼いころから、必死に頑張ってきた。強くあれ、王族を守れるくらいに強くなれ──そう言われ続けて、努力し続けることが当たり前だった。賢くなることを褒められこそすれ、賢しいから忌避されるなど理解出来ない。
アメリライラは何も言わずに、苛々と歩き回るルシアンを見る。ロラセーヌは何をどうルシアンに吹き込んだのだろう。取り敢えずアメリライラの心証を悪くしたいのだろうが、元々ルシアンはアメリライラのことを嫌っているのだからそれはもうどうでもいいことだ。
考え込み始めたが、思考を振り払う。何をどう吹き込んでいてもどうでもいい。ロラセーヌがアメリライラに戦いを仕掛けてきたことに変わりはないのだ。アメリライラから、ルシアンの婚約者の立場を奪おうとして。
ルシアンがアメリライラのことをどう思っていようとも、アメリライラの決意は変わらない。凪いだ目をして、ルシアンをただ見ていた。
「そなたは賢しいくせに、私の機嫌を取ることもしないな!」
機嫌を取ったら取ったでまた文句を言うだけだろうに、ルシアンはいつも矛盾したことを言う。
ルシアンはアメリライラの部屋のテーブルの上に置かれた硝子細工の容器の蓋を取り、中に入れてあった小さなチョコレートを手に取った。アメリライラの許可も取らず、口に入れる物について怪しむこともなく、躊躇いなく食べた。その警戒心のなさに、内心溜め息をつく。何度口を酸っぱくして言っていても、当の本人はこの有様だ。アメリライラの部屋にある物、という安心感はあるだろうが、それについても何者かが入れ替えたということも考えられなくはないのだ。もっと危機管理能力を鍛えてもらいたい。
糖分を摂って少し落ち着きを取り戻したらしい。ルシアンが服の襟を整え、髪を撫で付ける。目線で促す……というよりも睨み付けるようにして、アメリライラに会場に行く意を伝えた。ルシアンも気持ちの切り替えが出来たらしい。さっさとひとりで部屋を出る。
「よろしくお願い致します」
アメリライラも歩み寄り、一言掛けてからルシアンの左肘辺りに右手を軽く添える。ルシアンは返事もせずに歩き出した。
──いつもこのふたりは、こうして噛み合わない。考え方の違いなのか、見ている未来が違うからか。
双方ともに未来が見えないのに、婚約者として近くに居ないといけない。破綻は──近い。
* *
着いた先は、夜の庭園だった。王宮の宮庭にも引けを取らない広々とした庭園に、眩い灯りを灯し、幻想的な光景を醸し出している。
いつもなら庭園から建物の中に入る扉が、今日はそこがパーティー会場に入る扉になっている。扉の両脇に控えた係りの者が、ルシアンとアメリライラに目線を送り、自分の相方とタイミングを計る。
「ルシアン様、どうぞ」
庭園で演奏している音楽と、第三王子の入場はピッタリだった。ルシアンとアメリライラが庭園に進んで行くと、割れんばかりの拍手が沸き起こった。学園に籍を置く限り、身分は問わないとした学園の方針だったが、歓迎パーティーばかりは別だったらしい。この歓迎振りに、ルシアンの機嫌も良くなった。
「ルシアン様、どうぞこちらへ」
世話をしてくれる係りの者がルシアンとアメリライラを上座の方へ誘導する。そこは壇上が設けてあり、学園長のダルジニアスが待っていた。ルシアンは壇上へ登り、アメリライラはその下に控えた。ダルジニアスが片手を上げると拍手が止まり、ルシアンに注目が集まる。
「──えー、諸君! まずはこの王立学園への入学おめでとう! 学園長として、君たちの入学を心から歓迎する!」
恰幅の良い身体に似合いの、大きな声で挨拶を始めた。上に立つ人間、長を務める人間は何故か長話が好きである。アメリライラが以前通っていた時もこのダルジニアスが学園長だったが、その時も随分長い話にうんざりしたことがある。貧血で倒れた女生徒も居た。今日もそれかと思ったが、案外すんなりと挨拶は終わった。見ていると、ルシアンをすぐ隣に呼び寄せた。
「今年はとても素晴らしいお方が入学して下さいました! 第三王子のルシアン王子殿下です!」
この先どうなるか、アメリライラはハラハラする。こんな大々的に公表するとは思わなかった。
「こんな素晴らしいお方と一緒に学べるという機会はそうそうありません! またとないこの素晴らしい時を精一杯頑張ってもらいたい!」
ダルジニアスは満面の笑み。ルシアンも連れて微笑んでいた。自尊心が大いに擽られているのだろう。自分は違うという優越感。確かにルシアンは第三王子──特別な人間である。しかし、それは相応の責任を伴う特別だ。ルシアンはそれをどこまで理解しているのだろう。
「ルシアン王子殿下、一言お願い出来ますかな?」
ダルジニアスの催促に、小さく咳払いをしてルシアンが応じる。
「私は、第三王子のルシアンである。この度この学園にて学ぶ運びとなった。そなたたちとともに学ぶこの機会を有り難く思う。そなたたちと同じ市民となってこの機会を有意義に過ごしたい」
突然の挨拶の依頼だったが、多少声が震えただけで無難にこなした。内容は微妙なものだったが。ルシアンは周りにチヤホヤされるのが好きだ。再び割れんばかりの拍手に包まれ、上機嫌で壇上から降りてくる。自分が最上位の主人公のように扱われたのがよっぽどお気に召したようだ。その延長でアメリライラにまでその笑顔を見せてきた。アメリライラは内心密かに驚く。こんな表情を真正面から見るのは初めてだ。
ルシアンが壇上から降りたことで、パーティーの開始となった。庭園全体がわぁッと熱を持つ。衣装を持っていない生徒たちも、無事に用意してもらえたらしい。華やかな装いが賑やかさに一役買っている。
「ルシアン様!」
この人数での中でも愛しい人の声は聴こえるものなのだろう。可愛らしい声にルシアンの表情が輝いた。
「ルシアン様! とても素敵でした!」
既にアメリライラの物ではなくなった桃色のドレスを纏ったロラセーヌが駆け寄ってくる。首元と耳には、つい先程アメリライラが貸し出した小さな宝石が灯りを反射していた。
「ローラ! そなたどこに居た?」
「ずっと近くに居ました! 少しでもルシアン様の近くに居たくて」
人目がなければそのままひしと抱き締めていたに違いない。
「アメリライラ様。今日はわたしのために色々とありがとうございます! アメリライラ様のお陰でこんな素敵なルシアン様を見ることが出来ました!」
「いえ……」
ロラセーヌはルシアンの横に立つ。そこはロラセーヌの立つ場所ではないのに。
「アメリライラ様。でもこの宝石、少し小さくありませんか?」
真っ更の無邪気さでロラセーヌが仕掛けてくる。ルシアンはもちろん「そうだな」と追従した。
「いいえ。そのドレスの襟の形ではそれぐらいの宝石でないとバランスが取れません。大きければいいというものではありませんわ。それにそれぐらいの方がロラセーヌ様が持つ雰囲気に良くお似合いです」
「まぁ、そうなんですか? ルシアン様、本当にわたしに似合ってます?」
そう言ってロラセーヌはその場でくるりと回転して見せた。夜会ではダンスの時以外には考えられない行動だ。ルシアンはうっとりと目を細める。
「あぁ、心配ない、ローラ。良く似合っている」
「良かった! もしかしたら、アメリライラ様はわたしだからこんな小さな宝石しか貸してくれないのかと思ってしまっていました。わたしのことを思ってこの宝石を貸して下さったんですね!」
にっこりと笑う瞳の奥には違う感情がある。
「アメリライラ様のドレスも宝石もとても素敵です」
「ありがとうございます」
「ローラ。そろそろあちらへ行こう」
「はい、ルシアン様」
婚約者を放って他の令嬢と過ごす。その問題の大きさに、ルシアンは気付いていない。アメリライラは扇で口元を隠し、小さく息を吐いた。踵を返しかけたロラセーヌが、ついとアメリライラに肩を寄せる。
「アメリライラ様が着けている宝石はわたしに貸して下さった物より大きいんですね。他人に貸すのは自分のより小さい物にするだなんて、アメリライラ様も意地が悪いですね」
ふふ、と如何にも楽しそうに内緒話をするように毒を吐く。
「あら、先程の説明ではご理解頂けなかったのですね」
反論されると思っていなかったのか、ロラセーヌが僅かに目を見開いた。なぜ、言われるままにしていないといけない?
「理解してますよ。アメリライラ様も、わたしが言った意味が判らないんじゃありませんか」
「ローラ? どうした?」
ルシアンの掛け声に、ロラセーヌはすぐに反応する。ドレスの裾を持ち上げて、ルシアンの元へと走って行った。
何だ、この中途半端な状態は。暗殺を仕掛けてきたなら、いくらでも防ぎようはある。この身体を楯にすることも剣にすることも出来る。けれど、こんな風に言葉だけで嫌がらせにもならないことを言ってくるだけとは。
中途半端過ぎて、却って苛々する。