4話 お嬢様の預かり知らぬこと
「ジャスティ・フィティマ=シャウスト・ド・オールズヴォールド、参りました」
シャンダルジア王国国王、ハクミリディオンの執務室の扉をノックする。
「入るがよい」
室内からは低い声が伝わり、ジャスティの入室を許可した。執務室までジャスティを案内してきた侍従長が扉の傍で待機する。
「失礼致します」
前もって人払いをしてあるのだろう、室内には他に誰の姿もない。侍女長が入室を求め、お茶の用意をすると速やかに退室していった。まずは一口飲む。ミントの香りが鼻に抜ける、気持ちのよいハーブティーだった。
「……最近はどうだ?」
ハクミリディオンが先程と打って変わって親しみを含んだ声音で話し掛けてくる。
「変わりないよ。いつもと同じだ」
ジャスティも気さくに返す。ふたりは王立学院での同級生であった。身分を超えて気が合い、今でもこうして一緒に居る。
「……いつもと同じ、ということはないだろう。アメリライラ嬢は健やかか?」
眉を顰めたハクミリディオンは、その気持ちのまま声に乗せた。ジャスティの娘、アメリライラ。ハクミリディオンが無理を言って自身の息子、ルシアンの婚約者になってもらった。良くも悪くも、王子として育った息子はどこまでも頼りない。皇太子は身体が弱く、いつも伏せっている。第二王子は一度他国への留学を許したらいつまで経っても帰ってこない。残っているのは第三王子のみ。三子に恵まれたのに、どうしてこうも上手くいかない?
手元に居るルシアンに取り敢えず帝王学を教えようにも、当の本人はプライドだけは高いがそれに実力が伴っていない。なかなかに面倒臭い性格をしていた。
プライドは高いが、人の本質を見抜くことが出来ない。自分に見せる面だけを見て、その為人を判断してしまうのだ。それはとても危険な傾向である。
そのために、頼み込んでアメリライラに婚約者になってもらった。アメリライラはオールズヴォールド公爵家の令嬢。昔から多くの優秀な大臣を輩出し、軍事でも何度も武勲を立てている。財力は言うに及ばず、知力、武力全てが他の公爵家よりも抜きん出ている。そして、現当主は自身の親友とも言っていいジャスティ。ハクミリディオンも必死だった。
オールズヴォールド公爵家のアメリライラが傍に居てくれれば。その堅実な生き方に少しでも触発してくれれば。そうすれば、もっと頼りある王位継承者になってくれるかもしれぬ……そんな思いを籠めて。しかし、それは今のところ報われていない。
「健やかだよ。時々吐いたりはしているようだが」
ジャスティの短い返事は、ハクミリディオンの胸を抉った。
「ジャス……それは、ルシアンを庇ってだな?」
愛称で親友を呼べば、その親友は僅かに怒りを灯した目でハクミリディオンを見ている。
「最近ではイザベラ第二側妃の茶会に呼ばれた折りに吐いたようだな」
茶会に呼ばれたから吐くなど、有り得ない。生来身体が弱いとか、その時体調不良だったとかの理由であるならともかくだが、アメリライラの身体の強さはジャスティの折り紙付きだ。
「……何を食したのだ?」
「ネリの葉入りのクッキー、だそうだ」
毒入りクッキーを食べた娘の親は冷静で、害した相手の関係者は非常に焦っている。ハクミリディオンは国王でありながら、ジャスティの足元に平伏してしまいたかった。しかし、ジャスティはそんなことは望まないだろう。自身が国王であるが故に。国王である彼は、親友にも容易く謝罪することも出来ない。
「側妃か」
小さく呟けば、即座に「無論」と返ってくる。頭を抱えたくなった。
「アメリライラ嬢はどうしている。どこか不調は」
「すぐに全て吐き出したらしい。あとは汗をかいて発散した。今はどこにも不調はない」
どうしてこうなるのだ。ルシアンの補助や成長を願ってアメリライラを傍に置いた。それなのにルシアンはアメリライラを大切にせず、側妃は無駄に第三王子を狙う。ルシアンを庇って、アメリライラが身体を損なう。
「申し訳ない……心から、謝罪する」
ハクミリディオンはせめてもの謝罪の姿勢として、座っている膝まで頭を下げた。ジャスティはそれを目を細めて見る。目の前の光景に、臣下として、親友として、親として、複雑な思いが胸を占める。謝罪が欲しいわけではない。国王に頭を下げさせたいわけでもない。けれども、親として──傷付けられた娘の父として。同じように、頭を下げた。
* *
「──ルシアンの気持ちも、判らんではないのだ」
侍女長に新しい紅茶を淹れてもらい、改めて話をする。
「私も、学院へ通っていたからこそ、そなたと出会った。人との出会いは宝だ。ルシアンにもそんな出会いがあればよいと思って一年だけ許可したが……」
ハクミリディオンの眉間の皺は深いまま。
「新しい環境に身を置いて、そこでなければ得られない知識や実技、諸々のことを吸収してもらいたいと思ったが……あれにはなかなか届いておらん。王宮や私から逃げる口実のように捉えておる節がある」
「まだ成人前であれば、仕方のないことかもしれんぞ」
シャンダルジア王国では18歳が成人とされている。第三王子ルシアンは、アメリライラと同じ17歳であった。
「成人前と言っても、ルシアンは第三王子だ。他の市民たちと同じではいかん。貴族や市民たちの手本とならなければならぬ」
ハクミリディオンは、常であれば絶対に口にせぬ心の内を吐露した。ジャスティは黙って聴く。
「手本になり、重責を負う。そのための王族だ。そのために王宮に住んでいるのだ。だからこそ、ここに住むことが出来るのだ。それをあやつは判っておらん。ただただ、そこに産まれた幸運を享受しておるだけだ」
国王の心の内を聴きながら、ジャスティは紅茶を飲む。国のトップの人間は、容易く愚痴を吐くことさえ出来ない。ハクミリディオンの心痛を少しでも和らげるために、黙って聴く。
「学園に通いたいと言い出した時は上手く変わればと思って許可はしたが……」
口内を潤すために紅茶を飲んだ。温かい飲み物は、その温度だけで凝った身体を解してくれる。
「あやつの意識を変えねば、この先は難しいかもしれぬ」
ジャスティはテーブルにソーサーを置いた。口出しをするべきではないかもしれないが、これだけは確認せずにはいられない。
「ひとつだけ、お伺いして宜しいか?」
言葉使いを改めたジャスティに、ハクミリディオンは目線で頷く。
「イザベラ第二側妃を、どうされるおつもりか?」
第二側妃、国王の妻。
ハクミリディオンの正妃──王妃は既に亡い。第一子である王女を産んだあと身体を壊した。小さく産まれた王女は成長出来なかった。それでも再び命を賭けて、第二子である皇太子を産んだ。皇太子の誕生とともに、王妃は儚くなった。
国王が愛した妃は、王妃ただひとりだった。けれども、跡継ぎは身体が弱い。身を引き裂かれるような思いをしながら、側妃を迎えた。第二側妃に王子がひとり、第三側妃にも王子がひとり産まれた。寵愛があったからではない。それは非情にも義務からだった。
王子を産んだからといって、ハクミリディオンは側妃を王妃に召し上げることはしなかった。だからこの国の最高位である王妃の席は空いたままだ。これからも、ハクミリディオンが側妃を寵愛することはないだろう。
第二側妃はそれが判っているからこそ、焦っている。第三王子の生母、セシリア第三側妃は健康であったにも関わらず、原因不明の衰弱を見せ、命を落とした。ルシアンはその時、僅か3歳だった。
イザベラは5歳の息子に向ける愛情を、気紛れのように時折ルシアンに分けた。母の愛に飢えていたルシアンは、イザベラを母として慕うようになった。時折にしか与えられない愛情であっても、縋る思いだったのだろう。自身の産んだ第二王子を次期国王に、と狙うイザベラにとって暗殺してでも排除させたい人物になった今となっても、それに気付きもしない。
「側妃とはしたが、私から望んだことは一度としてない。しかし、子を成したからといって母親だけを廃妃とするには世論が許さんだろう。国が乱れる原因となる」
王妃が居ない今、この国の最高位はイザベラ第二側妃である。しかし、だからといって犯罪を犯しても処罰されないということは決してない。
「法を犯しているが?」
「今慎重に調べておる。側妃といえど、罪を犯せば罪人だ。だが廃妃となり咎人となり下がるとなれば抵抗は必死。膿を出し切るには関わった者全員を処罰せねばならぬ」
「国王が側妃を処罰するとなれば、国が乱れるのは必須。それでも、意向に変わりはあるまいか?」
ジャスティの重い問い掛けに、ハクミリディオンは力強い目を向けて頷いた。
「無論。膿を出さなければ、この国の未来はない。このまま何もせずに私が死ねば、側妃に群がる羽虫にこの国は喰い尽くされるであろう」
紅茶を飲む。このハクミリディオンが死んだら、この国はどうなるだろう。瓦解するかもしれない。オールズヴォールド公爵家はいつまでも王家とともに在る。王家が滅ぶのなら、オールズヴォールド公爵家も滅ぶ。滅ぶにしても、国の行く末は守らねばならない。
イザベラは、操り人形だ。本人はそんなつもりはないだろうが、イザベラの親族にとったら実に都合の良い傀儡である。自分の目先の欲求しか見えていない。今でいうと、第三王子の暗殺。そして第二王子を玉座に据えること。そうすれば王家を自分の物に出来る。自分の自由に出来ると思い込んでいる。そんなこと有りはしないのに。
「我がオールズヴォールド家はいつまでも王家とともに。陛下のお心とともに」
ジャスティは臣下の礼を取る。この国が栄えるならそれは喜ばしいこと。しかしそれだけでは足りない。この国王陛下が居なければ、この国の発展はないとジャスティは見ている。
「助けてくれるか」
「御意。微力ながら、力の限りお助け致します」
臣下の礼を取り続けるジャスティの隣に移動し、肩に手を置いた。
「……許してくれるのか」
顔を上げたジャスティと目が合う。深い深い濃藍の、海のように深遠な藍の瞳。この瞳の色は、まろやかになって娘の瞳にも受け継がれている。
「許すよ。臣下ではなくて、友として」
ジャスティの大きな言葉に、ハクミリディオンは頭を下げずにはいられない。両肩に置いた手は気持ちのままに力が入った。
「済まない……そなたの大切な子を危険な目に遭わせた。必ず、この償いはする。そなたたちオールズヴォールド家にも必ず報いることを約束する」
顔を上げたハクミリディオンの目には、薄く笑うジャスティが映る。この笑い方にハクミリディオンは見覚えがあった。親友をからかう時の笑顔だ。最近は見ることのなかった、懐かしい笑顔。
「オールズヴォールド家は、高いぞ? 王家で賄えるかな?」
ジャスティの軽口に、ハクミリディオンも笑顔を浮かべた。頭の中に、懐かしい学院時代が甦る。
「足りない分は働いて補うことにしよう」
口角を上げて笑ったジャスティはハクミリディオンの手を軽く叩いた。互いに、重さは違えど背負っているものがある。誰かに肩代わり出来るものではない。けれど気持ちを労ることは出来る。
「自分の領分を、頑張るとするか」
「そうだな」
一言に籠められた意味。それは充分に判っているから、余計なことは言わない。やるしかないのだ。
アメリライラの知らないところでは、こんなやり取りが交わされていた。