6話 お嬢様は衝撃を受けました
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アメリライラは初めてルシアンと一緒に勉強することになる。もちろんふたりきりではなく、学園の教室の中で、だが。
教室の前方には担当の教師。見るからに優しい性格をしていそうな教師である。これからこの教師に着いて勉強するのだ。
アメリライラはあくまでもルシアンの警護を重点においてあるのだが、勉強を兼ねてのことに純粋に楽しみにしていた。これからどんなことを学べるのだろう。以前通っていた時とは全く違うことが学べるのだろうか。座学ももちろんだが、この学園では体術の授業もある。これも非常に楽しみだった。
「僕はウィル・グレイシアといいます。これから一緒に頑張っていこう」
気持ちの良い声だ。きちんと腹から出している声。広い教室の隅々まで響き渡る。
「今日は栄えある入学の日。学園での記念すべき第一日目だ。今日の夜、学園主催の立食パーティーを予定している。服装やマナーなどは問わないので、是非みんな参加してもらいたい」
ウィル・グレイシアがそう伝えた途端、教室の中が騒つく。今日の今日で、その日の夜とはまた急だ。ここで学ぶ者は貴族ばかりではない。国の地方から必死の思いで通ってくる市民の方が多いのだ。学園の中では何人たりも身分を振りかざすことを禁止されている。みなが平等に学ぶ機会を与えられているといっても、一度も夜会に出席したことがない市民にとってはハードルが高いだろう。
「服装についても不安になることはない。心配事がある者が居たら、あとで相談に来るといい」
ふと気付いて、アメリライラは教室内を見渡す。ルシアンと先程の少女ロラセーヌにばかりに気を取られていたが、自分の他に女生徒が居ない。そういえば、以前通っていた時も女生徒の数は極端に少なかった。まだまだ子女は家の中に居るものとされているのだ。
必要とあれば、自分のドレスや飾りを貸した方がいいと思ったがその必要はなさそうだ。
「それと、重要なことだからもう一度確認しておく。ここに在籍している間は、身分の差はない。みな同じ学ぶ者同士だ。身分を笠に権力を振りかざしたりすることのないように」
教師の言葉に、アメリライラはハラハラてした。ルシアンが真っ先に文句を言うかもしれない。特別扱いしなくてもいいと言ったくせに、特別扱いされないと機嫌を損ねる王子なのだ。しかし、教師の言葉にルシアンが何か文句をつけることはなかった。
「後々、他の教科の教師とも顔合わせがある。しっかり学ぶように。では解散。また夜に」
ウィル・グレイシアは教室を出て行った。姿が見えなくなると、教室内は一気に騒がしくなる。ルシアンの周りに生徒たちが群がった。
「お、王子なんですか……?」
「さっき王子殿下って、言われてましたよね!?」
興奮したように、けれど少し畏れながら、口々にルシアンに声を掛ける。群がりながら決してルシアンに触れていないのは畏れが勝っているのだろう。爵位を持つ貴族ならともかく、本来であれば一般市民ではまず王族に近付くことも出来ない。
「……そうだ。第三王子だ」
若干驚いた表情をしつつも、ルシアンは素直に答えた。ルシアンも初めてのことに驚いているのだろう。第三王子も、同年代の市民たちと触れ合ったことはないはずだ。
「す、凄ぇ! 本物の王子なんですね!」
「うっわ、おれ初めてだ! 王族の人に会うの!」
「馬鹿、みんなそうだよ!」
一気に蜂の巣をつついたような騒ぎになった。生徒たちに阻まれて、アメリライラは近付けない。
「さっきの女の子も、子爵って言ってたよな! 凄ぇ、王子様に子爵様だぜ! 普段なら近付けない人たちだ!」
新入生たちの身元は事前に調査してあるはず。ルシアンに危害を加えるようなことはないと判っているが、心臓に悪い。
「ねぇ、君は?」
その内のひとりがアメリライラに興味を示した。ルシアンの隣に居たのだからその興味も当然だろう。アメリライラが挨拶をしようと口を開いた時、一陣の固まりが飛び込んできた。
「ルシアン様! お会いしたかったですッ!」
隣の教室からロラセーヌが突撃してきた。会いたかったといっても、つい先程離れたばかり。なかなかに情熱的である。
「ロラセーヌ!」
ルシアンの表情も輝いた。またもや初めて見る顔だ。
「こんなに時間が経つのが遅く感じたのは初めてです!」
ロラセーヌは躊躇うことなくルシアンの手を取り、自分の両手で握り込む。情熱的で、積極的だ。
「嬉しいことを言ってくれる」
「お約束した、お昼をご一緒に頂いてよろしいですか?」
「あぁ、もちろん」
頬を紅潮させて、僅かに小首を傾げる。なるほど、確かに可愛い。ああやれば可憐らしく見られるのか。今まで見たことのないやり取りに釘付けになる。勉強にはなるが、自分にはとてもやれそうにはない。
「今日はお天気がいいので、お外は気持ち良さそうですね」
「だったら外で食べることにしよう。アメリライラ、準備をしてくれるか」
それを自分に命じるのか。アメリライラは絶句する。
自分の婚約者が、他の令嬢と食事をともにするだけでも業を煮やすこと。その上、その準備までしなければならないのか。アメリライラが直接準備するわけではない。ないが、手配をしなければいけないのはアメリライラだ。
ルシアンが、ロラセーヌと食事をするために。
アメリライラは感情を殺す。いつもしていることだ。ルシアンは例のごとく、何も考えていないに違いない。ルシアンにとって、この学園でのことは人生で初めてのことだ。恐らく、こんな風に積極的に迫られたこともない。貴族は礼節を重んじている。
非日常の中で、自分を大きく見せたい、この少女に自分の格好良いところを見せたい、という気持ちが伝わってくる。けれど、今この場に侍従や侍女は居ない。居ないから、代わりにアメリライラに命じたのだ。ただそれだけである。自分の婚約者であるアメリライラに。その意味を考えてはいない。
ルシアンは生粋の王族。命じれば何でも叶うと思っている。それがどんなに傲慢なことでも、婚約者には、どのような仕打ちをしてもよいと。これほどの侮辱はないのに。
「まぁ、そんな……アメリライラ様がそのようなことをされるのですか?」
ロラセーヌが目を見開いて、さも驚いたという表情を浮かべる。
「あぁ、任せておけばよい。以前にもこの学園に通っていたのだからな」
「まぁ、そうなのですか?」
「アメリライラ、私たちは中庭に行く。待っているから早くしろ」
中庭へ行くのなら、親衛隊が警護するだろう。スカートのフレアの間に握り拳を隠し、奥歯を噛み締める。間違っても不満を顔に出すことはしない。ルシアンの婚約者は自分、というプライド。にっこりと笑顔を浮かべる。
「畏まりました。少々お待ち下さいませ」
アメリライラの返事も聞かずに背を向けたルシアンに淑女の礼を取る。優雅に、完璧に──社交界で絶賛される素晴らしい礼を。
声は上擦っていなかっただろうか。震えてはいなかっただろうか……怒りで。噛み締め過ぎた奥歯が、顎が痛い。感じる怒りは腹に沈めよう。沈めてしまえば、浮き上がってこない。そんなアメリライラに、背後から躊躇いがちに声が掛かる。先程声を掛けてきた人物と同じ声だった。
「あ……き、君は王子様のお付きの人なの?」
衝撃は、またアメリライラを襲う。王子のお付き。第三王子の婚約者の自分が、王子のお付き!
心臓がばくばくと激しく鼓動する。何が起こっても、必ずルシアンを守ると誓った。実際、何度も暗殺を防いできた。けれど──自分の心を守ることはしてこなかった。
嫌われていてもいい。アメリライラの役割は、ルシアンを守ること。愛し愛され、未来を見ることは含まれていない。
アメリライラは何度も自分に言い聞かせる。ルシアンのために。王子のために。王家のために。オールズヴォールド公爵家のために! 父のために、母のために、兄のために! アメリライラは今日も自分の感情を──殺した。
* *
「ローラの言う通りにして良かった。本当に気持ちがいいな」
「まぁ、ルシアン様。ありがとうございます。わたしもこんな風にルシアン様と過ごせるとは思いもしませんでした」
爽やかな風が吹く中庭。いつかのお茶会の時のように、吹く風は同じなのに漂う空気は全く違う。アメリライラはカップの紅茶を黙って飲む。既にルシアンはロラセーヌを愛称で呼ぶ。アメリライラが外での食事を手配している間に、随分と親密になったらしい。
中庭の木陰にテーブルを運び、上から虫や葉が落ちてこないように簡単な天幕を張り、豪勢な具を挟んだサンドウィッチや温かい紅茶を用意する。言葉にすれば簡単なようだが、もちろん実際にやるとなれば簡単ではない。大きい荷物を運んでセッティングした親衛隊、急いで食事を用意した料理人、細かい気遣いで給仕する侍女たち、全てを手配して采配したアメリライラ。それらの人々に向けて言ったルシアンの言葉は──「遅い。私を待たせるな」だった。労いの言葉は、一言もない。
せめてもの救いは、テーブルに出された食事は3人分であること。アメリライラの分もある。アメリライラが同席することは許されたらしい。話をすることはないが。
「ローラは今日のパーティーはいつごろ行くのだ?」
ルシアンはロラセーヌの方に身体ごと向き、アメリライラに背中を向ける。
「わたし、パーティーには参加しません」
「なぜ?」
ルシアンの背中越しに、漏れ聞こえる会話を耳が拾う。いつもと同じ。何が聞こえてきても、聞き流せばいい。
「わたし、パーティーに出席出来るようなドレスは持っていないんです……お恥ずかしいことですけど、わたしの家はそんなに裕福ではなくて」
ルシアンは軽く動揺しているようだ。背中を見るだけでも判る。
「そうなのか」
「はい。ですから今日のパーティーは欠席します。ルシアン様の麗しいお姿を見られないのはとても残念ですけれど。仕方ありません」
恐らく、着ていく服がないなどとルシアンは初めて聞いたに違いない。王宮のルシアンの衣装部屋には膨大な衣装が詰め込まれている。
「王宮の仕立て人を呼ぼう」
一体何を言い出すのか。
「まぁ、ルシアン様。何を言うのですか!?」
「服がないから出られないなんて、そんな理由で諦めるとは忍びない。私が用意してやる」
「ルシアン様……」
感極まったようなロラセーヌの声。この王子も何を言い出すのか。ドレス一着作るのに、どこから用立てするつもりだろう。宮廷費からだろうか。宮廷費から子爵令嬢のドレスを作るつもりか。
「でも、今からでは間に合いませんわ」
どれほど腕の立つ職人が手掛けても、昼に作り始めてその日の夜に仕立て上げるのは不可能であろう。
「しかし、それではそなたが不憫だ」
「ルシアン様……何てお優しいお言葉」
紅茶が冷めていく。サンドウィッチの繊細なパンが乾いていく。たくさんの人たちの心遣いが固くなっていく様を、アメリライラはただ眺めているしか出来なかった。
「そうだ、そなた」
唐突にルシアンがアメリライラを振り返った。そこにアメリライラが座っていたことは認識していたようだ。
「そなた、ローラにドレスを貸すのだ」
この日、アメリライラが受ける衝撃は一体何度目だろう。
「……はい?」
思わず聞き返してしまっても致し方ないこと。しかし、アメリライラの反応はルシアンの気に入るものではなかったようだ。眉間に不機嫌の象徴の皺を寄せる。
「そなたが持っているドレスがあるだろう。それをローラに貸せ。一番上等な物をな。もちろん宝石もだ。よいな」
「ルシアン様」
声も出ないアメリライラの代わりに、ロラセーヌが熱くルシアンの名を呟く。またもや奥歯を噛み締める。顔に出してはいけない。
「よろしいのですか? わたしのような者に。そのような図々しいことを」
「構わないよ、ローラ。図々しいことなど何もない。困っている女性を助けることは王族にとって当たり前のことだ」
「ルシアン様……何てお優しい」
こんな展開を見ているなど、とんだ茶番である。ちらりと中庭を見回すと、警護にあたっている親衛隊の姿が目に入った。であれば、ここでのアメリライラの警護は不要である。
「少し、冷えたようです。私は失礼致しますね」
「そうか」
「まぁ、アメリライラ様。帰ってしまわれるのですか?」
「えぇ。何かと用意をしなければなりませんので」
「アメリライラ様も、わたしのために何てお優しい……! ありがとうございます!」
胸の前で両手を組み、頬を紅潮させて瞳を潤ませながら見上げてくる。確かに、可愛くて可憐らしい。庇護欲を掻き立てられる。ルシアンはこういう女性を気に入るのか。アメリライラは気に入られないはずだ。
王子に対して失礼にならないように礼を取り、中庭を足早に抜ける。早く、速く、部屋に入りたい。誰にも姿を見られない場所に。
笑顔を貼り付けなくてもいい場所に──……